祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

催する

2014-11-11 22:05:25 | 理論―陰陽五行、名言集

催 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月16日(木)22時54分7秒 返信・引用
三節の理論や勁を理解する時に、大きな誤解をよく見聞きします。ブレイクダンスのように体を波打たせて、水が流れて行くように、伝達して行くようにしていくと勘違いし、またそのように練習している人がいる。そのような勘違いをしたままだといつまでたっても武になっていかない。ところてんを押し出すようなもので、押した瞬間ところてんはとびだす。手で押してから波打つように、内部を伝道してしばらくたってからところてんが飛び出すわけではない。
丹田一動、渾身動。であって丹田が動いてから、体の中を何か液体のようなものが流れていって胸肩、肘、手と伝達して行くのではない。そのような伝達して行くようなものであったら、相手にはすぐにわかってしまうし、武にはならないわけです。
肩が肘を催し、肘が手を催す。といった時も同じです。
中日辞典を引いてもらえばわかりますけれど、「促す、促進する」という意味です。日本語では、「もよおす」と読み、会を開くとか、尿意を催すなど、意識を触発すると言ったような意味になりますから、注意しなければなりません。
「手紙」と書いてトイレットペーパーという意味だったりします。にほんごにある中国語は、覚えやすいのだけれど、意味が違っていることがあります。
Re: 催 投稿者:k 投稿日:2013年 5月17日(金)07時50分19秒 返信・引用
うさぎさんへ

ご指摘有り難うございます

> 肩が肘を催し、肘が手を催す。といった時も同じです。
> 中日辞典を引いてもらえばわかりますけれど、「促す、促進する」という意味です。日本語では、「もよおす」と読み、会を開くとか、尿意を催すなど、意識を触発すると言ったような意味になりますから、注意しなければなりません。

広辞苑によると「催す」は「1 せき立てる。催促する。 2 さそい出す。ひき起す。 3人を集める 4 課する 5 支度する 6 請け行う。開催する。」と定義されています。

私は「2 さそい出す。ひき起す」で解釈しました。

一方、「促す」は「1 せき立てる。催促する。 2 早める。促進する。 3 触れ知らせる。人を呼び集める」と定義されています。

共通の意味は「1」の「せき立てる。催促する」という定義ですが、うさぎさんの指摘は、この意味で使われているということでしょうか。

それとも、武術的な独自の使い方なのでしょうか。実はこの点について気になっている部分があります。
91ベージの記述で「催とは、随が滞らず、追は真っ直ぐ進むことである」となっています。実はこの記述は文の構造から(確信はありませんが)「催とは、随が滞らず、追が真っ直ぐ進むことである」の可能性もあるのではないかと思っています。

ただいずれの記述でも「せき立てる 催促する」よりは「さそい出す ひき起す」の方のニュアンスに近い様な気がするのですが、何か勘違いがあるのでしょうか。ちなみに「随」は「1 つき従うこと 2 思いどおりになること」のうち「つき従うこと」で解釈しています。また、「追」は広辞苑の「追う」には(私の解釈では)適当な意味がなかったので「追随」、つまり「あとにつきしたがって行くこと」くらいの解釈をしています。

お時間のある時にでもご教授下さい。

Re: 催 投稿者:k 投稿日:2013年 5月17日(金)09時25分4秒 返信・引用
補足です(^_^;)。

>実はこの記述は文の構造から(確信はありませんが)「催とは、随が滞らず、追が真っ直ぐ進むことである」の可能性もあるのではないかと思っています。

原文を以下のように解釈しました。

「催即」(催とは即ち)、「随が不滞」、(このコンマは「かつ」くらいの意味)「追が(随と同じ漢字が使われているので「が」ではないかと想像した)直進」「之意」(の意味である)


> ただいずれの記述でも「せき立てる 催促する」よりは「さそい出す ひき起す」の方のニュアンスに近い様な気がするのですが

186ページに「根節は催し、中節は追う、梢節は随する」という記述がありますが、94ページの方では「根節が中節を催し、中節が梢節を催す」的な記述になっています。つまり、「催す」を「追う」や「随する」と記述していますが、この「追う」や「随する」は「さそい出される、ひき起される」と言ったニュアンスに近いのではないかと判断したのです。

