Being on the Road 2

日常の中に旅があり、旅の中に日常がある。僕たちは、旅の途上。
Being ON the Roadから順次移行開始

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/鉱都足尾・秋物語 その2

2025年01月04日 | 旅行

2024年の記録

足尾の燃える秋、9月~11月の散策の記録

 

 

足尾は、谷にあり15時になると太陽が山影に落ちてしまい夕焼けらしい夕焼けを見ることができない。それに対して、ひと山越えた日光市清滝では、美しい夕焼けが見られた。

 

 

半月峠、細尾峠以外は、旧日光市、旧今市市ということになる。

半月峠にクルマで行くには、日足トンネルを抜け、いろは坂を登ることになるが、半月峠展望台は、旧足尾町域である。

細尾峠は、足尾と日光の境界の峠で、国道122号線の旧道になる。その下を貫いているのが、日足トンネルである。

 

 

半月峠は、中禅寺湖と男体山を一望できる絶景スポットである。半月峠と記載しているが、厳密には半月山駐車場である。

南側の雲海に覆われているのが旧足尾町である。(この雲海のお陰で、夏は80%を超える多湿と日常的に朝霧が発生している。)

北側の中禅寺湖を眺めると、抜けるような青空が広がる。

 

 

役員を迎えに東武日光駅に向かうと、駅の辺りから煙があがっている。電車は不通となり、下今市駅まで迎えに行かないと、と思いながらも、ひとまず東武日光駅へ。何のことはない、蒸気機関車が来ていた。(東武日光駅に蒸気機関車が来るのは、平日限定である。)

 

 

細尾峠は、国道122号線の日光・足尾間の難所となっていたが、日足トンネルが開通し現在は旧道となっている。すれ違うクルマも少なく、舗装されているものの、落ち葉がそのまま堆積している。

 

 

今市に買い物に行くときに利用している県道248号線と大谷川の間に広がる日光だいや川公園。オートキャンプ場を併設した自然型の公園で、以前から気になっていた。友人を下今市駅に向かいに行くときの時間調整に寄ってみた。公園の紅葉ではあるが、美しかった。

 

 

下今市駅に友人を送るときに寄った日光口PA(上り線)。今市まで来ると、標高もグッと下がり、「孫生え(ひこばえ)」で緑色になった田んぼが広がる穏やかな景観となる。

 

 

【メモ】

年末年始を息子とすごして、あらためて思ったこと。

親バカと嘲笑を買うことを覚悟して書くと、自慢の息子だ。頭(理路整然と話ができるとか、学歴とか)もルックスも僕に優っている。でも、気になることが何点かある。

勝ち目がなくても、挑戦するという気概がない。石にかじりついても、といったことをしないのだ。今の若者(といっても息子は、すでに32歳)は、みんなこうなのか?

僕は就職してからは、親からびた一文貰ったこともないし、貰いたくなかったが、息子は、買い物に行けば、チャッカリ自分のものまでカートに入れる。飯を喰いに行っても、払う気などサラサラない。母親の教育の問題なのか、僕には理解できない。

一番気になることが、中卒、高校中退、非正規、無職、半グレ・・・・・といった人を見下しているところだ。確かに息子は、それなりに頑張って、一流高校、大学、企業とエリート街道を歩んできているが、学歴、職業、収入なんてものは、人間の一面でしかない。最後の1点だけは、早々にスイッチしないと、人生の階段を踏み外すことになりかねない。親がガミガミ言って、どうにかなるものでないことが、悩ましい。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0

 

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/鉱都足尾・秋物語 その1

2025年01月01日 | 旅行

新年あけましておめでとうございます。

新年に紅葉期のブログも如何なものかと思いますが、秋のブログにおつきあい願います。

 

 

2024年の記録

足尾の燃える秋、9月~11月の散策の記録

 

 

正直なところ、僕は紅葉にあまり興味がなかったし、足尾の紅葉が、そんなに美しいものだと思っていなかった。足尾に住み、日々刻々と紅く燃える景色を目のあたりにして、紅葉の美しさ、足尾の紅葉を知った。

 

 

その1では、居宅を中心とした旧足尾町中心部の写真をアップする。

 

 

9月8日、秋雨前線のためか、激しい雨。「ああ、夏が終わったか」(足尾町掛水)

 

 

十五夜(9月17日)翌日の満月。居宅のベランダから撮影。

 

 

居宅前の足尾銅山記念館(1912年竣工の足尾鉱業所事務棟の復元)の建設も2025年5月の開館に向けて、着々と進んでいる。

 

