祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

武術で強くなること

2014-11-27 20:09:47 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

強くなる 投稿者:うさぎメール 投稿日:2013年 7月 7日(日)11時33分43秒 返信・引用


今日は練習日、練習が終わってから、コーヒーを飲みながら話をした。
その方は、武術をめざしてやってきたわけではない、自分の病気をよくしたいという気持ちが強かった人だと思うのですが、武術をやっていること自体が楽しいことや、仕事などのストレスがあっても、戴氏心意拳をやっていることで、強くなれたことなどを話してくださり、私自身もとても嬉しかった。武術を通して、私の周りには、何人もの方が、武術を単なる趣味の次元ではなく、人生の一部として追求してくださる方がいらっしゃることに本当に幸せな気持ちになることでした。





Re: 強くなる 投稿者:玄馬メール 投稿日:2013年 7月 7日(日)17時07分44秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

> その方は、武術をめざしてやってきたわけではない、自分の病気をよくしたいという気持ちが強かった人だと思うのですが、武術をやっていること自体が楽しいことや、仕事などのストレスがあっても、戴氏心意拳をやっていることで、強くなれたことなどを話してくださり、私自身もとても嬉しかった。武術を通して、私の周りには、何人もの方が、武術を単なる趣味の次元ではなく、人生の一部として追求してくださる方がいらっしゃることに本当に幸せな気持ちになることでした。

いいお話ですねぇ。22ページの最後に書かれている「静であれば道となる」の具現だと思います。

出典は忘れてしまったのですが、何かの業界紙のインタビュー記事だったと思います。
(おそらく著名な)登山家へのインタビューで「雪山で遭難した時、生き残って救助されるのはどのような人か」といった話題に関しての答えだったと思います。素人の考えでは「若くて体力のある人」となると思いますが登山家の方は「生き残りの条件」として全く違った見解を述べておりました。
この「答え」についてはそのうち投稿したいと思います。(もしかしたら 知っているぞ という方もいらっしゃるかもしれません)

私見ではこの見解と「静であれば道となる」は本質的に同じ内容ではないかと思っています。

この方が「どのような修羅場」で生き残られたのかは知りませんが、ご自身で言語化しているかどうかは別として「何か感じるもの」はあったのではないでしょうか。

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汗という体温調節システム

2014-11-23 14:37:39 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系
汗という体温調節システム 投稿者:うさぎメール 投稿日:2013年 7月 6日(土)07時53分14秒 返信・引用


昨日は、暑かったので、昼間にだいぶ汗をかいたのだが、かなりべとつくなあとか思いながらも汗を拭くくらいしていなかったら、夜になって熱がこもっているので、風呂に入ってスッキリした。
「冷ます習慣」のパート2の話です。
体温調節は、腎陽と腎陰のバランスによって保たれている。このバランスが崩れると熱の放出作業を行う汗も出過ぎたり、逆にこもったりしてしまう。寝汗をかいたり、少し運動しただけで、人一倍汗をかく場合は、衛気の働きが弱まっているわけですから、運動と休養のバランスやストレスマネイジメントには十分気をつけなければならないですよね。
また、汗をかく習慣があまりない人は、身体から熱を放出することができないので、特に夏の時期には、内側に熱がこもってしまう。暑くてよる眠れないとか夏風邪をひくというのは、このような内熱を生じることから生じることと関係しています。
汗をかく大きな働きの一つは、体内の熱の放出。内熱を冷ます役割を果たしている。練拳者に「汗をかきましょう。だけど、汗を書きすぎる練習は良くありませんよ。」という話はよくしますが、運動・循環と体力消耗というバランスを考えなければならないことをかんがえていただくためなのです。
仕事しますね。中断

