きょうは長崎原爆忌。
被爆直後の長崎で傷を負った人々が集いミサを行う映像を見たことがあり、その祈りの姿がどこまでも深く深くいまだに心が動き続けている。
存在について、神なるものについて、何よりも、人間というものについて、人間の人間に対する行為について、愕然とし続けるようなショックを、僕は「ナガサキ」から受け続ける。
毎年この日になると思い出すのが、2015年のこの日に上演した『弔いの火ー こどもたちのための70年目の8月9日 ナガサキ』(下記写真)というダンス作品のことだ。
これは、長崎で原爆体験を伝え続けている〈松原の救護列車を伝える会〉の主催により実現したプロジェクトで、作品としては美術家の瀧澤潔さんとの共同制作。
会場は長崎県大村市の松原小学校の校庭で、そこは、被爆直後に運行された救護列車によって長崎市内から多くの被爆者が運ばれ亡くなっていった場所だった。
被爆70年祈念セレモニーの一環として8月9日の夜に上演した。
11時02分の黙祷のあと、急ピッチで現場の仕上げが行われ、「運動場」は「劇場」に変わってゆく。夕刻に観客が集まり、地元の方々による被爆体験を語りつなぐ朗読劇のなかで日没を迎え、夜の闇とともにソロダンスを開始、クライマックスでは松原小学校の児童たちが祈りの歌を歌いながら次々に登場してダンサーとの交感を行う。そのような内容だった。
美術制作をはじめ機材や資材の調達も技術面も運営面も含め、複雑なスタッフワークの全てが、学生ボランティアと地元住民の皆さんと子どもたちによって行われた。いわゆるプロを現場に一切介在させなかったことは大きな特徴だった。
失われた時間と鎮魂をテーマにしたダンス作品だったが、これは結果的には、出会いから生まれる時間が力になり形になった公演になった。つまり作品という枠を超えた公演になった。原爆についての思索や行動や迷いや停滞のプロセスから、さまざまな出会いが生まれ、その出会いが特別な時間を紡ぎ出した。出会いから生み出される時間、というのは計画的にできるものではない。
この作品の企画から上演までの行動や対話の積み重ねを通じて、僕は、ダンスについてばかりでなく、表現活動の根本について、深く考え直すことになった。
『弔いの火ー こどもたちのための70年目の8月9日 ナガサキ』(2015)より
上記公演の全景(長崎県大村市松原小学校)
関連記事(2015年8月:プロセスの写真やテキストが複数掲載されてます)
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