Being on the Road 2

日常の中に旅があり、旅の中に日常がある。僕たちは、旅の途上。
Being on the Roadから順次移行開始

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/足尾山地・夏の渓流

2024年09月18日 | 旅行

2024年の記録

8月、9月に足尾山地の渓流を散策した時の記録

 

 

すでに9月も半ば、中秋の名月のも終わって、「残暑お見舞い」は、ないだろう。しかし、関東平野部の日中は、30℃を超える。一方、日光・足尾地区の朝晩は、「寒い」の一歩手前。

今さらながら、これでもかと、足尾山地の渓流写真をアップする。

 

 

日光・足尾地区には、有名無名の滝や渓流がある。あえて、マイナーな滝と渓流を選んでいる。

 

 

桐生川源流林は、群馬県桐生市を流れる利根川水系渡良瀬川支流の桐生川の源流に広がる。桐生市は、酷暑地点として、耳に覚えのある人もいると思うが、源流林は、別世界。

一般的なアクセス方法は、酷暑の桐生市街から北上し、桐生新町重要伝統的建造物群保存地区を抜け、梅田ふるさとセンターを目指す。しかし、栃木県側からは、渡良瀬川を堰き止めた草木湖(草木ダム)を渡り、三境峠、屋敷山を越え、源流側から入る。

 

桐生市街から北上するルートは、河原は家族連れのキャンパーに占領され、路肩に駐車するクルマで、往来に支障が発生することも。一方の三境峠から入るルートは、対向車もほとんどなく、アクセスは快適だ。

 

 

地蔵滝は、国道122号線・日足トンネルを足尾側に抜けて、すぐ右側にある。足尾方面に走っていると、気がつくことはない。逆方向の日光方面に走っていても、気がつかない角度にあるため、知名度が極端に低い。

 

豪雨の谷間、雨が止んだタイミングで、水量が増した豪快な滝を狙って撮影に行った。何しろ、居宅から10分ほどのところにある。

 

 

裏見の滝は、“裏見の・・・”であって、“怨みの・・・”ではない。日光三名瀑(華厳の滝、霧降の滝、そして裏見滝)の1つであるが、華厳の滝、霧降の滝と比較するとマイナーで、訪問者も少ない。

 

国道122号線から清滝安良沢町の階段状の分譲地を抜け、トイレ完備の駐車場にクルマを停め、大谷川の支流荒沢川に沿う遊歩道を10分ほど進むと、高さ約20メートルの裏見の滝にたどり着く。

 

名前の由来となっている滝の裏に不動明王が祀られているが、現在は参拝できない。

 

 

【メモ】

至極個人的な備忘録になることをご容赦いただきたい。

 

2週間ほど前、脳梗塞が愛犬を再び襲った。今年3月に続き2度目。前回は奇跡的な回復で、脳梗塞前の9割以上に回復したが、今回は、前回以上に重篤である。視覚、聴覚、臭覚までも失い、躓きながらもよたよたと徘徊を繰り返す。居たたまれなくて、見ていられない。首が固まってしまい、餌も水も自分では食べることも飲むこともできず、チューブで口に含ませている。医者からは、“看護”でなく“介護”と宣告されてしまった。そんな期間が2週間ほど続いた一昨日、徘徊が治まり、僅かに視覚、聴覚が回復した。一進一退の1つの一進なのかは、わからない。すでに16歳の高齢犬、少しずつでも回復してくれればと思う。

 

愛犬を見ていて思うことは、生きとし生けるもの、必ず最期は来る。医者からは、MRIを薦められたもののお断りした。病名が確定しても、治療できるとは限らないし、治療ができても強い副作用を伴う。犬のMRIは、全身麻酔が必要で、全身麻酔そのものにリスクがある。愛犬が、視覚、聴覚、臭覚を失った暗黒の世界で何を考えているのかは、僕にはわからない。自分自身のこととして考えれば、如何に長く生きたかではなく、如何に良く行きたか、と考えている。

 

僕にも、いずれ最期が到来する。全力疾走する最中にストンと落ちるような最期を迎えられれば幸せだが、長い闘病生活の果てに最期が来るのか、それは、だれもわからない。

 

支離滅裂で、取り留めのないメモランダムとなったことを重ねてお詫びします。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0


アジアの街角から/ベトナム・ホーチミン 第2回

2024年09月08日 | 旅行

2024年の記録

6月にベトナムに出張した時の記録

 

