遠くない未来に発生すると予想されている「南海トラフ地震」。
実は私が生まれた昭和時代あったらしいことを知り、
録画されていた番組を視聴しました。
時は1944年12月7日。
太平洋戦争(第二次世界大戦)終戦の前年です。
戦局は悪化の一途に辿り、
日本は敗戦色が濃くなっていく時期。
しかし日本政府は国民に対して“敗戦色”をひたすら隠し、
国威発揚のメディアコントロールを続けていました。
これは全世界、
戦争中で起こりうる、
そして起こってきた“報道規制”ですね。
現在のロシアによるウクライナ侵攻でも、
ロシア国内では「善意の軍事作戦」としか報道されていませんし、
中国政府によるチベット弾圧も国外に漏れないよう情報統制されています。
古くは、新型インフルエンザによるパンデミックが、
戦争当事国では戦況不利になると隠蔽され、
中立国であったスペインだけが公表したので、
「スペイン風邪」と呼ばれるようになった皮肉な歴史もあります。
昭和の南海トラフ地震「昭和東南海地震」も例に漏れず、
ひた隠しにされました。
そのため適切な対応が取られず、
1ヶ月後に起こった「三河地震」ではさらなる悲劇が重なりました。
地元の被害者は「この経験を後世に伝えなければ」、
と神社仏閣などに碑を造りました。
その事実を後世に伝えるために文字を塗りなおしてほしいという当時の教えの通り、毎年墨が入れられているため、はっきりと読むことができます。碑文には、津波による被害や、それより148年前の「宝永地震」(1707年10月28日)の教訓を生かすことができなかったことが刻まれています。
このような行為は東日本大震災の時も紹介されました。
三陸海岸沿いの神社の位置をつなぐと、
ちょうど津波の被害の有無のラインと重なるという驚きの事実。
「この神社より海沿いに住んではいけない」という、
1000年前の「貞観地震」(869年)を経験した祖先からの警告だったのです。
▢ 隠された震災 昭和東南海地震
太平洋戦争さなかの1943(昭和18)年9月に発生した鳥取地震。被害は新聞などで報道され、義援金も全国から集まりました。直後の帝国議会では復興に関する質問がおこなわれますが、時の内閣総理大臣 東条英機がそれをさえぎります。地震被害を隠す――そのきざしは、この時からありました。
1944(昭和19)年12月7日。巨大地震の「昭和東南海地震」が中部地方を中心とする地域を襲いました。一般市民はもちろん軍需工場でも多数の被害が。しかし、発生後ただちに内務省が報道各社へ「報道はしないこと」と通達します。翌日の新聞で、地震関連の記事はほぼ0。震災は隠されたのです。
昭和東南海地震のおよそ1か月後、傷あとも生々しい中部地方で「三河地震」が発生、前の地震を超える2千人余が亡くなります。東南海地震のほとんどが隠され、被災後の適切な対応もとられないところへ再度の地震。壊れた家を修理できないまま住み、圧死するなど悲劇は重なっていきました。
<参考>
▢ 南海トラフ地震はいつ起こる?知っておきたい被害想定と対策
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