2024年の記録
大連出張最終日の朝、やっと散策らしい散策をした、といっても1時間ちょっと。ロシア風情街と烟台街ロシア式建築群散策の記録。
敢えて、赤レンガの大連芸術展覧館を外して、瀋陽鉄路局大連工務段をトップ写真にした。
スイスホテルから解放路を北上して長江路を東に歩き、勝利橋を渡って、ロシア風情街と烟台街ロシア式建築群に行ったあと、勝利橋を引き返し上海路経由で、中山広場を廻って戻る予定だったが、グズグズしていて出発が遅くなり、中山広場をパスしてホテルに戻った。
勝利橋は、鉄道の跨線橋で、大連の機関区に停車している機関車が眺められる。かつては、煙をモクモクと吐く蒸気機関車が見られたのだろう。
ロシア風情街入口正面に建つ大連芸術展覧館は、1900年(明治33年)創建のゴシック様式建築である。創建時の帝政ロシア時代は、ロシア将校の官邸、日本占領時代には南満州鉄道株式会社の図書館であった。1949年(昭和24年)の新中国成立後に解体され、現在の建物は、レプリカであるとの話もある。元祖のレプリカは、大連市と姉妹都市の北九州市門司港にある大連友好記念館で、大連芸術展覧館は、レプリカのレプリカとなる。
瀋陽鉄路局大連工務段は、大連芸術展覧館と上海路をはさんだところにある。中東鉄路(東清鉄道)建築群の1つになっている。
ロシア風情街は、旧ロシア人街に建つ、中国的テーマパークと理解した方が良いかもしれない。
ロシア人街は19世紀末期頃、大連に港湾施設を建設し都市開発を進めたロシア人たちが最初に造ったエリアで、まさに大連発祥の地であることは、歴史的な事実である。
ロシア風情街のドン詰まりに建つ旧大連自然博物館は、正真正銘の歴史的建造物である。
帝政ロシア時代の1900年(明治33年)頃に東清鉄道事務所として建てられ、1902年にダーリニー市役所に。 1904年(明治37年)に開戦した日露戦争により大連の覇権が日本に移ると、1907年(明治40年)に南満州鉄道株式会社本社となった。 但し、ロシア軍が大連を引き払う時に、この建物に火を放ったらしく、屋根が落ちた無残な姿の写真が残っているので、内部は修復されオリジナルは外観(外壁)だけかもしれません。
1年で満鉄がここを引き払った後は、大連ヤマトホテル、満蒙資源館として使用された。新中国成立後は、1998年(平成10年)の大連自然博物館移転まで使われたが、その後は、廃虚同然の状態が続いている。
ロシア風情街に隣接したところにある「鉄道1896花園酒店」、すっかり綺麗にリノベーションされているが、烟台街ロシア式建築群として保存対象の歴史的建築物である。ロシア人住居、満鉄職員宿舎を経て、リノベーション直前は、出稼ぎ労働者が住むスラムであった。
僕はスラム時代から足を運んでいたのだが、夏は悪臭がする当時の方が、味があったと思うし、歴史的な価値も高かった気がする。現在の別荘型ホテルとなっているが、建築物の骨格は、創建時のままで、何棟もあるが、それぞれ別の形をしているのが、とても良い。
2023年、そしてスラム時代の写真をアップした「大連の街角から 第2回 /人民歴史建築」
https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/e/498a3ef93cc212311d946d6a8eb3b1d8
大連周水子国際空港は、市中心部から約10㎞、クルマでも20分、地下鉄もあり、中国で最も便の良い空港だと思う。歴史的には、1927年(昭和2年)に大日本帝国海軍が建設した。現在でも、軍民共用空港であるため、中国人民解放軍の軍用機も駐機・離着陸することがある。
なお、渤海の金州湾に新空港・大連金州湾国際空港を建設しているが、予定工期を経過している現在も竣工には至っていない。(個人的には、今のままの方が、便が良いので、新空港は完工しない方がありがたい。笑)
やはり富士山を見ると、「日本に帰って来たな」と思う。あたりまえのことだが、海外に渡航する時も機中から富士山を見ていると思うが、ほとんど記憶がない。
【メモ】
先月、還暦を迎えた。一般的には、定年退職、できれば引退、悠々自適といきたい年齢だが、幸か不幸か、僕の会社は、数年前から65歳に定年が延長となった。給料が激減することもないが、「疲れちゃったので、辞めます。」と言えば、自己都合退職、退職金半減となる。仕事は楽しく、やりがいもある。健康上の問題も、まったくないので、辞める理由もなければ、辞める気もない。特別に偉くなった訳ではなく、後進の教育のために国内外の出張もひとりで、という訳にいかなくなった。
国内はともかく海外となれば、1人より2人が楽なことは間違いない。仕事であれば、それは、それで良いのだが、プライベートで、好奇心が楽チンに負けるとなると悲しい。言葉も通じず、勝ってもわからない異国に好奇心だけで、行ってしまう気になれなくなってきたのだ。これが、“加齢” ってもので、受け容れるべきものなのか、否か?
正直なところ、勝負は、あと10年間だ。僕同様、病気と無縁な父親が70歳をすぎても、ヒョイヒョイ遊びまわるとき、「頼むから、おとなしくしていてくれ、何かあったら、責められるのは、息子だ。」と言っていたのは、他ならぬ僕自身だからだ。
旅は続く
過去記事は、
https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0