 

11月になると足尾の美しい空が、益々美しくなる。(足尾町下間藤)

 

 

居宅駐車場前、わ鉄(旧足尾線)脇の樹々が、日々色づき、秋が深まる。(足尾町掛水・定点観測)

 

 

銀山平は、居宅と足尾鉱山をはさんで反対側に位置する。国道から外れているので、かじか荘(温泉・宿泊施設)と登山客ぐらいしか行かないが、紅葉は素晴らしい。(銀山平)

かじか荘には、庚申の湯があり、日帰り入浴もできるが、泉質も良いし、露天風呂の眺めも良い。(冬季の雪見は絶景)

 

 

足尾から粕尾峠を越え、鹿沼市粟野に通じる県道15号線の入り口から約800米のところにある内ノ籠湧水を汲んで飲用にしている。(念のため煮沸) 湧水から先に進み、粕尾峠のつづら折りが始まる手前に内ノ籠川に下りれるところがある。

 

 

11月17日前後が、紅葉のピークだったのかもしれない。11月下旬になっても、青空は相変わらず美しいが、16時をすぎると薄暗くなる。(足尾町下間藤)

 

 

内ノ籠川に1週間後の11月23日に再訪、紅葉の季節の終わった晩秋の風景が広がる。12月になれば、雪が舞うようになり、冬が訪れる。

 

 

【メモ】

年末年始、もともとTVは、そんなに見ないが、自宅でゴロゴロしているので、何となく見てしまう。昭和時代のリバイバル的なものが、多いこと多いこと。TV視聴者のボリュームゾーンが、そのまま加齢していることが明々白々。確かに30代前半以下の世代は、TVを見ない。そもそもの話、日本の平均年齢は48歳(2025年)である。国そのものが、年とってしまっているのだ。残念なことは、単に年とっただけでなく、貧しくなっている。

 

経済を活性化させて、再び豊かになるには、人口増加が肝だ。そんな話をすると、移民解禁だとか、外国人労働者の門戸を広げろ、といったことを主張する人がいるが、大きな勘違いをしている。「貧しい国に移民は流入しない」ということ。アメリカに不法移民が後を絶たないのは、アメリカが豊かで、魅力的な国だからだ。

 

人も社会も、成長とともに、できなかったことが、できるようになるが、衰退期に移行すると、今までできたことが、できなくなる。

 

例えば、僕が子供の頃、外食そのものがイベントで、外食にワクワクした。それが、外食が単に腹を満たす1つの選択肢になった。再び、外食がイベントになるかもしれない。

 

外食がむずかしくなる理由は、供給側の労働力不足も1つの原因だろう。午前11時から夜9時頃まで、毎日営業していた食堂が、定休日を設け、閉店時刻が早くなり、昼休みを設けるようになり、フロアを縮小し・・・・・・。また、ワンコイン・ランチなんて言葉が死語になり、千円でも足りなくなった。

 

最近まで、美味しいレストランをたくさん知っていることが、女性にモテる要素の1つだったが、これからは、気の利いた手料理のレパートリーが豊富なことが、女性にモテる要素の1つになるかもしれない。

 

社会が貧しくなることを良いとは思わないが、そのことに抗うことよりも経済的な貧富ではなく、精神的な豊かさを獲得する術を身につけることが、幸せへの近道じゃないだろうか。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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大連の街角から 第5回

2024年12月29日 | 旅行

2024年の記録

大連出張最終日の朝、やっと散策らしい散策をした、といっても1時間ちょっと。ロシア風情街と烟台街ロシア式建築群散策の記録。

 

 

敢えて、赤レンガの大連芸術展覧館を外して、瀋陽鉄路局大連工務段をトップ写真にした。

 

 

スイスホテルから解放路を北上して長江路を東に歩き、勝利橋を渡って、ロシア風情街と烟台街ロシア式建築群に行ったあと、勝利橋を引き返し上海路経由で、中山広場を廻って戻る予定だったが、グズグズしていて出発が遅くなり、中山広場をパスしてホテルに戻った。

 

 

勝利橋は、鉄道の跨線橋で、大連の機関区に停車している機関車が眺められる。かつては、煙をモクモクと吐く蒸気機関車が見られたのだろう。

 

 