 

ホーチミンの教会と言えば、サイゴン大教会なのだけれど、現在修復工事中。そんな訳で、トップにアップしたのは、タンディン教会。

 

 

出張最終日の土曜日、深夜のフライトまで、ほぼ1日を取引先の社長に案内してもらった。ともかくサイゴン大聖堂とタンディン教会に行きたい、あとはおまかせ!とリクエストしたので、どこをどう周ったのかも不明。次回は、もう少し事前調査、ということで、大いに反省。

 

最近、偉くなった訳ではないが、ソロ出張が減り、部下との出張が増え、このようなシュチュエーションになると、観光ルートは、部下の忖度のお陰で、ほぼ、僕の行きたいところを周ることになる。炎天下の教会巡りに付き合わされた部下には、カフェでコーヒーやビールをご馳走する以上のことができないので、申し訳ないのひと言に尽きる。

 

 

ピンクの教会と呼ばれるタンディン教会、インスタ映えすると、女子に人気の観光スポットになっているが、フランスの統治下だった1876年に建立されたホーチミン市内で2番目に大きな教会である。以前は、礼拝堂に入ることができたが、あまりに増える観光客、それも宗教施設を観光施設と履き違えた観光客が増えたため、現在は、礼拝時に信者さんのみが入場できるようになった。残念なことだけど、やむを得ない措置だと思う。

 

 

サイゴン大教会(聖マリア・ノートル・ダム大聖堂)は、フランスの植民地だった1863年から1880年にかけて建設されたネオ・ゴシック様式の教会である。

 

冒頭では、「修復工事中」とさらり書いたが、実際は、「修復」というより「ガチ復元」で、レンガ一個一個に至るまで、全てフランス産の原材料を取り寄せて作り直しているとのことです。それに加えて、サイゴン大司教区などのカトリック教会信徒の寄付によって大半の費用が賄われている。(ホーチミン市などの税金を使っていないとか) コロナ禍があったとは言え、工事開始の2017年からすでに7年が経過しているが、途上国あるあるのゆる~い工程管理とは一線を画していることを知り、何とも胸熱に。

 

 

サイゴン大教会を正面に左手には、コロニアルスタイルのサイゴン中央郵便局がある。1886年に建設を開始し、1891年に当時のフランス領インドシナの郵便・電信施設として完成した。パリのオルセー美術館(当時駅舎)をモデルにしたといわれる。

 

建物中心ホールの中央部および建物両翼は、観光客相手のみやげ物売り場となっているが、ホール外周のカウンターは、現在でも郵便をはじめとして各種通信・金融サービスカウンターが並ぶ。

 

 

コロニアル様式のサイゴン・オペラハウス(ホーチミン市民劇場)は、1898年竣工。ベトナム戦争時代は、南ベトナム国会議事堂として利用されてた。現在は、市民劇場として現役。

 

 

サイゴン・オペラハウス周辺の建築物が、歴史的建造物か、否かは、わからないが、味のある建物だ。

 

 

人民委員会庁舎は、1908年竣工のコロニアル様式建築。

 

あとで知ったことなのだが、近づいての写真撮影禁止。共産党独裁の専制国家ベトナムの牙を垣間見た気がした。なお、今回の撮影したのは、道路を挟んだサイゴンスクエアという公園から撮影している。

 

ベトナムの国民的英雄・ホーチミンが、胡さんちの志明くんだと、あらためて知った。(笑)

 

 

現在、ホーチミン市立博物館として、一般公開されているが、もともとは、フランス官僚の住居として、1890年竣工の白壁のコロニアル様式建築物。

 

 

Giao Xu Thien Thanは、取引先の社長が案内してくれた教会。どうもカソリックの教会ではなく、新興キリスト教系の教会のようだ。

 

 

最後に訪問したのが、ジャンヌダルク教会。1922年に建設開始、1928年に完成。観光地としては、ほとんど知られていない教会であるが、初ベトナム、そしてASEAN出張のフィナーレとしては、最高の設定だった。フォン社長、ありがとう!