また、文脈から94ページでは「催す」は「起」「追」「随」の共通表現として使われているのではないかと解釈していました。
つまり、股の「起こり」が、腹(の感覚)を「さそい出し」、腹(の「起こり」)が肩(の感覚)をさそい出す と解釈したわけです。
Re: 催(その2) 投稿者:k 投稿日:2013年 5月17日(金)09時49分40秒 返信・引用 編集済
うさぎさんへ

> 三節の理論や勁を理解する時に、大きな誤解をよく見聞きします。ブレイクダンスのように体を波打たせて、水が流れて行くように、伝達して行くようにしていくと勘違いし、またそのように練習している人がいる。そのような勘違いをしたままだといつまでたっても武になっていかない。ところてんを押し出すようなもので、押した瞬間ところてんはとびだす。手で押してから波打つように、内部を伝道してしばらくたってからところてんが飛び出すわけではない。

以前私が「足の力が段々下の方に伝わって行く」と投稿したのでこのように解釈されたのだと思います。

私も「ところてんを押し出すようなもので、押した瞬間ところてんはとびだす。」と同様に理解し、そのような感覚を持っています。
私流の例えならば「コップの水をストローで少しでも吸い上げればその瞬間、つまり全く同時にコップの水位も下がる」となります。

以前の投稿は「頸(私の解釈では体液の流れ)が途中で途切れている(流れなくなっている)」という意味で、「コップのフロズンヨーグルトを(すでにフローズンヨーグルトが詰まっている)ストローで吸い上げた時、吸い込みが弱くストローの下の方のヨーグルトは吸い上げられなかった」という意味です。「吸い込みが強くなれば(つまり丹田がしっかり回るようになれば)」フローズンヨーグルトは水と同じように動き、上のコップの水の記述と同じ現象が起こると思いますし、今では現実に、丹田の回転前の僅かな動きで、肩、膝、踵、の関節が僅かに締まり、土踏まずが僅かに上がります。
この動きは丹田の回転と同期してよりはっきり起こってくることがあります。(ここで「あります」と書いたのは私の場合私の場合「これら一連の動きの同期」が巧く取れていない、つまり、三合が合っていない場合がほとんどなのでこのような表現になりました)

以上誤解をあたえるような記述になっていたので正確さに注意して再投稿してみました。

もしかしたらうさぎさんの感覚とは違うかもしれませんが、何かのご参考なれば幸いです。


Re: 催(その3) 投稿者:k 投稿日:2013年 5月17日(金)11時59分16秒 返信・引用 編集済
うさぎさんへ

> 丹田一動、渾身動。

この点については私も全くそう思っています。

もし私が「戴氏心意拳体験講習会」のようなものを開催したならば、先ず 股と膝関節(膝頭)を両手で同時に触ってもらい、股の締めと膝関節の締めが同時に起こっている ことを体験してもらいたいと思います。その次は 膝関節と踵が同時に締まること を体験してもらいたいです。更に、踵と土踏まずが同時に締まること(土踏まずの場合は上がると言った方が良いのでしょうが) と順を追って体験していってもらいたいです。

「丹田一動、渾身動」は他の武術にはない(と思う)戴氏の優れた特徴なので、他武道の経験者にも興味を持って頂けるのではないかと思います。
もし、蛸の様な宇宙人が参加していたならば、「すべての関節」に同時に触ってもらい、「人類はこんなに優れた身体文化を持っているのだ」と自慢したいと思います(^_^;)。

私の場合ココまでくるのに10年近くかかってしまいましたが、フェルデンクライスの理論と体験者の才能でこの時間を縮められないかとも思っています。
丹田一動、渾身動 投稿者:k 投稿日:2013年 5月19日(日)07時37分26秒 返信・引用 編集済
下で「丹田の初動と同時に節が現れ始める」という趣旨を投稿しました。

私の場合は「踵の締まりと共に土踏まず上がる(力が入る)」程度なのですが、練拳が進んでくれば「足の指にも力が来る」と思います。ここでの「来る」は下の逸話に合わせて「頸が通る」という意味で使っています。

