オイリュトミーって何?・・・その1「僕にとってのオイリュトミー」
オイリュトミーって何ですか?ってよく訊かれます。
知識のある方からは、あなたはダンサーだけど、どうしてそんなに熱心にオイリュトミーをやるの?とも・・・。
そこで、不定期ながら、オイリュトミーについて徒然日記を。『ダンスノート』とあわせて、よろしくお願いします。
まず今日は、手始めに僕自身のオイリュトミーへの思いを・・・。
僕は、オイリュトミーを「生活者の踊り」の一つだと思っています。
劇場で舞台芸術を見て魂に水をあげるように、お稽古場で踊ることによって命を支える「日々の」踊りだと思います。
近代、踊りの発展は常に劇場にありました。プロフェッショナルな、「凄い」と言われるテクニック、魂をゆさぶる表現の歴史、それが僕らの時代の舞踊史です。イサドラ・ダンカンとか、ニジンスキーとか、最近ではピナ・バウシュや、わが土方巽はじめ、まさに魂の叫びが僕らの背中を押してくれる時代に僕らは恵まれました。
そんななかで、あえて「だれもが踊る」「踊ることは、人間の根源的な営みだ」という、とても大事なことにピントをあてたのが、「オイリュトミー」だと、僕は感じています。劇場ではなく、生活のなかで体験する、非日常。あるいは越境・・・。
でも、本来、踊りはそうしたものです。「うれしい、悲しい」を踊り、心体を清めて明日を迎える。それが、踊りの原点です。
子供たちは皆、いまもそうしていますよね。
お友達ができた!しかられた!おいしいね!もう眠いよ!なんて、そこいらじゅうで踊っています。
大人だって、それを止める手はありません。昔の人はそうしていました。踊りながら、泣いたり笑ったり、そうやって僕らは何万年もの時をすごしてきたじゃないか、っていうのが、オイリュトミーをつくったシュタイナーという人のメッセージだと思っています。
今日もオイリュトミーのクラスを行いました。クラスのあった夜は、なぜかとても落ち着きます。10年ほども繰り返しているのですが、ず~っと、そうなのです。
クラスの人たちと「こんな感じですよね」なんて言いながら2時間たっぷり踊る。それなりの準備も下稽古も必要だし、かなり集中して教えるので、疲れそうなものなのですが、ス~ッと何かが体内を通り抜けていくのです。
教えつつも何かもらっている気がする。お互い生活者として同じ土俵に立っている、という感触。
勇気というのでしょうか、でも、もっとささやかで、もう少し柔らかい、何か・・・、これを「光」と呼ぶのでしょうか。
生活の大部分を、僕はダンスに費やしています。
僕のダンスをコンテンポラリーダンスと呼ぶ人も、舞踏と呼ぶ人もいます。どちらでもいっこうにかまわないのですが、いづれも表現としてのダンスにはちがいありません。
表現とは相手あってのこと。
ですから、稽古でも本番でも、全部出し切ります。
時間の長さに関わらず、燃え尽きるまでやる、ウマイとかヘタとかはその次の話(このフレーズ、ダンスクラスの人はおなじみですよね!)それがダンスのいいところ。
そんなダンスと切り離せぬ関係で、ずっとやってきたのがオイリュトミー。「よいリズム」っていう意味です。
やはり踊りには違いないのですが、表現としてのダンスとは本質的に何かが違うのです。
第一に、オイリュトミーでは、必ず他人の書いたテキストや音楽を踊ります。
自分自身の内面はなるべく静かにし、心の動きはその結果として、「どうしてもにじみ出てくる」、ということにとどめます。真摯な態度で創られた音楽やポエムには宇宙のリズムが必ず反映しているから、それを踊るということは僕らを生み出してくれたこの世界の生命リズムを呼吸することだ、という根拠がオイリュトミーを支えています。だからオイリュトミーでいちばん大事なことは、「信頼」ということ。批評したりしようとしないで、一生懸命に共感しようとする力が体を動かすんだっていう態度です。
第2に、オイリュトミーは、その体系・形式自体がルドルフ・シュタイナーという個人の芸術作品です。非常に明快な法則性をもつように、あらゆる動きが提示されており、それを練習していると良書を読んだ時のような感動がじわっと来るんです。オイリュトミーを踊ることは、シュタイナーを味わうことに限りなく近いということでしょうか。彼の書物は正直言って難しい。
1行づつ、じっくり読んでほしい、なんてことが、しっかり前書きしてあります。そんな書物を書いた人が吟味した身振りの数々・・・。シンプルなのに、「いい」んです、これが!