 

 

【メモ】

ベトナム訪問の前後にベトナムについて、調べたり、考えたりしたことを備忘録として残す。

 

僕の出張の目的も調達拠点の「脱・中国」である。しかし、よくよく考えてみると、ベトナムも中国同様に共産党一党独裁の国だ。そのことを上司に言っても、「だって親日国だろ!」と。実際、西側諸国の中国デカップリングの恩恵をベトナムは受けている。ベトナムから西側諸国への工業製品の輸出は増加しているが、ベトナムの基礎工業力は低く、原材料や生産設備の多くを海外に頼っている。実は、中国への依存も少なくない。目的が何なのかわからないけれど、ベトナムの新・国家主席トー・ラム氏の初外遊先は、中国だ。日本人は、中越戦争(1979年)や中越国境紛争(1984年)、南沙諸島の領有権紛争の印象から中国とベトナムは仲が悪いと思っている。実際、反中デモも発生している。1つ言えることは、ベトナムは、強かってことだ。まぁ、アメリカに勝った唯一の国だからな。

 

小国・ベトナムの強かさ、悪く言うと八方美人。日本が経済大国だったのは、過去の話。今は、極東の衰退期の小国であることを認めなくてはならないし、ベトナムにも学ぶべきことがあることに気づく時なのではないだろうか。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0


アジアの街角から/ベトナム・ホーチミン

2024年08月16日 | 旅行

2024年の記録

6月にベトナムに出張した時の記録

 

 

突然のスコール、大急ぎで自転車を走らせる上半身裸の少年。僕がイメージしていたベトナムの風景だ。

 

 

夕刻のフライトでバンコクを出発、カンボシアを飛び越えてホーチミンへ。意外に思われるかもしれないが、初ベトナム。

 

 

商社マンチョイスのホテルは、ウッディ調で快適。ホテル前のSuong Nguyet Anh Streetも高木がならぶ落ち着いた街なみでGood!軽食とビア・サイゴンで、遅い夕食を摂る。

 

 

翌朝、早速Suong Nguyet Anh Streetを散歩。店頭に椅子を置いて朝食を食べる人々。アジアの雑踏とは、一味違う優雅さを感じた。この穏やかな時の流れが、ベトナムなのか、Suong Nguyet Anh Street独特のものなのかを僕はまだわからない。

 

 

Suong Nguyet Anh Streetを出ると、少しばかりチープな感じの空気に変った。

 

 

フォーは、期待した通りで、大好きになった。多くのアジア料理が、強烈な味付けで、「どぅだぁ~」と迫ってくるのに対して、日本的なお仕着せのない控えめな優しい味。

 

 

郊外の住宅と町工場が混在した地域、「三丁目の夕日」ではないが、懐かしさを感じる光景。亜熱帯特有のスコールで、街は水浸しになる。

 

 

【メモ】

オリンピックの日本選手団の大活躍や南海トラフ地震臨時情報の発表があって、8月15日前のテレビ番組は、太平洋戦争関連番組が少なかった気がする。

 

僕の父の足には鉛色の銃創があり、父は学徒兵の1人だったが、戦争の話をすることはなかった。父が発した唯一の言葉は、「戦闘機で沖縄上空を旋回して帰ってきた」。

 

「東大を受験しろ、何年浪人しても良い」という父に「東大卒がそんなに偉いのか?東大卒は、みんな幸せか?」と僕は毒づいた。「俺は東大生だったので、死なずに済んだ」とだけ父は言った。

 

父は、多くの特攻隊員が出陣した鹿児島県下の基地にいた。東大生の父は、東大生であるというだけの理由で、特攻隊の選外、あるいは最後位となり、出陣することなく終戦を迎えた。

 

あたりまえと言えば、あたりまえのことだが、特攻隊が編成され、日本の敗戦が濃厚になった頃、軍幹部は、すでに戦後の復興を想起し始めていたのだろう。荒廃した日本の復興には、優秀な人財が必要で、そのときに「優秀さ」を測る尺度は、悲しいかな学歴だったのだろう。

 

(戦争美化の意味でなく)美しく語られる特攻隊の話を耳にする度に僕は複雑な気持ちになる。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0


アジアの街角から/タイ・パタヤ

2024年08月11日 | 旅行

2024年の記録

6月にタイに出張した時の記録

 

 

偶然かもしれないが、タイに出張した前回も今回も美しい夕景を見ることができた。

 

 

今回のタイの訪問先は、ラヨーン県にある中国系サプライヤと僕の会社の現地法人。リゾートのパタヤに泊まったのは、ラヨーン県の訪問先近傍に適当なホテルがなかったという理由。リゾート気分を味わいたくて、投宿したのではない。個人的には、ローカルの安ホテルの方が、現地の空気を味わえてよいのだが・・・・・・。