2004年の冬の「武術」で岳建祖が次の様な逸話を披露しています。

「お父さんの練習を見たことがありますか」という質問に対して、
「あります。中指の先まで力が「来て」いました。そうやって練られた爆発力は凄まじいもので、相手はちょっと触れられただけで吹っ飛んでしまいます。」

「ちょっと」という言葉は「丹田の初動で相手が吹っ飛んだ」ことを表している言葉だと思います。

なにやら「笑うセールスマン」のラストシーンのようですが、私も霍先生に人差し指一本でベットに押し倒されたことがあります。

つまり、二人とも指を(曲げることなく)延ばしたままで力を出したことになります。

「丹田から出る力」は外部に力点を必要としないので、指を曲げなくても力を出すことが出来るのでしょう。
「指を延ばしたままで暖簾を押すことの出来る力」で、必ずしも具体的な動く運動を必要としない戴家拳の「丹田一動、(通常の意味では動いていない部分も含めて)渾身動」の特徴が具現がされていると思います。

前回は、「丹田一動、渾身動」の例として自分(初心者)の体験をもとにしていたので「丹田一動、土踏まずが動く」といった「足の指が動いていない」例示となってしまいました(^_^;)。

今回は本当の(と私が考えている)「丹田一動、渾身動」として上級者の例を投稿してみました。

この当時の岳家は「経済的に恵まれず大変苦労をしていた。ただ岳オン忠は性格は良かったな」(霍永利 談)らしいのですが、私はこの「中指飛ばし」と「性格の良さ」には戴家拳の効果の表裏一体として認識されるべきだと思っています。

この理由については「戴一族が実の息子に伝えようとしたもの」の投稿と一緒かその少し前で今回の例と一緒に投稿しようかなぁ と漠然と考えていたのですが、流れの中で今回の投稿となりました。
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巧と妙

2014-11-10 22:20:33 | 理論―陰陽五行、名言集

東京も頑張らなくては 投稿者:k 投稿日:2013年 5月15日(水)16時40分58秒 返信・引用 編集済


下の投稿から想像すると奈良の定期練習会は盛況のようですね。

東京の方ではあまりいいニュースはなく、先日投稿した「戴氏心意拳東京講習会」は参加者が集まらずに開催できなかったようです(-_-;)。

講師の方は「江戸庶民に恐れられた異能の忍者集団闇一族をも葬り去った伊賀忍法の秘術を遥かに凌駕することは勿論、近代市街戦においてならばアメリカの精鋭特殊部隊一個師団を撲滅しておつりのくる中国功夫功のみでなく、その人格と見識により霍一門を代表する高手」M老師に拝師された方なのです。

開催のニュースを聞いた時にM老師は「これで日本における戴氏心意拳の発展基盤も盤石なものとなるだろう!私も霍先生に対して顔向けが出来る!苦労して教えた甲斐があった!参加者が多くて手が回らないときは女子大生の参加者は私が教えよう!!!!」と号泣しておりました。M老師の号泣は川えびさんのDVD購入をお知らせした時「命を削って作った甲斐があった!」と号泣されて以来なので余程嬉しかったのだと思い、それにつけても今回の中止を知った時の心中は察するに余りあるものがあります。





戴氏心意拳の風景(その3) 投稿者:k 投稿日:2013年 5月15日(水)18時05分54秒 返信・引用 編集済


「2013年 4月 5日(金)20時27分」に投稿した「戴氏心意拳の風景(その1と2)」はM先生の表演を観て見学者が来たならば練習の原理にも触れている内容も含めて投稿するつもりでした。
結局見学者はいなかったのでその時は「練習の原理」の部分を割愛して投稿しました。今回の「東京講習会」の参加者がいればこの部分を投稿しようと思っていたのですが、今回も参加者はいなかったようです(-_-;)。

これ以上待つと永久に投稿できそうもないので今回投稿させて頂きます(^_^;)。

先ず、「ハイハイを身につけようとする赤子の戯れ」は大脳生理学の用語では「運動感覚学習」と呼ばれています。この内容をもう少し詳しく説明すると「運動(している時の主として関節部分の)感覚(を大脳に)学習(させること)」となります。その為に必要な三原則は 出来るだけ力を抜く 出来るだけ小さく動く 余り繰り返さない となります。