第3には、治療効果の高さ。
オイリュトミーは、人体の構造に非常に素直にフィットしたスタイルをもっているので、整体効果がきわめて高いということ。その人体構造というのは、停止したものではなくて、いつも心と一緒に動き続けているという前提にたっている。
人体そのものが本質的に、感性・心・肉体(シュタイナー本人いわく、アストラル・エーテル・フィジカル)という3つの連係プレーによって存在しているという前提をもっているので、日常生活やライフスタイルそのものに還元しやすい。ということです。
ちなみに、僕自身はというと、怒りっぽさがなくなってしまい、なんだかのんきになったような?!・・・。実は出番前の楽屋でも、オイリュトミーを少しやってから自分の作品の世界に入るんです。そして、カーテンコールのあと家に帰ってまた・・・。(大事なプレゼンの前にはオイリュトミーを必ずやる、なんていうデザイナーさんもいました。)
僕にとって、バレエ的な訓練が、凛としたお父さんとすれば、オイリュトミーは悠然としたお母さんみたいなものです。「表現者」以前に、「人間として」ここに帰ってくる感じ・・・。
それって、どういうこと?具体的には・・・?を次回から書きます。とりあえず、今日はここいらで。
クラス紹介&参加方法
オイリュトミーって何ですか?ってよく訊かれます。
知識のある方からは、あなたはダンサーだけど、どうしてそんなに熱心にオイリュトミーをやるの?とも・・・。
そこで、不定期ながら、オイリュトミーについて徒然日記を。『ダンスノート』とあわせて、よろしくお願いします。
まず今日は、手始めに僕自身のオイリュトミーへの思いを・・・。
僕は、オイリュトミーを「生活者の踊り」の一つだと思っています。
劇場で舞台芸術を見て魂に水をあげるように、お稽古場で踊ることによって命を支える「日々の」踊りだと思います。
近代、踊りの発展は常に劇場にありました。プロフェッショナルな、「凄い」と言われるテクニック、魂をゆさぶる表現の歴史、それが僕らの時代の舞踊史です。イサドラ・ダンカンとか、ニジンスキーとか、最近ではピナ・バウシュや、わが土方巽はじめ、まさに魂の叫びが僕らの背中を押してくれる時代に僕らは恵まれました。
そんななかで、あえて「だれもが踊る」「踊ることは、人間の根源的な営みだ」という、とても大事なことにピントをあてたのが、「オイリュトミー」だと、僕は感じています。劇場ではなく、生活のなかで体験する、非日常。あるいは越境・・・。
でも、本来、踊りはそうしたものです。「うれしい、悲しい」を踊り、心体を清めて明日を迎える。それが、踊りの原点です。
子供たちは皆、いまもそうしていますよね。
お友達ができた!しかられた!おいしいね!もう眠いよ!なんて、そこいらじゅうで踊っています。
大人だって、それを止める手はありません。昔の人はそうしていました。踊りながら、泣いたり笑ったり、そうやって僕らは何万年もの時をすごしてきたじゃないか、っていうのが、オイリュトミーをつくったシュタイナーという人のメッセージだと思っています。
今日もオイリュトミーのクラスを行いました。クラスのあった夜は、なぜかとても落ち着きます。10年ほども繰り返しているのですが、ず~っと、そうなのです。
クラスの人たちと「こんな感じですよね」なんて言いながら2時間たっぷり踊る。それなりの準備も下稽古も必要だし、かなり集中して教えるので、疲れそうなものなのですが、ス~ッと何かが体内を通り抜けていくのです。
教えつつも何かもらっている気がする。お互い生活者として同じ土俵に立っている、という感触。
勇気というのでしょうか、でも、もっとささやかで、もう少し柔らかい、何か・・・、これを「光」と呼ぶのでしょうか。
生活の大部分を、僕はダンスに費やしています。
僕のダンスをコンテンポラリーダンスと呼ぶ人も、舞踏と呼ぶ人もいます。どちらでもいっこうにかまわないのですが、いづれも表現としてのダンスにはちがいありません。
表現とは相手あってのこと。
ですから、稽古でも本番でも、全部出し切ります。