 

 

パタヤのホテルに到着したのは、深夜2時すぎ。翌朝、目が覚めると雨が降っていたが、朝食を摂り、しばらくすると雨が止み、青空が見えてきた。

 

タイは、僕の会社の海外駐在員人気No.1の駐在国で、帰任したくないと思っている駐在員も少なくない。適度に安い物価、家族帯同にも問題のない治安と充実した日本人向けインフラ・・・・・・。

その一方、僕自身は、タイが悪いとは思わないが、好奇心を刺激するところが見えない。もちろん、僕自身が、タイについて無知で、その魅力を知らないだけなのだと思うが・・・・。

 

そもそも、ビジネスパーソンとして考えると、日本人の居心地の良い国、地域は、僕にとってバツ。理由は単純なことで、コンペジターが多いから。頭の回転も悪く、英語もままならない胆力と体力勝負の脳ミソ筋肉オヤジの存在価値が光るのは、日本人の寄りつかない僻地に限定される。

 

 

なぜだかわからないが、タイで最もポピュラーな自動車は、ピックアップトラック。乗合タクシーを筆頭に行き交うピックアップトラックを見ると、タイに来たんだなと思う。

 

 

美しいビーチロードから一歩脇道に入れば、猥雑な歓楽街が広がっていた。脇道の入り口には、地元民向けの屋台もあって、美しいだけじゃないリアルな街の表情を覗いた気がする。

 

 

素っ気ない工業団地の風景。

 

 

タイには、2泊、実質2日間の滞在だったが、訪問先が、中国系、日系ってこともあり、あまりタイらしい料理を口にすることもなければ、タイ語を聞くこともなかった。ビーチリゾートは、美しいけれど、どこも金太郎飴的な浅さを感じるのは、贅沢と言うものか?

 

 

夕景は、どこで見てもドラマチックで美しいものだ。

 

 

【メモ】

タイには、仕事で行っているので、ちょっとだけ小難しいメモを残す。

ASEANの中で、シンガポールは別格として、タイは、マレーシアに続く工業国、中進国に入れても良いほど発展している。給与水準の高い自動車系を除くと、タイ工場の製造現場で働くタイ人は稀だ。今回訪問した、中国系の取引先の製造現場にタイ人はいない。中国から来ている現場の指導者を除くと、すべてカンボジア人だった。(僕の会社の現地法人は、自動車系のため正社員はタイ人、非正規の派遣社員は、ミャンマー人。) 工業地帯を走っていると、外国人労働者を派遣する広告看板が目につく。あらためて地図を広げてみると、今回訪問したラヨーン県のすぐ隣にカンボジアがある。周囲には、ミャンマー、ラオスといったタイより貧しい国が隣接する。ASEAN域内は、物品関税がほぼ撤廃され労働力の流入も自由になっている。経済発展しても製造業が衰退しない秘密かもしれない。

 

何が言いたいのか、って、外国人技能実習制度をやっとこ見直した日本、依然として、上から目線。外国人労働力の無条件解放が良いとは思わないが、熟慮している間に日本の製造業は沈没しちゃうんじゃないかな。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0

 


アジアの街角から/インドネシア・チカランの休日

2024年08月03日 | 旅行

2024年の記録

6月にインドネシアに出張した時の記録

 

 

バイク修理屋に集まる若者。かつての日本でも、バイクショップには、若者がたむろしていた。今のバイクショップにいるのは、30年前の若者、つまりオヤジばかり。

 

 

広州・ジャカルタ直行便は、1日1便のため、土曜日の朝5時に広州のホテルを出発。ノービザで入国すると、入国した広州から出国しなくてはならない。インドネシア入国は、事前にe-VISA、e-CD(税関の電子申告)を済ませていたのでスムーズに。以前は、何かと“賄賂臭”が残る入国やビザ取得だったが、電子化で払拭された。電子化の副産物か、それとも“賄賂臭”の一掃が電子化の目的か?