ロシア風情街入口正面に建つ大連芸術展覧館は、1900年(明治33年)創建のゴシック様式建築である。創建時の帝政ロシア時代は、ロシア将校の官邸、日本占領時代には南満州鉄道株式会社の図書館であった。1949年(昭和24年)の新中国成立後に解体され、現在の建物は、レプリカであるとの話もある。元祖のレプリカは、大連市と姉妹都市の北九州市門司港にある大連友好記念館で、大連芸術展覧館は、レプリカのレプリカとなる。

 

 

瀋陽鉄路局大連工務段は、大連芸術展覧館と上海路をはさんだところにある。中東鉄路(東清鉄道)建築群の1つになっている。

 

 

ロシア風情街は、旧ロシア人街に建つ、中国的テーマパークと理解した方が良いかもしれない。

ロシア人街は19世紀末期頃、大連に港湾施設を建設し都市開発を進めたロシア人たちが最初に造ったエリアで、まさに大連発祥の地であることは、歴史的な事実である。

 

 

ロシア風情街のドン詰まりに建つ旧大連自然博物館は、正真正銘の歴史的建造物である。

帝政ロシア時代の1900年(明治33年)頃に東清鉄道事務所として建てられ、1902年にダーリニー市役所に。 1904年(明治37年)に開戦した日露戦争により大連の覇権が日本に移ると、1907年(明治40年)に南満州鉄道株式会社本社となった。 但し、ロシア軍が大連を引き払う時に、この建物に火を放ったらしく、屋根が落ちた無残な姿の写真が残っているので、内部は修復されオリジナルは外観(外壁)だけかもしれません。

1年で満鉄がここを引き払った後は、大連ヤマトホテル、満蒙資源館として使用された。新中国成立後は、1998年(平成10年)の大連自然博物館移転まで使われたが、その後は、廃虚同然の状態が続いている。

 

 

ロシア風情街に隣接したところにある「鉄道1896花園酒店」、すっかり綺麗にリノベーションされているが、烟台街ロシア式建築群として保存対象の歴史的建築物である。ロシア人住居、満鉄職員宿舎を経て、リノベーション直前は、出稼ぎ労働者が住むスラムであった。

 

僕はスラム時代から足を運んでいたのだが、夏は悪臭がする当時の方が、味があったと思うし、歴史的な価値も高かった気がする。現在の別荘型ホテルとなっているが、建築物の骨格は、創建時のままで、何棟もあるが、それぞれ別の形をしているのが、とても良い。

 

2023年、そしてスラム時代の写真をアップした「大連の街角から 第2回 /人民歴史建築」

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/e/498a3ef93cc212311d946d6a8eb3b1d8

 

 

大連周水子国際空港は、市中心部から約10㎞、クルマでも20分、地下鉄もあり、中国で最も便の良い空港だと思う。歴史的には、1927年(昭和2年)に大日本帝国海軍が建設した。現在でも、軍民共用空港であるため、中国人民解放軍の軍用機も駐機・離着陸することがある。

なお、渤海の金州湾に新空港・大連金州湾国際空港を建設しているが、予定工期を経過している現在も竣工には至っていない。(個人的には、今のままの方が、便が良いので、新空港は完工しない方がありがたい。笑)

 

 

やはり富士山を見ると、「日本に帰って来たな」と思う。あたりまえのことだが、海外に渡航する時も機中から富士山を見ていると思うが、ほとんど記憶がない。

 

 

【メモ】                                      

先月、還暦を迎えた。一般的には、定年退職、できれば引退、悠々自適といきたい年齢だが、幸か不幸か、僕の会社は、数年前から65歳に定年が延長となった。給料が激減することもないが、「疲れちゃったので、辞めます。」と言えば、自己都合退職、退職金半減となる。仕事は楽しく、やりがいもある。健康上の問題も、まったくないので、辞める理由もなければ、辞める気もない。特別に偉くなった訳ではなく、後進の教育のために国内外の出張もひとりで、という訳にいかなくなった。

 

国内はともかく海外となれば、1人より2人が楽なことは間違いない。仕事であれば、それは、それで良いのだが、プライベートで、好奇心が楽チンに負けるとなると悲しい。言葉も通じず、勝ってもわからない異国に好奇心だけで、行ってしまう気になれなくなってきたのだ。これが、“加齢” ってもので、受け容れるべきものなのか、否か?