霍先生の指導では「力を抜いた状態で(胸を押してもらい)胸を凹ます」ことになりますが、この時胸の変化に伴い他の関節部分(特に肩関節)がどのように動くかを感じてもらいます。この時の動きは腕と身体の結合部の丸い骨(要するに肩関節)が付け根のくぼみの中を回転する通常の回転運動となります。

拳譜的に言えば「胸のへこみが肩を動かす」となりますが、同じ原理はフェルデンクライスでも用いられています。つまり、骨の一部を動かし繋がっている骨の他の部分がどのように動くかを感じることはフェルデンクライスでも重視されています。

ただ、拳譜では「腹が肩を催す」(94ページ)と違った表現となっています。
これは、丹田がよく回ってくると(体液の流れが増えると)肩関節の部分に「節が現れてくる」、つまり、丹田を回すことで「肩関節の部分が回転しながらその一部分が締まるように動く」ことが「腹が肩を催す」という拳譜の意味ではないかと思っています。
言葉は悪いですが、尿意を催す感覚が現れるように、肩の部分に「回転しながらその一部分が締まる」感覚が徐々に現れることを、拳譜では「催す」と表現したのではないかと思います。

ちなみに私は最初拳譜のこの部分を読んだ時「催す」という言葉の意味が、物産展を催す を連想しよく理解できませんでした(^_^;)。動くではないことは感覚的に理解できていたのですが、この言葉の意味が正確に理解できずに練拳仲間のHさんに「どういう意味ですかねぇ」とお聞きしたところ「尿意を催すと同じ意味だろう」と言われ、「その通りだ!」とその表記の適切さに驚いたことがあります。

Hさん、その際はお世話になりました。中国語は勿論日本語も不自由な私ですが今後とも宜しくご指導下さいm(_ _)m。






習熟を旨とする武術 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月15日(水)21時22分58秒 返信・引用


戴氏心意拳は、派手で華美な武術ではありません。伝統武術自体あまり人が集まってはこない現状があるでしょうから、やはり戴氏心意拳は本物志向の人たちしか集まってこないように思います。だから、たくさんは集まりませんけれども、練習にこられた人たちは、ほとんどの人たちが、真剣に続けてくださる人が多いのです。
他のスポーツや武術にはない価値、片手間ではなく人生の一部をかけてもいいのではないかと思える価値を戴氏心意拳は有していると思いますし、私たち教える側の者たちが、しっかりと参加者の方々に教え伝えることができなければならないと感じています。ですから、私たちは、常に学び続け自分自身の功を高めていかなければならないと感じています。
一方、学ぶ側の人たちには、習熟することの楽しさをしっかり捉えてもらう必要があると思うのです。
やはり、秘伝あさりをして様々な套路を覚えるのが、武術の上達なのだという先入観は取っ払ってもらわなければならない。習熟することは辛いことや根性の上に成り立つものではなく、繰り返しはただの繰り返しではなく、様々な感覚の変化、発見があるその面白さに気づくような、指導者側からも積極的に気づくようなはたらきかけが方が必要だと感じています。
習熟したいという気持ちがあれば、師からも先輩からも、仲間からも謙虚に学んでいく構えができていくようになるのではないかと思います。
私は、戴氏心意拳の仲間には、いじめのような関係や自分だけ師から教わって、他の人には教えないといったいびつな人間関係は生まれにくいと思っています。それは一人一人が、謙虚にすべての人に学んでいこうとする姿勢がもっているからです。「私だけがこのことを知っている。だから教えてやろう。」「私が一番だ。他のものには学ばない。」という気持ちや姿勢を持った時、その関係は崩れていくのだと思います。
知識資本主義、套路資本主義ではなく習熟資本主義へと移っていく武術としての当たり前の過程を再確認していくことは大事かなと思っています。

