皆さん おはようございます。
今朝の気温は7℃でした。
まだまだ寒いですね…
少し忘れ掛けている…
今週末の3.11は、東日本大地震から12年ですよね。私自身の記憶では最大で、世紀末がとうとう来たか…と思った 。
当時、私はまだ50代現役のサラリーマンで千葉市内のビルの5階にいた。突然の地震でバリバリ音と共に女性社員の悲鳴が室内に響き渡った。
しばらくしてから、ビル外に非難すると余震が何度も襲ってきた。隣接するビルの23階(センシティー)が羊羹?寒天?の様に揺れていてビックリする。
折れないか…と?
時は、15時を過ぎていたので帰宅は出来ないと判断し上司に声を掛け口頭決済を受ける。部の社員用にコンビニへ夕食の買い出しに行く。既に買い求めて多数の客が来ていた。弁当は少し、カップラーメンや菓子パン、飲み物を買った。
余震が続く中、次第に暗くなり電気は当然ながらビル内は停電、携帯電話は全く使えないし唯一、非常用の固定電話のみが使えたので各社員が自宅に安否確認を交互にしていた。
3月はまだ寒く、暖房が効かない部屋で被害状況も分からない悶々とした時を過す。
自宅に帰れるのか?
歩いて帰る?…50kmは無理だな…
色々な事を話ながら時間が流れた…
そんな状況の中でも少しずつ緊張がとれたのかデスクの椅子で各自寝ていた。
早朝、ビックリしたのは京成電鉄の走行音で目が覚めたんです。たしか、房総沖大地震の時も京成電鉄は素早く走っていた。かたや、JR東日本は点検に時間が掛かり、最低限の路線しか走らなかった。
この違いは何か?
京成電鉄は運転士が走りながら線路の異常を把握し大きな揺れがなければ後続の列車は通常運行なんです。
JRは受け持つエリアと系統別の社員が安全確認をしないと通常運行は出来ないルールなんですよ…。
もちろん、私のローカル線は走らないので津田沼近辺の子供のアパートへ行き落ち着くのを待った。
その翌日、なんとか自宅まで帰りましたがテレビに映る信じられない映像に唖然とした。そして地震の怖さを知る。
数日経過すると東京電力は、地域毎に計画停電があり、我が家は夕方から数時間停電していた。
休日になるとガソリンスタンドには長い行列、コンビニには食料が無い事がしばらく続いた。我が家は、少しストックしていた食料でなんとか賄った。
阪神淡路大地震が発生(H7年)した翌年からは、非常食料をストックしていましたが、16年も経つと忘れてしまう。
あの頃は、カップラーメンを箱買いしていましたが今は、賞味期限毎を考えて購入、消費を繰り返しストックを維持しています。
最近はご飯物のパックが色々とあり白米、赤飯、炊き込み飯と便利です。レトルトカレーは普通の旨さでなくレストラン並みでこれも安くて良い。
昔から良く言われていた「地震は忘れた頃にやってくる」を目の当たりにした経験でした。
忘れないためにも3.11は、亡くなられた方のご冥福を祈ると共に防災グッズの備蓄を確認する日として続けて行きたい。
それでは また