 

正直なところ、勝負は、あと10年間だ。僕同様、病気と無縁な父親が70歳をすぎても、ヒョイヒョイ遊びまわるとき、「頼むから、おとなしくしていてくれ、何かあったら、責められるのは、息子だ。」と言っていたのは、他ならぬ僕自身だからだ。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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大連の街角から 第4回

2024年12月28日 | 旅行

2024年の記録

1年半ぶりの大連出張。散策する時間も精神的な余裕のない中、窓から見た大連の街と徒歩10分のプチ散策の記録。

 

 

大連瑞詩酒店(スイスホテル)は、大連に初めて来たときに投宿した5つ星ホテル。南面の部屋からは、美しい朝焼けが見れる。

 

 

高鉄(中国版新幹線)と高速道路の延伸で、日帰り出張が続いた。最も遠くの東港市も2時間ほど。蛇足ながら東港市は、北朝鮮国境の丹東市に属する県級市、目の前は、北朝鮮である。

 

 

ホテル脇の解放路には、お洒落な露店がならぶ。大連には、中国No.1のモデル学校があり、旧満州地域では、異彩を放つお洒落な街だ。

 

 

清涼感のある空気と青空が、大連の魅力だ。

 

 

ホテルの1階には、日系スーパーのマイカルがあり、買い物も便利だ。

 

 

大連から東港市に向かう高鉄の車窓。どこまでも、どこまでも、トウモロコシ、コウリャン畑が続く。LINEで送った写真を見た友人が、「穀倉地帯?」とリアクション。穀倉地帯というと豊かなイメージがあるが、それはない。

 

 

下車したのは、高鉄・大狐山站。見ての通りで、一軒も商店がない。停車する列車は、1日数本。駅舎内にいる職員は、乗客より多いありさま。中国インフラ投資の負の遺産とならなければ良いが・・・。

 

 

大連の路面電車は、日本統治時代の昭和初期(1937年頃)の日本車輛製が現役で走っている。日本統治時代の建築物はともかく、当時の路面電車が、修理を重ねて現役で活躍していることには驚きを覚える。Made in JAPANの堅牢性と誇りに思うのは僕だけか?

 

 

部屋の窓から眺めると、昼間は眼下に労働公園が拡がる。やはり、夜景とまだ暗い早朝の景色が美しい。

 

 

取引先総経理との会食。コロナ禍の中で、メールとTeamsで取引を始めて、今では、1~2億円/年の取引に成長した。すでに僕は、その取引の担当ではなくなったが、「喝水不忘掘井人」(水を飲むとき,井戸を掘った人を忘れてはならぬ)のことわざ通り、僕をもてなしてくれる。

写真は、プライベートレストラン(第一線から退いた料理人が、知人限定、要予約で、週2、3日、旧日本人住宅をリプレースして、営業している。) の前菜、その後は、写真右上のキチガイ水(52度白酒ストレート) の乾杯の餌食。(笑)

 

 

【メモ】

トランプが大統領に再選され、韓国では、非常戒厳が敷かれ(約6時間後に解除)、大統領の弾劾訴追案が発議された。(否決) ユン大統領は、逮捕されるかもしれない。韓国大統領の逮捕は、しばしば繰り返されてきたが・・・・。世界は狂気の時代に突入したのかもしれない。

 

海外に比較すると、日本は、平和でまともな気もするが、狂い始めている。

県議会の不信任決議を受け、失職した知事が、出直し選挙で再選を果たした。不信任決議は、全会一致で可決した。要するに県議会議員が狂っているのか、投票した県民が狂っているのか?

 

景気が悪いのに最低賃金があがり、人手不足が続いている。景気が悪いのに物価があがるのは、円安効果、つまり日本が貧しくなっている証拠だろう。

 

正直なところ、僕の世代は、何とか逃げ切れそうな気がするが、子、孫となると????

子や孫が、海外に働きに行くことを悪いとは思わないが、生活のため、やむなくは、悲しすぎる。僕の祖父のように大志を抱いて海を渡って欲しい。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/下野の北、奥州の南 第6回

2024年12月08日 | 旅行

2024年の記録

10月の木曜日に仕事を終えてから出発、福島経由で山形県を散策し、翌日夜に帰宅した弾丸旅行の記録。

 

 

今回の散策は、白壁のカトリック鶴岡教会を見たくて企画した。目論見通り、青空に白壁の映える記録を残すことができた。

 

 

夜、7時頃に足尾を出発し、今市で給油したあと国道461号線経由で、矢板まで行き国道4号線を北上し福島市へ。(仮眠のため弁天山公園に行くも、駐車場が見つからず、福島市役所駐車場で仮眠) 福島駅周辺を散策したあと、月山を越えて一気に鶴岡市へ。昼すぎにトンボ帰りで、山形市内散策、赤湯温泉で一休みのあと、国道を南下して、米沢、会津若松を経由して日光へ戻り帰宅。