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九要論

2014-11-04 22:10:41 | 理論―陰陽五行、名言集

九要論 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月10日(金)22時35分3秒 返信・引用


kさんへ 「二の陰陽と五の五行(武術では行と記述されている)」以外は陰陽五行説とは関係     ない記述
 なるほどですね。気、陰陽、五行が陰陽五行説、三節、六合は武術用語と考えるとただの陰陽五行と武術つ用語をくっつけただけの文章に見えますし、なにのおもしろみもない文章になってしまいますね。
陰陽五行説では、一 気、二 陰陽、三 三才ですよね。三才は天地人のことです。人の中にも天地があります。眉間と顎は天地の関係であり、丹田中にも天地がある。天と地が、常に流転するように、束展時には、人体の中の天地もめぐる。それを「天地翻」という。三節は、人体の中にある天地人です。
 陰陽五行とは、自然や宇宙の法則を見つめた理論でしょうから、それを、武術に当てはめたと考えると三才や六合もさらに大きな枠組の中で見えてくると思うのですがどうでしょう。武術の身体も技術もまた壮大な自然法則の中にある拳譜とはそんな理論だと思うのです。





Re: 九要論 投稿者:k 投稿日:2013年 5月11日(土)09時39分12秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

詳しいご返事有り難うございました。
よく理解できない箇所もあるのですが、可能な範囲でコメントバックしてみたいと思います。

> 気、陰陽、五行が陰陽五行説、三節、六合は武術用語と考えるとただの陰陽五行と武術つ用語をくっつけただけの文章に見えます

「九要論の(「六合」等の用語も含む)一から九までの章(用語)は、道家の心法(精神の修養方法)に符合する(ぴったり一致している)」(岳先生の見解)ということではないでしょうか。つまり、これらの用語はこの文脈では道教の用語が流用されているというのが岳先生の見解だと思います。

「気血を活動させる(少林寺の素雲和尚 談)」動作で生まれる「丹田から出る力」に着目した姫龍峰が、この力を武術的に使えるように心意把(初期の心意六合拳)を創始した(黄新銘 説) のではないかと思います。

戴家の伝人はこの心意把を「戴家の道教」適用して理論的に解釈、理解、発展させようとしたのではないでしょうか。
別の言い方をすれば、道教の心法の記述を(章立ては同じですが心意把の動作に特化して)より具体的に記述したものが九要論ではないかと思うのです。

人間は具体的な現象を理解しようとする時、その前提として「何らかの知的枠組み(知的な土壌)」を必要とします。この知的枠組みは、陰陽五行説であったり、西洋医学であったりするわけですが、戴家の場合はこの「知的枠組み」が「道教」だったと思うのです。

ただ、「戴家の道教」については「判明していない(霍永利 説)」という立場もあるようです。

中国の三大宗教の一つである道教について「判っていない」ということの意味については、分けて投稿したいと思います。






道教概略 投稿者:k 投稿日:2013年 5月11日(土)10時15分27秒 返信・引用 編集済


道教は不老不死を目指す人間の性から生まれたと思います。

初期の道教は不老不死の為の具体的な方法として外丹を採用していたようです。

具体的には「丹砂(硫化水銀)を主原料とする「神丹」「金丹」「大丹」「還丹」などと称される丹薬や、金を液状にした「金液」が服用された。」ところが、「このようなものは実際のところ人体に有害であり、唐の皇帝が何人も丹薬の害によって命を落とした」ので、誰も服用しなくなったようです(^_^;)。

もうこうなると「ニンニクを入れたみそラーメンかラー油を入れたみそラーメンか」という「味覚の問題」ではなく、「生死問題」となるわけです。

ただ、道教の目的は「不老不死」て「外丹の服用」は手段ですから、別の手段が検討されることになります。次に検討された手段は内丹で、これは「不老長生のために外的な物質を求める外丹術の代わりに、不老不死の素となるものを体内に求める思想が興り、これが内丹」で、要するに「一連の身体技法」なのですが「具体的な技法としては百花繚乱」といったことになってしまいます。内丹では(余程過激な行でなければ)死ぬ人が少なかったのでしょう。どんどん細分化が進み「色々な道教」が生まれていったようです。

「戴家の道教」は九がラッキーナンバーなのではないかと想像しますが、私か読んだ中には十二をラッキーナンバーにしたものもありました。当時の天文学である十二支を取り入れたのではないかと想像されますが、内容的には「星が出ている夜にUFOを呼んで宇宙人に不老不死にしてもらおう!」的なものだったと思います。

