今日で震災の日から29年。関西であんなに大きな地震があるなんて思いもしなかった。あの時間に間に合ったので台所で黙とう。昔のブログふたつ転記。今年の元日の能登半島のことを思いながら。
【13年】
今日は寒かった。朝、普通に起きて、ああ、よかった、と思った。そんなことはあるはずがないのに、毎年この日が来ると、また何か起きるんじゃないか、と思ってしまう。
年末にこときれたTVは、13年前の今日、私の足元に落ちてきたTVだった。地震でいくつかの家電がだめになって、あるものは買い換えたり、別のはそのままになったりしたが、TVはありがたいことに無事だった。あとで考えたら、あの重さのものが、直接体の上に落ちていたら、いくら足でも怪我してたはず。それも運が良かったと思うしかない。お腹だったら、と思うと背筋が凍る。で、布団の上だったこともあり、かの機械もその後震災報道を伝えるのに役立ってくれたわけだ。
建物ごと巨人がつかんで振り回してるみたいに感じた揺れだった。最初のは訳もわからず、明け方で暗かったのに直後に停電して、前の国道も信号が切れて不気味だった。でも、本当に恐怖を感じたのは余震。昼となく夜となく、ゆっさゆっさと見えない手が家を動かす。これが一番きつい地震の予兆ではない、とは誰も断言できない。暗さにおびえなくてすむよう、電気をつけたまま眠った。服も着たまま。預金通帳や保険証は、いつもかばんに入れて持ち歩いた。
お兄の通う小学校も避難所になっていたし、仕事に出れば、市場に日用品を買出しに来るたくさんの人たちを横目に、まだブルーシートもかかっていない、瓦が部分的に落ちたままの家々の間を通って、銀行に行ったり郵便を出したり、私の日常は続いていた。豊中、特に庄内地区は、不思議な混沌としたエリアだった。死傷者もずいぶん出たし、全壊、半壊した家屋もたいへん目立っていた。にもかかわらず、ライフラインはすぐ復旧し、一見平穏を取り戻したように見えた。だから、すぐ隣町でお風呂にも入れない、とか飲料水が店から消えてしまった、とかいう言葉だけが、奇妙に浮き上がって聞こえてきていた。でも本当は、そういった目に見える復旧で隠されていただけで、避難所がなくなったのはどれ位経った頃だろうか?職場の同僚は、住んでいた社宅が倒壊して田舎に引き上げ、そのまま大阪へ戻ってこなかった。当時、大阪府下でもこれほどの被害があったことを知っていた人は、とても少なかったに違いない。
今年もあちこちで、震災を忘れないための行事が行われたようだ。直後に作られた歌を歌う小学生たち。でも、彼らの誰一人として震災を体験した子供はいない。もう13年経ったのだ。こっちゃんだって、まだお腹のなかにいたもんなあ。
【12年前】
あの時の怖ろしさが、徐々に遠ざかっているのを感じて、この日が来るたびに改めて自分の周りを見つめなおす。
私の住む町は、震度6弱だったそうだ。それもずっと後になってからわかった事。その瞬間は、何が起こったのか全く訳がわからず、隣に寝ていたえっちゃんの上に覆いかぶさるのが精一杯だった。1年生だったお兄は、前夜からお腹の具合が悪く、何度も夜中にトイレに立っていたらしい。いつもなら、えっちゃんも同じ部屋に寝ているのだが、そんな事で、私たちの布団に彼女はいた。
大きな揺れがおさまったとき、とーちゃんが子供部屋に走った。もちろん真っ暗で、狭い家とはいえ、物が落ちてきたり倒れてたりするので、手探りでいったようだ。彼は、タンスの上に無理やり押し込んであったモスボックスが落ちてきて、山のようになった下にいたそうだ。布団をかぶっていたし、衣類がいっぱい入っていたとはいえ、柔らかい物なので、中身が飛び出しても危険はない。
後で検証すると、重いタンスが10センチほど動いていた。無理やりボックスを突っ込んだことが幸いしたのだろうか。もし固定されていなかったら、と思うとぞっとする。
えっちゃんは、ぐっすり寝ていると思っていたのだが、私たちがばたばた動きだした頃、小さい声で「怖かったねえ」とつぶやいた。怖くて口がきけなかったのだ。私は7ヶ月の身重で、何もできないのでえっちゃんとしばらく布団の中でぼーっとしていた。私の足元に、今も健在の21インチのTVが落ちていた。これまた、お腹の上でなくて、本当によかった、と思った。
我が家の被害はたいしたことはなく、ミキサーが壊れたとか、皿、コップ、茶碗が大規模に割れた、とかいう程度のことで済んだのだが、住んでいたマンションは、外部に大きな亀裂が入っていた。ラジオのニュースは要領を得ず、取りあえず自分が無事で、家も大丈夫なので、仕事に行かなきゃ、と子供たちを連れて出たら、小学校も保育所も急遽休みになっていた。実家に行くと、靴のまま入れ、という。ひとまず緊急避難させてもらって、電車が動かないので私は徒歩で職場に向かった。元気な人なら20分、私は30分位かかっただろうか?途中の歩道に亀裂が入って、真ん中が盛り上がっている場所が続いていた。
職場に着くと、近所の社員が既に数名来ていて、倒れたラックや本棚を元に戻したり、床に落ちたパソコンを机上に置き、チェックしたりしていた。最初はかかってきた電話も、すぐつながらなくなった。今ほど携帯が普及していなかったから、駅前の公衆電話には長い列ができていた。同じ大阪なのに、市内との温度差はものすごいものがあり、
まして、社長は奈良在住で、全く他人事のような対応だったので腹が立った。結局仕事にならないので、片付けだけして帰宅した。余震がひんぱんにあって、そのたびに「もうやめて!!」と思いながら、夜を迎えた。
一家四人、くっついて寝た。
鮮明に覚えていることと、もうおぼろげになってしまったことと、その境界線がはっきりしない。
12年経ったんだな、と思う。
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古いブログが消えてしまったので、それ以上前のものは残っていない。もっと緊迫感のあることを書いていたのかもしれないが。ただ、当時お腹にいた子がアラサー、ということは徐々に震災を知っている人が減っている、ということで、知っていても記憶が定かでなくなってしまっているのも確かなこと。当事者として覚えておかねばならないことはいくらでもある。