砂蜥蜴と空鴉

ひきこもり はじめました

見捨てられた村

2005年08月08日 | ログ
雷雲は地平線の先まで不足なく広がり、轟々と鳴る荒風に対する天蓋の役を果たしていた。
空が唸る。
もはや村嵐の到来は確実でありこの地に残る者に明日の陽はあるまい。
ユウは残っていた。
ユウは不具ではない。ユウは健常である。
老いた者。病める者。
彼女は双方に属さぬ者であり、また若かった。
なぜ彼女は、この村に残ったのだろうか。
これから死んでいく村に。
これから死んでいく僕らの下に。
「行かないのかい、ユウ」
驚いたように彼女は振り向いた。
あぁ、不快であったか。
後悔。
先程からじっと彼女の背を見つめていた僕に気づかぬ訳はない。
僕という存在に驚いたのではなく、僕という存在が声をかけた事実に驚いたのだろう。
仕方はあるまい。
僕は彼女を知っていたし彼女も僕を知っていたであろうが。
僕はこれまで彼女と会話をした事が一度たりとも無かったのだ。
そう。
この閉鎖的で小さな村社会で断絶した関係で関係しあうほどに。
彼女はあまりに美しく。
僕はあまりに醜かった。
「こんにちは」
災時に似合わぬ鈴の音のような声。
自分の生涯で最期となるであろう挨拶は、倒壊していく家屋の不協和音の群れに一分も掻き消されることなく耳朶に届いた。
僕もまた挨拶を返し、しかし彼女とこのまま会話を続けることが許されるのか迷った。
大地は刻一刻と揺れ幅を増やし不安定なバランスの上に成り立っていた諸々の人工物を薙ぎ払っていく。
呻く声も叫ぶ声もこの高台まで届かない。
少なくとも、この地には五十の老人、病伏が残っていた。
届かない。
誰一人の声も届かずに呑まれていく。
山肌を削る土砂の波に。許容をとうに超えてなお雷を受け続ける避雷針の崩落に。
人間の音は、より大きな破壊の音に呑まれていく。
ならば構うまい。
ここで終わるのだ。
命も。体も。痕跡も。
全ては届かないまま嵐に消える。
ならば構うまい。
何を伝えようと。何を話そうと。何を語ろうとも。



そうして彼は―――