ただ「この道教」も「最先端科学である十二支理論に基づいている」という主張で権威づけするのではなく「古代から続く正当な道教」といった感じで権威づけをしていました。

九要論と章の名前が一致していると岳先生が主張される「戴家の道教」にも「陰陽や五行」という章があったのだと思います。
名前からして陰陽説や五行説を取り入れて成立したと想像されますが、「古代から続く道教独自の理論として記述されている筈だ」というのが、霍先生の見解のようです。





道教と戴氏心意拳 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月12日(日)08時20分7秒 返信・引用


 戴氏心意拳は、道教の影響も受けて成立してきたのは事実でしょう。道教の教典の記述と拳譜の内容がほとんど一致しているところもあるのです。そういうところは、私はあまり手を付けていないのですが、「戴氏心意拳の成立と道教の関係」を知る上で非常に重要な部分だと思います。
 一方、道教は宗教ですから、裾野が広い。宗教はやはり原理的な面と現象的な面があります。宗教は長い歴史の変遷を経て多くの現象が出てくる。そのすべての道教像を戴氏心意拳は受け入れたわけではないでしょう。むしろ戴氏心意拳には、道教や蟷螂拳の影響を受けながら、成立していったとまあ一般的な解釈でいいのではないかと思っています。
 道教の影響では、裾野の広い歴史的な変遷の中で現れてくる現象面を様々に取り上げていくとだんだんわからなくなってきますから、なるべく原理的なところの関係を探っていくと
見えてくるのだろうと思います。これからの研究に期待したいところです。





Re: 道教と戴氏心意拳 投稿者:k 投稿日:2013年 5月12日(日)11時18分48秒 返信・引用 編集済


> No.461[元記事へ]

うさぎさんへ

> すべての道教像を戴氏心意拳は受け入れたわけではないでしょう。むしろ戴氏心意拳には、道教や蟷螂拳の影響を受けながら、成立していったとまあ一般的な解釈でいいのではないかと思っています。

「心意六合拳の初期拳法を演ずることが出来る人間は今はもういない。我々はその原型を清時代に編集された「心意六合拳拳譜」第九章「六合十大要序」に拠りかろうじて想像できるにとどまる。」(黄新銘 談)なのですが、この「心意六合拳拳譜」と「戴家の道教教義」(もしあれば)によって「九要論」が編纂されたというのが常識的な解釈なのかも知れませんねぇ。

>  道教の影響では、(中略)なるべく原理的なところの関係を探っていくと見えてくる。

技撃精要では91ページから九要論が取り上げられていますよねぇ。うさぎさんくらいの下地があれば、もし複数の異なった「道教教義」を観ればどれが九要論の元になった内容かどうかも判断できるのではないでしょうか。
ご覧になったことがあるかどうかは知りませんが、もし「心意六合拳拳譜」を入手できる機会があれば、第九章「六合十大要序」については日本では余人には不可能な読解力を発揮されると思います。

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「拳無拳、意無意、無意之中是真意」

2014-11-02 09:24:07 | 理論―陰陽五行、名言集

原典の味わい 投稿者:土佐の川えび 投稿日:2013年 5月 9日(木)14時53分17秒 返信・引用


> No.448[元記事へ]

事務局さんへのお返事です。

> また、来は歌訣の語呂合わせの意味もあります。読むと「拳無拳、意無意、無意之中是真意」より少し柔らかい感じになります。

>表現って、面白いですね。

> 実は意があっても無拳はできます。
> でも、意図があるので、真の無拳ではありません。

興味深いですね。
>「拳に拳なく」の意味はあまりよく分かっておりません。まだ、当たり前かも知れませんが。
かつて、私の太極拳の師が
「人は、人前で演舞するのを恥ずかしがったり、また、イタズラに自分をかっこよく見せようとする。しかし、有りのままの自分、かざらない自分で良いではないか」
と。そういう事を考えさせてくれる先生でした。今にして思えば「無意」のプロセスの一つだったのかも知れません。