 

 

福島市内の散策予定地は、すべて仮眠した福島市役所から徒歩圏内。逆にクルマが邪魔になる?早朝なので、短時間の路上駐車が許されたので、助かった。

 

 

福島交通飯坂線曾根田駅は、JR福島駅から飯坂温泉を結ぶ飯坂線の始発駅福島から600米のところに位置する。(駅脇は、JR東北本線、奥羽本線、東北新幹線、阿武隈急行線が走っている。)

 

駅舎は、1942年(昭和17年)建築当時のイメージに2022年(令和4年)リニューアルされたものである。

 

なお、2008年(平成20年)に12階建ての高層ビル(1階に駅舎やコンビニエンスストア、4階には医療モール、5階から12階にマンション)に更新が計画されたが、福島交通の会社更生法申請や東日本大震災の影響により頓挫した。

 

1日の平均利用者数は、1000人に満たない駅である。通勤時間帯の前に訪問したので、駅舎周辺は、ほぼ無人だった。

 

 

日本基督教団福島新町教会は、1927年(昭和2年)にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計で建設された木造平屋一部3階建て、寄棟、瓦葺きの質素な洋風建築である。

近隣には、同じくヴォーリズ設計の日本基督教団福島教会があったが、東日本大震災で大破、解体となってしまった。

 

 

繁華街の路地裏にある福島聖ステパノ教会は、1905年(明治38年)献堂。綺麗にリニューアルされているため、築100年超の建築物には見えない。

 

 

福島大笹生ICから東北中央道、山形道を経て、月山道路を走り、鶴岡へ。

月山は、紅葉の始まり、まだ、まだ、緑が強い。

 

 

鶴岡市の散策予定のカトリック鶴岡教会、致道博物館、大寶館は、近隣にあり徒歩圏内。

 

 

一目散に向かったのは、言うまでもなくカトリック鶴岡教会。意外にも武家屋敷のような長屋門の奥に白い木造教会の建物が見えた。門内の教会堂周囲は、幼稚園の園庭となっていて、カラフルな色の園服を着た子供たちが、遊んでいた。

 

1903年(明治36年)に建てられたヨーロッパ中世紀頃のロマネスク様式をもつ教会で、1979年(昭和54年)から国の重要文化財に指定されている。

 

白亜の殿堂、赤い塔屋、白い雲がアクセントになる紺碧の青空。

「美しい!」の一語に尽きる、来た甲斐があった、そして、天候に恵まれたことを神に感謝!

 

 

鶴岡公園の西隣に位置する、庄内藩主酒井家の御用屋敷地だった場所に立つ致道博物館には、国指定重要文化財の貴重な歴史的建築物が移築されている。美しく整備されていても、所詮“剥製”である。信仰の場として、生きている教会堂の放つオーラはない。

 

 

ゲートを入って右側にある旧西田川郡役所は、庄内を代表する建築家、高橋兼吉が手がけたルネサンス風の擬洋風建築で、1878年(明治11年)竣工である。1969年(昭和44年)に国の重要文化財に指定。1970~72年(昭和45~47年)、現在地に移築復元、保存された。

 

 

旧鶴岡警察署庁舎は、1884年(明治17年)竣工。木造2階建ての擬洋風建築で、設計・施工は大工棟梁高橋兼吉があたった。

1956年(昭和32年)に現在地に移築され、2009年(平成21年)に国の重要文化財に指定された。

 

 

旧庄内藩主御隠殿は、1863年 (文久3 年)に藩主忠発が建てた隠居所である。1864年(明治元年)江戸の中屋敷を解体して、その一部を鶴ヶ岡城三の丸の御用屋敷地に移築した。木材や瓦などは、江戸から西廻り航路で酒田へ、さらに川船を利用して鶴岡へ運ばれた。

 

 

江戸時代末期に建てられた2階建ての土蔵で、当初は藩主の武具や調度品類が収納されていたという。

 

 

旧渋谷家住宅は、鶴岡市(旧朝日村)田麦俣に1822年(文政5年)に創建された多層民家で、高層部には養蚕飼育の様子が伺える。昭和44年(1969年)に移築された。

 

 

