理論が生まれる 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 1日(水)21時24分24秒 返信・引用
kさん そのとおりですよね。「理解が必要かと言えば、練拳の内容をより精密化する為に有用だから」私もそう思います。
拳譜の言葉も、老師の口訣もすべて練拳をより精密にするためにあると思います。極端に言えば、理解や理論がなくても達人は現れえる。武術がはじめにあって、理論はついてきたとも言えます。戴氏心意拳だとか太極拳といった門派が生まれてきたのは、異なる伝達理論が生まれてきたからこそ門派が生まれてきたとも言えるのだと思います。
そのことを考えると、独自の理論が生まれたからこそがその門派の特徴だとも言えるわけです。ですから私自身は、はじめから各個人がさまざまな解釈でいいというのは違和感があります。まずは、戴氏は戴氏の理論から入っていくべきだし、太極拳は太極拳の理論から入っていくべきなのではないかと思っています。
私がよく感じることなのですが、中国人の老師からは、拳譜の中の表現があふれる如く伝えられるのに、日本人老師は、学生に伝えるときに、そのような表現はほとんど出てこず、自分なりの解釈や喩えを使って教える事を見て私は残念だなあと思ってしまうんです。
堅物な考え方かもしれませんが、日本人が解釈した物を伝えるというのは日本化中国武術であるのではないかと思うんです。
拳譜を学びましょうと言っているわけではないんです。拳譜だけ学んでも死んだ理論だと思うんです。練拳を通して、その脈絡の中で出てくる言葉だから生きた理論になる。
自分の言葉で語れとよく言われます。しかし、まずはその武術の言葉で理解すること、その言葉を謙虚に受け入れ、練拳し続けること。そこから生まれてくる自分なりの言葉であれば、自由で豊かなものであると思うのです。堅物ですね。
戴家拳における科学の有用性 投稿者:土佐の川えび 投稿日:2013年 5月 1日(水)22時34分41秒 返信・引用
> No.426[元記事へ]
kさんへのお返事です。
「古代の賢人」=じっくり観察、考察する人。
「知性のない大学生」=実験、探究しない人。と言うところでしょうか?
> 「動作を観察して得られる動きの解釈」は単なる知識による科学的迷信でなければ、つまり科学的態度が維持されている限りは「五行説」であっても「怪しげな体液説」であってもその目的を達成できるわけですから特に拘る必要はないのではないでしょうか
>
「科学的態度」=「語学を学ぶ方法」としてみると。
スペイン語、イタリア語等、ラテン語系の勉強している人がフランス語を学ぶのと、普通の人が学ぶのとは方法がちがってくる。しかし「語学を学ぶ方法」は存在し拘る必要もない…かな?。
今回は、文章が何か分かりにくいと感じました。
丹田功の始まりについて
姫際可先師は、八極拳の扎槍(さっそう、腰を横に回す)の様な方法より、体の縦回転を使う槍法を採用した。
その方が、集団で密着する時使いやすい。槍ぶすまを並べる様な時。復生元の岳飛将軍は個でなく軍隊で戦ったので、そう指導した。その後、道教の丹田功に共通項を見いだし採用するようになったのかな?と想像します。うちのボスは、あんまし歴史的考証に興味がないのだ…。
ちなみに、私は戴氏の槍の知識は0です。
Re: 理論が生まれる 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 2日(木)12時30分21秒 返信・引用 編集済
> No.427[元記事へ]
うさぎさんへ
ご返事有り難うございました。
> そのことを考えると、独自の理論が生まれたからこそがその門派の特徴だとも言えるわけです。ですから私自身は、はじめから各個人がさまざまな解釈でいいというのは違和感があります。まずは、戴氏は戴氏の理論から入っていくべきだし、太極拳は太極拳の理論から入っていくべきなのではないかと思っています。
伝統的かつ正統的な主張だと思います。
霍先生も段先生からそのような形で学ばれています。ただ霍先生の場合は「私はまだ子供で、解説してくれる拳譜の意味がよく理解できなかったのだ。」と言うことだったようです。判ったつもりにならないところに霍少年の知性を感じるのですが、それでどうしたかというと「だからひたすら練習に励むしかなかったのだ。」ということになったようです。
以上は雑誌に掲載されたインタビュー記事なのですが、「その結果丸い力が出るようになったので拳譜の内容は理解していなくても戴家拳は身に付けられる」と言う結論に達したらしいのです。
ただ、霍先生は決して頑固な先生ではありません。拳譜等もよく研究されているようですし、何よりも中国に行く前にM先生から「なるべく質問をした方が良いよ」とアドバイスを受けました。以前霍先生のところに習いにいった人が全く質問せずにノートだけを取っていたら「お前はやる気があるのか!」と怒りだしたのを目撃している というのがその理由でした。
この辺りは講義内容に対して批判的な質問が歓迎されるアメリカの大学の授業を彷彿させます。
理論面についても質問したことがあるのですが、岳先生と同じで「戴氏心意拳の拳理は宋代岳飛の「九大要論」に基づいている」と言うことでした。ただ岳先生と違っているのは「と言うことになっているがかなり怪しい」と言うことでした(^_^;)。
以前「武術」に「岳飛の「九大要論」は実在した!」という記事が掲載されていたので、M先生にお聞きしたところ「信憑性に関しては疑問の余地がある」と言う様な答えだったと記憶していますので、霍先生の主張もまったくの「でたらめ」ではないような気もしています。
ちなみに貴会が発行したテキストの242ページの拳譜では九大要論、つまり九つの構成ではなく、十六注法となっていますが、これも広義の意味での道教なのでしょうか。
うさぎさんも述べられているように、同じ戴氏でも異なる系列の各門派が独自の拳譜を理論の礎とすることは自然なことだと考えております。
単なる野次馬的好奇心からで正当性を含む優劣を論じるつもりはさらさらありませんので、その点に関しては好意的にご理解下さい。
Re: 戴家拳における科学の有用性 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 2日(木)12時40分10秒 返信・引用 編集済
> No.428[元記事へ]
土佐の川えびさんへ
ご返信有り難うございました。
>
> 「古代の賢人」=じっくり観察、考察する人。
>
> 「知性のない大学生」=実験、探究しない人。と言うところでしょうか?
そんなところだと思います(^_^;)。
> 「科学的態度」=「語学を学ぶ方法」としてみると。
> スペイン語、イタリア語等、ラテン語系の勉強している人がフランス語を学ぶのと、普通の人が学ぶのとは方法がちがってくる。しかし「語学を学ぶ方法」は存在し拘る必要もない…かな?。
> 今回は、文章が何か分かりにくいと感じました。
確かに私の投稿からはそのようなニアンスは感じらますが、「ある現象を考える時、異なった視点からの多角的な解釈があればその現象をより深く理解できるので特定の視点に拘る必要はない」といった感じの主張をしたつもりでした。
事実私はこの本の発刊は首を長くして待っていましたし、読んで有益な点も多かったので続編の発刊も期待しながら待っています。
ただ、あの投稿を読んだ方は川えびさんのように解釈するでしょうねぇ。
下の投稿でも触れましたが、批判的な質問も歓迎したいと思っております。
何かあれば遠慮なく投稿してください。
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