わたしと向き合う

2020年初頭、自分本位に生きる事の虚しさに気づき心機一転。

今まで生きてきたあなたは偉い。

2020-01-15 23:12:04 | 日記
あなたは不器用で、それ故に想いとは裏腹になかなか物事上手にこなす事ができなくて、辛い想いをしてきた事でしょう。ある時は、やけになって投げ出してしまった事もあった事でしょう。助けてくれる仲間に報いる事すらできず、自分の不甲斐なさに涙した事でしょう。こんな自分では、と一歩引いてしまって、大切な人から自ら遠ざかってしまった事もあるのでしょう。
ままならぬ人生を歩んできてなお、ここまで歩んできたあなたは尊い。苦境にありながらも、最後の最後で自分自身の自身を投げ出さずにここまで生きてきた事。それは誰にでもできる事ではありません。
そのように言われても、あなたは自分の歩みを否定しようとする事でしょう。この程度ならみんな同じ・・・どころかもっともっと頑張ってるよ、と。

今、自分を認めてあげる事ができなくても大丈夫。私はあなたが、あなたなりに真剣に人生と向き合ってきた事を見ています。だから、明日も生きてください。

過去の自分と向き合う

2020-01-14 23:43:16 | 日記
今年は自分にとっての踏ん張りどころだ。
今ままで学んできた事を実践して、これまで培ってきた古い自分の考えと向き合い、新たな一歩を着実に歩む事に意識を集中しよう。慣れ親しんできた悲観的な思考や感情に、引き戻されそうになる事が常にあるけれども、それに流されずにどうにか踏みとどまって、前へ前へと歩んでいきたい。やっぱりどうにもならないんじゃないか、と不安や恐怖が頭をもたげる事はあっても、むしろそれを違う捉え方で受け止めて、一歩踏み出す力に変えていきたい。やると決めたのだから、ちゃんとやりきるぞ。

自分ができる事に意識を向ける。

2020-01-13 19:21:47 | 日記
「他人と比べて、自分が取るに足らない事しかできない」
よりも
「自分には何かしらできる事がある。今自分ができる事は何だろう」
と普段から心がける事。

今年はこの事を日々心がけて生活していきたいと思う。
ところで、「自分には何もできない」と、そんな風に考え続けていると、自分は何もできないという事に意識を向け続ける事になる。自然と自分の至らない事にばかり目が行くようになる。それは謙虚ではなく、とても卑屈な態度だと思う。

本当は、自分はこういう風にしたい、このように振る舞いたい、という願望や希望は沢山あるけれど、それに翻弄される状況から一歩身を引こう。また、他人はこんな事もできているから、自分も同じようにできなければ、と何かと比較する事も一旦脇に置いておこう。そして、今の自分ができる事、負担なく取り組める事に意識を向けてみよう。
どれだけ、苦しい状況であっても、無力感を感じている状況であっても、何か一つはできる事がある。それは具体的な行動を伴う事ではないかもしれないけれど、何かを意識して取り組むという事が大事で、そうやって積み重ねてきた事は自分自身を支える拠り所にもなる。
例えば、人に何かをしてもらった時に、「こんな風にしてもらったのに自分は何も返してあげられない」という風につい考えてしまったとしても、その事にとらわれずに相手への感謝を意識して心に抱く事だけでも意味のある行動だと思う。

今、辛い気持ちで人生を歩んでいる人も一緒にもう少しだけ頑張ってみましょう。
正直僕も生きていてしんどいと思っていますが、それでも僕はひとりぼっちではないと思っています。

寂しい、からの何故かお墓まいり。

2020-01-12 23:41:01 | 日記
最近、ずっと寂しさを感じていて、毎夜毎夜泣きながら眠りについていた。
そんなこんなの日常を送っている最近。今日は出かけたついでに菩提寺にお墓まいりしてきた。
本当はお墓に手を合わせるだけのつもりが、お墓が鳥の糞などで汚れいたので、急遽お掃除用品を買いに行き掃除をしてから手を合わせる事となった。
ところで、お墓を掃除していて、ふと、家の若者が(といってもアラフォーだがけど)、
自分達(先祖)の事を気にかけてくれない、という事はとても寂しい事なのではないかと思った。
また、現代ではお墓の存在意義に疑問が投げかけられている一方で、お墓に存在価値がないのならば、何故現代までその習慣が残っているのだろうか?お墓は本当に価値のないものなのだろうか?本当に?という、素朴な想いを湧いてきた。

ま、寂しい事は辛いけれど、それがきっかけでご先祖様を大事にしようという想いを抱く事ができたのはとても良い事だと思う。

ネガティブな考えの実体

2020-01-11 22:08:43 | 日記
ネガティブな考えが浮かんできた時、それがどれだけ真に迫ったものに感じられたとしても実体があるものではない。考えを落として、その考えの前に存在するモヤモヤとした考えの種のようなものを感じてみると、それ自体にはネガティブさなど一切含んでいない事が分かる。

一見して、何かの衝動のようなものがあったとしても、それはネガティブでもなければポジティブなものでもない。どちらの考えも表面的な装飾であって、その根底にあるモヤモヤとは何ら関係がない。その表面の形にそった形でモヤモヤが現れているのであって、モヤモヤ自体は何の性質も持たない

なぜ、そのようにモヤモヤがネガティブ、あるいはポジティブな形に沿って現れてるのだろう?