雑感 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 9日(木)16時44分5秒 返信・引用 編集済


公式ブログを読んでいたら「霍永利老師と村上さんからご指導を頂いたことがあります。しかしあるとき練習を参加しても、いくら指導を頂いても、前へ進めませんということを悩み、やめようかと考えたことがありました。」という投稿が目に留まりました。

この投稿がきっかけという程でもありませんが、以前から投稿しようと思っていた「人と人の心が交わる」についての雑感を書いてみたいと思います。

「股を閉めることで体液を下腹部に集め」ながら「胸を凹ませることでへそが上を向く腹を作る」ことで「体液を下腹部で回転させている」のではないかと気づいた時から、「股の締め方は霍先生の股を指で触って感覚的に理解している」し「胸の凹まし方とそのタイミングも霍先生に直接指で押してもらって身に付いている」のだから「戴家拳の基礎を身につけるのは毎日ゆっくりと練習していけば時間の問題ではないか」と思った時期がありました。

まぁ、これはこれで間違いではないのですが一番大切なものを見落としていました。

寒い日に外出から帰ってホッとした時、身体は疲れていたのですが、何故か「丹田功が巧く出来そうだ」と思ったのです。試してみると 下腹部が本当に良く回る スグ疲れが出たので二分くらいで止めたのですが、「リラックスしているとこんなに効果が違うんだ」と再認識しました。
「怒っている時は練習してはいけない」と霍先生から教えられてはいましたが、休日の練習で「胸の凹ましと股の締めのタイミングを合わせよう」と(集中ではなく)緊張していると1日練習しても(2ないし3分程度の時間ですが)このリラックスした練習程の効果がないことも体験しました。

「親に見守られて安心しきった状態で初めてハイハイが出来るようになる」ので、この原理を適用しようといのがフェルデンクライスの要諦の一つとなっていますが、この「親に見守られて安心しきった状態」が「人と人の心が交わる」と重なる様な気がします。

どちらに原因があるということではなく「身に付かない」と判断した段階で「怒っている」とか「緊張している」と同じ様に「戴氏が要求するリラックスした状態」からは遠のいてしまったのではないでしょうか。

この方が今も戴氏を続けられているかどうかは知りません。
勿論、続けていなくても「もっと良い趣味」と出会う、あるいは出会っている可能性もあるわけですから問題はないと思いますが、少し残念な気がしたのも事実です。






雑感(補足) 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 9日(木)17時50分56秒 返信・引用


下の投稿を読まれて「そんなことを言ったら練習できないじゃないか!」と思われた方も多いのではないかと思います。

あくまでも理想的な状態と解釈してもらいたいと思います。
疲れている時はフォームが乱れて悪い癖がつく可能性があるから練習してはいけない は戴氏では「原則」なのですが、寒い晩に自宅に戻りシャワーを浴びようと下着になった時、ホッとしてリラックスし一時的にでも集中力が戻れば、効果的な練習が出来る ということです。

ヨガの方では「リラックスしようと意識的に集中し(不安材料を一時的に忘れて)、身体の力みを取ることが出来る」という考え方もあるようです。(()内は私の私見です。)
この考え方は戴氏の練拳時にも適用できると思いますし、多くの方に取っては必要なメンタルテクニックではないでしょうか。

この部分に関してはもう少し「濃いめの私見」があるのですが、その前に投稿したい内容もあるので、この投稿を読まれた方は「今日は練拳を休もう」と思わずに、「趣味を楽しもう」と考えて頂きたいと思います(^_^;)。

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九要論

2014-11-02 08:07:01 | 理論―陰陽五行、名言集

Re: 原典の味わい 投稿者:事務局 投稿日:2013年 5月 8日(水)15時24分14秒 返信・引用


>土佐の川えびさんへのお返事です。

>> p22の「拳無拳来意無意」は直訳すれば「意が無意になることによって、拳が無拳となることが来る」でしょうか?来は由来を意味すると思われる。

素晴らしい!
その通りです。
また、来は歌訣の語呂合わせの意味もあります。読むと「拳無拳、意無意、無意之中是真意」より少し柔らかい感じになります。

> 本には「拳に拳がなくなるには、意に意がないことから生まれ」と訳されますよね。

これは袁先生とだいぶ相談しました。
実は意があっても無拳はできます。
でも、意図があるので、真の無拳ではありません。
無意にいたり、そのなかの真意を見つけてからが、本当の無拳(無形)です。
日本語にすると難しいですね。
今になってみると、ありのままを表している土佐の川えびさんの訳あるいは笠尾先生の訳がいいと思います。