汗という体温調節システム 投稿者:うさぎメール 投稿日:2013年 7月 6日(土)20時44分49秒 返信・引用


「汗をかく」ことによって体内の上がりすぎた熱を体外に放出し、体を冷ます役割をしているいるわけだから、運動をして熱を生じるとか、寒い環境におかれることによって、体内に熱を生じる(風邪を引くのは代表的ですね)、今の季節だと体内に熱がこもるといったときは、体力に余裕があるとき(ある人)は、運動によって汗をかくといいし、体力に余裕がなければ、発汗作用のある食事や風呂にはいるといったことも効果がある。
気をつけなければいけないのは、「汗のかき過ぎ」です。汗をかくことは、体内のエネルギーを放出しているわけだから、エネルギーの量自体が少ない時に、汗をかき、体力を消耗するのは、体に良くない。汗もまた引用のバランスの上に成り立っているわけです。


食養 投稿者:うさぎメール 投稿日:2013年 7月 6日(土)22時16分30秒 返信・引用


今日は、朝から畑に行っていたら、さすがに暑かった!帰ったら爆睡でした。オクラとか、トマトとかとってきたので、夕食は、そばでした。納豆、山芋、オクラという腎を養うものトマトは心を養うものを食べました。



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五性

2014-11-22 08:04:19 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系
五性 投稿者:うさぎメール 投稿日:2013年 6月24日(月)20時08分49秒 返信・引用


冷ます習慣の話の基礎となっているのは「五性」という五行の一つの理論です。
体を温める性質、冷ます性質のものを五つ(熱、温、平、涼、寒)に分けた考え方で、漢方や薬膳の基礎になっています。食べ物や薬の理論だけでなく、戴氏をやっていても、練拳者の様子を見ながら、もっと温めたほうがいいなあとか、冷ました方がいいなあとか、爆発勁の練習を増やした方がいいとか、静の練習を増やした方がいいとかわかってくるわけです。戴氏はそのような、感覚をとおしてわかってくることが大切だし、ある程度の基礎的な知識も知っておくことは大事なことだと思います。
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冷ます習慣

2014-11-21 22:32:16 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系
冷ます習慣 投稿者:うさぎメール 投稿日:2013年 6月20日(木)23時00分36秒 返信・引用


中国人のマイボトル習慣っていいですよね。ちびりちびりと水分補給する。お茶はやはり利尿作用がありますから、補腎という観点からもいいですよね。余分な水分を体に残さないから、だるさ、重さを残さない。中国人のマイボトルはガラス瓶が多いですよね。あれがいい。日本人の感覚からいくと、ペットボトルを凍らすとかポットに近々に冷やしたものを入れとくとかするわけですが、冷たいビールをキューっとといった日本人の急激に冷やす文化は体を痛めて行きますよね。もう一つ戴氏心意拳をしていて、果物で体を冷ます方法をとるという習慣は素晴らしいなと思いました。
運動をすると、体に熱を持つわけですから、冷やしたいというのは当然ですが、たいせつなのは、それを冷ますということであって、急激に冷やすことではない。そのことは運動によってせっかく高めた気血を滞らせる。
それから一見科学的に見える説明で、熱中症予防のために、コレステロールを減らすためにとか………水分を多く取りましょうという謳い文句で、何リットル分のペットボトルの水をガブガブ飲む人がいるが、水はちびりちびり飲めばいいのであって、例えば水分2リットルの代謝があるとしても、がぶ飲みする水で2リットル飲む必要はなく、食事やちびりちびりのみながら2リットルにしていけばいいわけです。
日本人はアトピーとか花粉症とか他と比べると異常に多いのは、湿熱の関係が大きいと思われます。
ただでさえ湿度の高い国土であるのに、水分を異常に摂りすぎること、冷たいもので急激に体を冷やすのが良いという習慣は、体は冷やすと、熱を持つようになる、それが炎症となってあらわれる。花粉症といわれると、花粉の除去にばかり目がいくが、太鼓の昔からあった花粉にどうして、現代人だけが過敏症になったのかという体の変化にも目を向けなければならないと思うのです。湿熱を生むのは、余分な水分、急激に冷ますということだけではなく、ストレスだとか、食生活その他もあります。
適度な水分と適度な温度、適度な分量の食事、適度な運動など適度なものを見つけて行くことは、やはり陰陽を追求することでもあるのでしょう。
ちなみに、運動前後、ある程度時間をおいて、少量の果物を取ることは練習にも良い効果を与えると戴氏心意拳では言われています。
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鷂子入林・斬首砲

2014-11-19 21:02:19 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

また、目録の…(技撃精要p45) 投稿者:土佐の川えび 投稿日:2013年 6月14日(金)18時52分27秒 返信・引用


套路四把に出てくる。鷂子入林・斬首砲は、七膀の鷂子入膀・七砲の斬首砲と原理は同じものですよね…?