時間の長さに関わらず、燃え尽きるまでやる、ウマイとかヘタとかはその次の話(このフレーズ、ダンスクラスの人はおなじみですよね!)それがダンスのいいところ。
そんなダンスと切り離せぬ関係で、ずっとやってきたのがオイリュトミー。「よいリズム」っていう意味です。
やはり踊りには違いないのですが、表現としてのダンスとは本質的に何かが違うのです。
第一に、オイリュトミーでは、必ず他人の書いたテキストや音楽を踊ります。
自分自身の内面はなるべく静かにし、心の動きはその結果として、「どうしてもにじみ出てくる」、ということにとどめます。真摯な態度で創られた音楽やポエムには宇宙のリズムが必ず反映しているから、それを踊るということは僕らを生み出してくれたこの世界の生命リズムを呼吸することだ、という根拠がオイリュトミーを支えています。だからオイリュトミーでいちばん大事なことは、「信頼」ということ。批評したりしようとしないで、一生懸命に共感しようとする力が体を動かすんだっていう態度です。
第2に、オイリュトミーは、その体系・形式自体がルドルフ・シュタイナーという個人の芸術作品です。非常に明快な法則性をもつように、あらゆる動きが提示されており、それを練習していると良書を読んだ時のような感動がじわっと来るんです。オイリュトミーを踊ることは、シュタイナーを味わうことに限りなく近いということでしょうか。彼の書物は正直言って難しい。
1行づつ、じっくり読んでほしい、なんてことが、しっかり前書きしてあります。そんな書物を書いた人が吟味した身振りの数々・・・。シンプルなのに、「いい」んです、これが!
第3には、治療効果の高さ。
オイリュトミーは、人体の構造に非常に素直にフィットしたスタイルをもっているので、整体効果がきわめて高いということ。その人体構造というのは、停止したものではなくて、いつも心と一緒に動き続けているという前提にたっている。
人体そのものが本質的に、感性・心・肉体(シュタイナー本人いわく、アストラル・エーテル・フィジカル)という3つの連係プレーによって存在しているという前提をもっているので、日常生活やライフスタイルそのものに還元しやすい。ということです。
ちなみに、僕自身はというと、怒りっぽさがなくなってしまい、なんだかのんきになったような?!・・・。実は出番前の楽屋でも、オイリュトミーを少しやってから自分の作品の世界に入るんです。そして、カーテンコールのあと家に帰ってまた・・・。(大事なプレゼンの前にはオイリュトミーを必ずやる、なんていうデザイナーさんもいました。)
僕にとって、バレエ的な訓練が、凛としたお父さんとすれば、オイリュトミーは悠然としたお母さんみたいなものです。「表現者」以前に、「人間として」ここに帰ってくる感じ・・・。
それって、どういうこと?具体的には・・・?を次回から書きます。とりあえず、今日はここいらで。
クラス紹介&参加方法
共感とは率直に「楽しむ」こと。で、いろんなことを心身ともに楽しめるコンディションが「ゼロ」としての状態。ゼロは可能性のシンボル。それが僕のダンスの20年来の目標でもあるので、クラスにも、すごく影響していると思います。
ともあれ、ダンスを通して、リラックスした、ゆとりある状態を保てるようになりたいですね。
詳しくはまたお稽古で。では!
今日「オイリュトミーって何?」を読んでいて、映画『千と千尋の神隠し』のテーマ曲で覚和歌子さん作詞の「いつも何度でも」を思い出していました。「ゼロになるからだ みたされてゆけ」という部分。なんだか、ゼロになる体が満たされるって、普段先生が話されることに結びつくような気がして。
ゼロになる、ということを先生が時々話される“匿名”と結びつけると、匿名になることによって体が満たされるのかも?なんて思ってしまいまして。人が自分を離れることで人と内側から重なって、それが本文で書かれていた“共感”になるのかも?などとも。スケールを大きくすると、星の運行とも共感するものなのかもとも...。
素人考えを並べてしまってごめんなさい。
先生のオイリュトミーの文章を読んでいると想像が膨らんでしまって!