 

 

チカランは、ジャカルタから1時間半ほどクルマで東に走ったところにある工業地帯。東京で例えると、かつての川崎、川口。現在だと、北関東ってことになるかな。

 

 

以前にも投宿しているホテルで、価格、設備には満足している。スタッフは、親切だけど、ちょっと抜けているというか、おっちょこちょいなところがある。15時すぎにチェックインしたのに部屋のクリーニングが終わってなくて、カフェのチケットを渡されるとか・・・・・・。

ホテルの前は、新しい道路が延び、中央分離帯にヤシの木、ちょいリゾート気分。

 

 

インドネシア、初ショット。カメラに写ったインドネシアの人は、みんなスマイル。「人は幸せだから笑うのではなく、笑っているから幸せなのだ。」

 

 

屋台を見ると、「インドネシアにいるんだなぁ」と。

「MASAKAN SUNDA=スンダ料理」、「OTAK=焼きかまぼこ」、見ての通りのフルーツ」、「BATAGOR BANDUNG=バンドンのバタゴール(豆腐と魚のすり身を混ぜて餃子の皮で包んだ揚げ物) CRISPY=サクサク」

 

 

世界一のムスリム人口を抱える国、10分も歩くことなくモスクを見つける。

 

 

大通りから横道に入ると、その土地ならではの空気が漂う。貧民窟ではないが、出稼ぎ労働者の仮住まいのアパートが連なる。

 

 

ダメもとで、おばちゃんに撮影の許可を求めると、意外にも快諾してくれた。

 

 

数分歩くとモスク。1日5回の祈りの場である、近くにないと、ね。

 

 

家族が身を寄せあって生活している。「仲が良いんだね。」というと、「違うよ、いつも一緒にいるから仲良しになるの。」

 

 

インドネシアは、総菜店、雑貨店のパパママショップ(家族経営の零細店)が、依然として主力。もちろんコンビニもあれば、チェーンストアもあるけどね。

 

 

この建物が、THE CAPITOL (=国会議事堂)。嘘だろ!

 

 

小綺麗なショッピングセンター。

 

 

グリーンのモスク。ムスリムにとって グリーンは、楽園とほぼ同義で、預言者ムハンマドのお気に入りの幸運と愛のシンボルのラッキーカラー。 そのためイスラム教国の国旗にはグリーンがしばしば使われている。

 

 

食堂の店員も、チョイコワ系のお兄さんもカメラを向けると、ほとんど条件反射的にポーズをとってくれる。

 

 

再び路地裏に入るとき、僕は、例えようのないドキドキを感じる。今まで、見たことのない世界に出会えるだろうか?ってね。

 

 

モスク、モスク、モスク、宗教が、生活の一部になっているインドネシアのイスラーム。

 

 

モスク前にいた敬虔なムスリムの親子、聞けば、彼は日系企業の従業員だった。

 

 

さまざまな果物が溢れる、南国のストリート。

 

 

 

【メモ】

インドネシアで生活していた期間は、1年にも満たないが、それまでの価値観への疑問をなげかけられるものだった。「昨日より今日、今日より明日」と日々改善・発展させることがあたりまえ。それゆえ、1年前と同じことをやっていることは、恥ずべきことだった。ところが、インドネシアの人たちは違った。「自分が貧しいのは、貧しい家に生まれたのだからしょうがない。」 それ以上も以下もなく、敬虔なムスリムであれば、来世は豊かな家に生まれられる。「そんなことだから国が発展せず、貧しいのだ。」と批判する人がいる。そもそも、何のために国を発展させ豊かになろうとするのか? 国民が幸せになるためだ。ところが、先進国の我々は、幸せだろうか?我々は「改善」、「発展」の呪縛に苛まれている。

 

インドネシアでの生活をサポートしてくれたのは、グランド・パパことSさん。物心ついた時からインドネシアに貢献することを夢見て、外国語大学のインドネシア語学科を卒業して、インドネシア駐在を条件に貿易商社に入社したものの任地はマレーシア。インドネシアに住み始めたのは、定年退職後。それから20余年、あいかわらず機関銃のように喋り、足腰もしっかりしている。(バイデン大統領よりはるかに元気) 変わったところは、アルコールをやめたこと。ムスリムのSさんは、非ムスリムとの会食では、「やむなく飲んでいる」といった建前で、飲んでいた。年齢のためか、ムスリムの家族の猛反発を喰らって、止めたとのこと。

 

僕はSさんのお陰で、間違いなく価値観の巾を広げることができた。Sさん宅に居候していた僕の息子は、インドネシアで何を学んだのだろうか?

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0