深める 投稿者:うさぎメール 投稿日:2013年 6月14日(金)22時49分52秒 返信・引用


土佐の川えびさん 「套路四把に出てくる。鷂子入林・斬首砲は、七膀の鷂子入膀・七砲の斬首砲と原理は同じものですよね…?」

はいそうですよ。技法名が同じものは、同じ技法です。套路の中でやるのか、単式で行うのかの違いです。単式のものは、左右で練習しますから、やはり単式のものを一緒に演習するのがいいですから、套路で学んでから単式のものも習うと効果的です。

kさんへ 戴氏の本質って教授法の中にも大きく反映されていますよね。
外に対しては、非常に保守的で秘密主義を守り通した戴氏ですけれども、教える人に対しては非常に精密に教えた。
 戴魁は、教えるときは、非常に厳しかったそうです。木の棒を持って、「ここが違う、ここだここ」と言いながらその場所を棒でたたいた。質問などすることはできなかった。と王師父は語っていました。
 今だったら、体罰の問題になりそうですし、今の戴氏の懇切丁寧な教え方とはだいぶ違うという風に表面的なものだけを見て判断してしまったら、戴氏の教授法の真意を取り違えてしまう。
 戴氏の教授法に脈々と受け継がれているものは、厳しいか、やさしいかという表面的な教授法ではなく、「不多、而精」に代表される、しっかりと教えるということだと思います。
 戴魁やそれ以前の戴氏の伝承者や王映海師父などを含め、現代の科学、神経学、物理学といった知識や理解はまずほとんどなかった。私はよく師父から「お前はあたまがいい」といわれるのが、いつも恥ずかしくてたまりませんでした。というかいやでした。「お前は、大学も出ている。学問がある。戴氏をさまざまな学問と結びつけることもできる。」といわれながら、戴氏心意拳について、人生について、生きることについて、師父にははるかに及ばない自分自身の無知さ、浅はかさを突き付けられているように思いました。
 師父は、一生、無識字でしたが、拳譜の言葉を漏らさず暗唱されましたし、その言葉を指導の細部にわたって引用し、その言葉で適宜諭されました。一日教えを受ければ、「一生の師である」と戴魁が床に臥されてからもずっと、作った野菜を他の弟子たちと持ち寄り、死ぬまでつくした。いつも謙虚に、「私だけではない。村の弟子たちみんなで師を助けた。」とおっしゃっり、自分の手柄だけにすることをしなかった。年老いてからも、常に自らが練習することを止めず、私に指導する合間を縫って自らも練習されていた。「いくら親しい人であってもいつかは別れ別れになってしまうが、学んだもの、身に着けたものは、自分が死ぬまで離れていかない。貴重なものだ。」とよく私に諭された。
 師は、戴氏心意拳や生活の中から多くのものを学び、それを彼の学問や科学にしていったのだと思います。決して国際的でも幅広い知識でもない。しかし私は彼の前に立った時、深遠なる広大な宇宙を彼の存在から感じることができたし、自分自身の学歴だとか職業、財産教養…といった表面的な鎧を身にまとっている自分が恥ずかしく思えたのです。
 あの武術がどうだとか、これと比べると戴氏はどうだとかといった一般教養は、いったん捨てようと思ったのです。比較の中にある戴氏概論ではなく、戴氏を深めたいという気持ちに変わっていった。それは、師父の前に立った時に、自分自身の何も知らない恥ずかしさからきているものだと思うのです。



Re: 深める(その1) 投稿者:k 投稿日:2013年 6月15日(土)20時21分24秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

