大切にしている仕事が立て続けで未了、さらに、観たいダンスを観ることが叶わなかった。
こういうことがあるのたびに、ダンス公演というものの、その夜一回きりしかないという性質が、口惜しくなってしまい、それゆえますます観たくなります。ああ、今あのダンサーはどんなふうに踊っているのだろう。
そのかわり観たい踊りを観ることが出来た夜は、さらに、それが素敵なダンスだったときなんか、本当に貴重な、運に恵まれたような気持ちになります。
すきなときに自分の都合で観る何かとは明らかに違う「一回性」という性質が踊りにはあり、それゆえに際立つ何かがあるのでしょう。
それは共感プラスの何か。その場にしか体感できない何かに触れ得た感動が、ダンスにはあるからだと思います。
当たり前かもしれないけど、ダンスは生きている人間の一瞬を共にするものだと思います。
熱も気配も戸惑いや躓きさえも、そのダンサーの丸ごとが目の前に露わになる一瞬。
生の一端に触れているような、その人の息吹を一緒に呼吸するような、何というかしら、接触というのかしら。
そんな感じが素敵なダンス公演にはあります。
共にあることのかけがえなさ、ということに尽きるのかもしれないと、よく思います。
だからダンサーその人としての良くできたとか駄目だったとか色々あったとしても、その色々の丸ごとに対する感慨が、ダンスを観た翌日からの日々に、つまりそれぞれの日常というこれも一種のダンスに、反射してくるように思えて仕方がありません。
美しい歌が気持ちを鎮めてくれるように、力強いダンスは背中を押してくれます。
僕にはダンサーとしての自分がある傍らに、観客としてダンスを待ちわびている自分もいます。
踊りたくて、そして、観たくて。
このどちらもが、内部でいつも沸沸としてしまうのです。
それは舞台公演だけではない。レッスンでも、そうです。
目の前にいる人に「踊り」が降りてくる瞬間が、あるのですが、いつもではない。だけど何度も何度も動き試行錯誤するなかで、ある人の身体に踊りがフッと来る。その瞬間、その人が変わる、こちらも変わる。とてもドラマチックです。
求めています、求め続けようと思います。
こういうことがあるのたびに、ダンス公演というものの、その夜一回きりしかないという性質が、口惜しくなってしまい、それゆえますます観たくなります。ああ、今あのダンサーはどんなふうに踊っているのだろう。
そのかわり観たい踊りを観ることが出来た夜は、さらに、それが素敵なダンスだったときなんか、本当に貴重な、運に恵まれたような気持ちになります。
すきなときに自分の都合で観る何かとは明らかに違う「一回性」という性質が踊りにはあり、それゆえに際立つ何かがあるのでしょう。
それは共感プラスの何か。その場にしか体感できない何かに触れ得た感動が、ダンスにはあるからだと思います。
当たり前かもしれないけど、ダンスは生きている人間の一瞬を共にするものだと思います。
熱も気配も戸惑いや躓きさえも、そのダンサーの丸ごとが目の前に露わになる一瞬。
生の一端に触れているような、その人の息吹を一緒に呼吸するような、何というかしら、接触というのかしら。
そんな感じが素敵なダンス公演にはあります。
共にあることのかけがえなさ、ということに尽きるのかもしれないと、よく思います。
だからダンサーその人としての良くできたとか駄目だったとか色々あったとしても、その色々の丸ごとに対する感慨が、ダンスを観た翌日からの日々に、つまりそれぞれの日常というこれも一種のダンスに、反射してくるように思えて仕方がありません。
美しい歌が気持ちを鎮めてくれるように、力強いダンスは背中を押してくれます。
僕にはダンサーとしての自分がある傍らに、観客としてダンスを待ちわびている自分もいます。
踊りたくて、そして、観たくて。
このどちらもが、内部でいつも沸沸としてしまうのです。
それは舞台公演だけではない。レッスンでも、そうです。
目の前にいる人に「踊り」が降りてくる瞬間が、あるのですが、いつもではない。だけど何度も何度も動き試行錯誤するなかで、ある人の身体に踊りがフッと来る。その瞬間、その人が変わる、こちらも変わる。とてもドラマチックです。
求めています、求め続けようと思います。