Re: 九要論 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 8日(水)17時09分0秒 返信・引用


> No.445[元記事へ]

濠さんへ

> もしかすると形意拳の本などに日本語訳があるかもしれません。

> 日本は太極拳が盛んなので、
> 『太極拳十大要論』の日本語版のほうが見つかりやすいかもしれません。
> こちらもいいですよ。内容はほぼ同じです。

探してみます。
どうも有り難うございましたm(_ _)m。






Re: 九要論 投稿者:濠 投稿日:2013年 5月 8日(水)18時40分11秒 返信・引用


>kさん
どういたしまして。
見つかるといいですね(^^

もしかすると、M先生がご存じかも?





Re: 九要論 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 8日(水)19時17分57秒 返信・引用 編集済


濠さんへ

> 見つかるといいですね

有り難うございます。一応こんな解説を見つけました(^_^;)。

「五則
郭雲深先生、形意拳術を練するに、三層の呼吸有りを言う。

第一層練拳術の呼吸、将に舌は捲回、上齶に頂住せんとし、口は開くに似て開くに非ず、合せるに似て合せるに非ず、呼吸は其れ自然に任せ、呼吸を著しく意(おも)ふべからず、手足の動作に因りて規矩に合せ、是を調息の法則と為し、また練精化氣の功夫に即すなり。

第二層練拳術の呼吸、口の開合、舌頂上齶等の規則は前に照らし、惟呼吸と前の一層は同じからず。

前者は手足の動作が是の調息の法則、此れここは息調なり。

前者は口鼻の呼吸、此れを借りることを過ぎざるを以て内外に通ずるなり。

此れ二層の呼吸は丹田の内呼吸に著意するなり、又の名を胎息、是を練氣化神の理と為すなり。

第三層練拳術の呼吸、上の両層の意義をともなうも同じからず、前の一層は是明勁、形が外に有り、二層是暗勁、形が内に有り、此れ呼吸有りと雖も無きが若し。

勿忘勿助の意思、即ち是れ神化の妙用なり。

心中空空洞洞、有らず無からず、有るに非ず無きに非ず、是れ無声無臭、還虚の道なり。

拳術を練る終始本末の次序、即ち一氣貫通の理、有より無に化するの道なり。」

ヒットした九要論も「このページを訳す」で観てみたのですが、少し違っている様な気がしています。まぁ、訳自体が機械翻訳そのままといった感じて意味をなしていないのですが、想像を逞しくするに、鍼灸で説くところの五行説に近い様な「感じ」がしていますが、これから頑張って検討してみようと思っています。







九要論 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 8日(水)22時35分15秒 返信・引用


九要論は、戴氏心意拳拳譜の中では、プロローグ的というか、大綱を示したところだろうと思います。一 気 二 陰陽 三 三節・・・という章立ては、陰陽五行の考え方を中心においているということがよくわかるし、それを生かしながら、武術理論になっているところがなんとも知的というか、素晴らしいところです。「戴氏心意六合拳 技撃精要」でもそういう根本的なところは、大切にしたかったところです。





Re: 九要論 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 9日(木)06時20分45秒 返信・引用


うさぎさんへ

ちょっと気になったので質問させてください。

> 一 気 二 陰陽 三 三節・・・という章立ては、陰陽五行の考え方を中心においている

岳先生が「戴氏心意拳は道家にその源をもち」と発言されていますが、その根拠として「(九大要論の九つの章立てが)道家の心法に符合する」ことを挙げています。

九要論の機械翻訳はよく理解できなかったのですが「二の陰陽と五の五行(武術では行と記述されている)」以外は陰陽五行説とは関係ない記述のように読めました(想像できました)。

うさぎさんの発言は「二の陰陽と五の五行」が九要論(武術では九大要論)の中心になっている という意味なのでしょうか。

お時間のある時にでもご教授ください。

コメント
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