> 戴氏の本質って教授法の中にも大きく反映されていますよね。
> 外に対しては、非常に保守的で秘密主義を守り通した戴氏ですけれども、教える人に対しては非常に精密に教えた。
>  戴魁は、教えるときは、非常に厳しかったそうです。木の棒を持って、「ここが違う、ここだここ」と言いながらその場所を棒でたたいた。質問などすることはできなかった。と王師父は語っていました。
>  今だったら、体罰の問題になりそうですし、今の戴氏の懇切丁寧な教え方とはだいぶ違うという風に表面的なものだけを見て判断してしまったら、戴氏の教授法の真意を取り違えてしまう。

戴氏は「感覚」を大切にしていると思います。
その意味では、「手を離さない」も「棒でたたく」も「身体の特定部分の感覚に集中する手段」としては共通しているのではないでしょうか。

以前、「腹が肩を催す」感覚を研ぎすまそうとして(肩に力が入るとマズいので)腕をぶらんと垂らしたした状態から丹田功を試していた時期がありました。これはこれで有効だったのですが現在は(霍先生から指導された)腹の上に手をおいた形の丹田功をおこなっています。理由は手を腹の上におくことでこの部分の感覚が手をおいていない時に比べて、意識を集中することでより研ぎすまされるからです。

霍先生の助手で参加者の方に丹田功を指導させてもらった時、胸を押したときの指の感覚で「この人の胸の感覚は私が霍先生に胸を押してもらった時の胸の感覚と近いのではないか」と感じられたことがありました。胸を押した時の感覚は「押す方の指の感覚」と「押される方の胸の感覚」があるわけですが、双方の「表裏一体の感覚」を体験できたことは感覚の理解を深めるのに有効でした。

当たり前じゃないか と思われた方が多いと思いますが、ここがスタート時点になるということです。
「腹を動かす手段として胸を押している」わけですので「胸がいい感じで胸を押せた」時は「腹がうまく動いている」場合が多かったと思います。ただ、「胸がいい感じで押せても腹がうまく動いていない」受講者の方もいましたし、反対に「胸がうまく押せなくても腹がうまく動いている」受講者の方も少数ですがいらっしゃいました。
経験を積んでこの辺りの理由がしっかり判れば、指導力が向上するばかりでなく、自分自身の練拳の質も向上する と思います。
勿論これはある程度のレペルに達して初めて可能になることです。
胸を凹ます感覚が身に付いたら当然のその次のレベルがあるわけです。逆に言えば、次のレベルにいく為に胸を凹ます感覚を身につける必要があるで、そのことを踏まえて胸が押せないといけないわけです。
私の場合のその次のレベルの感覚が曖昧だったので上に書いた「この辺りの理由を判ろう」とするとかえって混乱をきたしたと思います。

平たく言えば教えるレベルに達していなかったわけで、アシスタントはともかく、他人に教えなかったことは、自分にとっても教わる人にとっても良かったと思っています(^_^;)。



Re: 深める(その2) 投稿者:k 投稿日:2013年 6月15日(土)20時38分42秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

>「お前は、大学も出ている。学問がある。戴氏をさまざまな学問と結びつけることもできる。」といわれながら、戴氏心意拳について、人生について、生きることについて、師父にははるかに及ばない自分自身の無知さ、浅はかさを突き付けられているように思いました。

ちょっと違うのですが私にもほろ苦い思い出があります。

霍先生が「私は子供だったので説明してくれる拳譜の内容がよく理解できなかった。だから練習に励むしかなかった。」と言われた時「中国語も中国文明も判らない僕も子供みたいなものですねぇ」と返事をしました。
その時霍先生が横を向いて少したってから、独り言のようにボソッと「そんなこともないんじゃないか」と言われました。霍先生の普段のしゃべり方からすれば「そんなことはない!何故ならば・・・」ととなるところなのですが、この時は「何故ならば」と言う理由の説明はありませんでした。
想像にする「コイツが戴家拳を身につけるのは無理だなぁ」と内心思われたのではないかと思います。

初回の訪中時は五行拳まで教えてもらったのですが、帰り際に「五行拳は無理でも丹田功から引気法までは続けるように」と少し寂しそうに仰られました。

霍先生の予想はある意味あたっていたのですが、なりふり構わず色々考えたので、当初の自分の予想を超えて戴家拳に対する理解は深めることが出来たと思っています。

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