大寶館は、大正天皇の即位を記念して1915年(大正4年)竣工した洋風建築で、赤い尖塔と白亜の殿堂として大正建築の優美さが、内部を含めて原形をとどめている。

開館当時から戦前にかけては、主として物産陳列場として使われたが、1951年(昭和26年)から1985年(昭和60年)までは、市立図書館として地域の人々に利用された。

 

 

山形市の目的地も福島市、鶴岡市と同様、街の中心部に集中している。今回、3都市を夜行日帰りで散策できたのも、この立地の良さのお陰だ。

 

 

カトリック山形教会は、1926年(大正15年) 竣工。 外観は純西洋風のロマネスク様式。 外部壁面には鉄板が張り巡らされ、現在はその上にコンクリートが薄く塗られている。内部は木造が基調で、 昭和30年代は畳敷きであった。

 

 

山形聖ペテロ教会礼拝堂は1910年(明治43年)竣工。木造平屋建(搭屋付)、切妻、鉄板葺き、外壁は下見板張り、ペンキ仕上げとなっている。2002年(平成14年)に国登録有形文化財登録。

 

 

山形六日町教会は、1914年(大正3年)竣工の木造平屋、日本基督教団所属。

次に紹介する山形県郷土館「文翔館」の奥にある。

 

 

山形県郷土館「文翔館」は、1916年(大正5年)竣工の英国近世復興様式建築物で、県庁舎及び県会議事堂で、構成されている。1984年(昭和59年)、国の重要文化財に指定され、1986年(昭和61年)から10年の歳月をかけて復原工事が行われた。

 

実は、元々の訪問先リストには載せてなかった。山形六日町教会に向かう途中で偶然発見、訪問の運びとなった。無料駐車場もあり、ラッキーな発見だった。

 

 

旧県会議事堂はレンガ造り一部2階建てで、当初から県議会で使用されないときには演奏会等の会場としても使用され、現在でもさまざまな催しに使われている。

 

 

旧県庁舎はレンガ造り3階建てで外回りの壁面は石貼りで覆われ、重厚感のある佇まいである。文翔館のシンボルで4辺に顔を見せる時計台は、現在日本で稼働している中で札幌の時計台に次いで2番目に古いものとのこと。時計職人が振り子を動かす分銅を5日に一度手動で操作し、大切に使われている。

 

 

山形県郷土館「文翔館」訪問で、今回の教会散策は終了。帰路、山形県南陽市の赤湯温泉で一服して帰った。赤湯温泉は、学生時代に自動車免許合宿で滞在したなつかしい町だ。40年振りの訪問。何しろ、学科が終了してしまうと、1日2時間の実地のみ、毎日、片道約10キロの山中にある蛭沢湖までランニングして湖に飛び込み、再びランニングで帰る毎日。若かりし頃の夏の思い出である。ホテルは、三食、昼寝、温泉付き。

 

赤湯温泉から足尾の居宅までは、グーグル先生の思し召しに従って一般道を走行。国道もあるが、冬季には通行止めになる県道、町道もあって、日が暮れてからの走行は、ちょっとの勇気と細心の注意がいるルートだったが、夜11時前に無事帰宅した。

 

 

【メモ】

アメリカの次期大統領が、トランプ氏に決まった。アメリカ国民が彼を選んだのだから僕がツベコベ言うべきではないことを百も承知している。彼の当選で、2つの戦争が悪い方向に進むかもしれないとか、世界の分断に拍車をかるとか、もちろん円安が進行し、日本社会が、貧しくなるとか、そのような憶測で彼を批判するつもりもない。彼に対する不満は、あまりにも品格のないことだ。僕自身、品格があるとか、ないとか、ひとを批判できるほど品格がある訳でもない。彼が、アメリカではなく、アフリカか、ラテンアメリカの新興国の大統領ならば、許容できるといった話でもない。

 

トランプ氏は、移民排斥を主張しているが、本心でも、そう考えているとは思えない。移民排斥は、集票ツールにすぎない。アメリカが、グレートであった原動力は、流入し続ける移民の力だ。実際、トランプ氏を強く支持したイーロン・マスク氏も南アフリカ移民だ。(父親のルーツは、アメリカにあるが、母親から受け継いだカナダ国籍によってアメリカに入国している。) トランプ氏の妻だって、ユーゴスラビア(現スロベニア) 移民であることは、広く知られている。トランプ氏自身が掲げる「メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン」に移民が必要なことを彼は知っている。集票のためならば、何でもやってしまう彼は、政治家ではなく、政治屋なのだろう。

 

 

旅は続く

 

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