Being on the Road 2

日常の中に旅があり、旅の中に日常がある。僕たちは、旅の途上。
Being on the Roadから順次移行開始

大連の街角から 第4回

2024年12月28日 | 旅行

2024年の記録

1年半ぶりの大連出張。散策する時間も精神的な余裕のない中、窓から見た大連の街と徒歩10分のプチ散策の記録。

 

 

大連瑞詩酒店(スイスホテル)は、大連に初めて来たときに投宿した5つ星ホテル。南面の部屋からは、美しい朝焼けが見れる。

 

 

高鉄(中国版新幹線)と高速道路の延伸で、日帰り出張が続いた。最も遠くの東港市も2時間ほど。蛇足ながら東港市は、北朝鮮国境の丹東市に属する県級市、目の前は、北朝鮮である。

 

 

ホテル脇の解放路には、お洒落な露店がならぶ。大連には、中国No.1のモデル学校があり、旧満州地域では、異彩を放つお洒落な街だ。

 

 

清涼感のある空気と青空が、大連の魅力だ。

 

 

ホテルの1階には、日系スーパーのマイカルがあり、買い物も便利だ。

 

 

大連から東港市に向かう高鉄の車窓。どこまでも、どこまでも、トウモロコシ、コウリャン畑が続く。LINEで送った写真を見た友人が、「穀倉地帯?」とリアクション。穀倉地帯というと豊かなイメージがあるが、それはない。

 

 

下車したのは、高鉄・大狐山站。見ての通りで、一軒も商店がない。停車する列車は、1日数本。駅舎内にいる職員は、乗客より多いありさま。中国インフラ投資の負の遺産とならなければ良いが・・・。

 

 

大連の路面電車は、日本統治時代の昭和初期(1937年頃)の日本車輛製が現役で走っている。日本統治時代の建築物はともかく、当時の路面電車が、修理を重ねて現役で活躍していることには驚きを覚える。Made in JAPANの堅牢性と誇りに思うのは僕だけか?

 

 

部屋の窓から眺めると、昼間は眼下に労働公園が拡がる。やはり、夜景とまだ暗い早朝の景色が美しい。

 

 

取引先総経理との会食。コロナ禍の中で、メールとTeamsで取引を始めて、今では、1~2億円/年の取引に成長した。すでに僕は、その取引の担当ではなくなったが、「喝水不忘掘井人」(水を飲むとき,井戸を掘った人を忘れてはならぬ)のことわざ通り、僕をもてなしてくれる。

写真は、プライベートレストラン(第一線から退いた料理人が、知人限定、要予約で、週2、3日、旧日本人住宅をリプレースして、営業している。) の前菜、その後は、写真右上のキチガイ水(52度白酒ストレート) の乾杯の餌食。(笑)

 

 

【メモ】

トランプが大統領に再選され、韓国では、非常戒厳が敷かれ(約6時間後に解除)、大統領の弾劾訴追案が発議された。(否決) ユン大統領は、逮捕されるかもしれない。韓国大統領の逮捕は、しばしば繰り返されてきたが・・・・。世界は狂気の時代に突入したのかもしれない。

 

海外に比較すると、日本は、平和でまともな気もするが、狂い始めている。

県議会の不信任決議を受け、失職した知事が、出直し選挙で再選を果たした。不信任決議は、全会一致で可決した。要するに県議会議員が狂っているのか、投票した県民が狂っているのか?

 

景気が悪いのに最低賃金があがり、人手不足が続いている。景気が悪いのに物価があがるのは、円安効果、つまり日本が貧しくなっている証拠だろう。

 

正直なところ、僕の世代は、何とか逃げ切れそうな気がするが、子、孫となると????

子や孫が、海外に働きに行くことを悪いとは思わないが、生活のため、やむなくは、悲しすぎる。僕の祖父のように大志を抱いて海を渡って欲しい。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0

 


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/下野の北、奥州の南 第6回

2024年12月08日 | 旅行

2024年の記録

10月の木曜日に仕事を終えてから出発、福島経由で山形県を散策し、翌日夜に帰宅した弾丸旅行の記録。

 

 

今回の散策は、白壁のカトリック鶴岡教会を見たくて企画した。目論見通り、青空に白壁の映える記録を残すことができた。

 

 

夜、7時頃に足尾を出発し、今市で給油したあと国道461号線経由で、矢板まで行き国道4号線を北上し福島市へ。(仮眠のため弁天山公園に行くも、駐車場が見つからず、福島市役所駐車場で仮眠) 福島駅周辺を散策したあと、月山を越えて一気に鶴岡市へ。昼すぎにトンボ帰りで、山形市内散策、赤湯温泉で一休みのあと、国道を南下して、米沢、会津若松を経由して日光へ戻り帰宅。

 

 

福島市内の散策予定地は、すべて仮眠した福島市役所から徒歩圏内。逆にクルマが邪魔になる?早朝なので、短時間の路上駐車が許されたので、助かった。

 

 

福島交通飯坂線曾根田駅は、JR福島駅から飯坂温泉を結ぶ飯坂線の始発駅福島から600米のところに位置する。(駅脇は、JR東北本線、奥羽本線、東北新幹線、阿武隈急行線が走っている。)

 

駅舎は、1942年(昭和17年)建築当時のイメージに2022年(令和4年)リニューアルされたものである。

 

なお、2008年(平成20年)に12階建ての高層ビル(1階に駅舎やコンビニエンスストア、4階には医療モール、5階から12階にマンション)に更新が計画されたが、福島交通の会社更生法申請や東日本大震災の影響により頓挫した。

 

1日の平均利用者数は、1000人に満たない駅である。通勤時間帯の前に訪問したので、駅舎周辺は、ほぼ無人だった。

 

 

日本基督教団福島新町教会は、1927年(昭和2年)にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計で建設された木造平屋一部3階建て、寄棟、瓦葺きの質素な洋風建築である。

近隣には、同じくヴォーリズ設計の日本基督教団福島教会があったが、東日本大震災で大破、解体となってしまった。

 

 

繁華街の路地裏にある福島聖ステパノ教会は、1905年(明治38年)献堂。綺麗にリニューアルされているため、築100年超の建築物には見えない。

 

 

福島大笹生ICから東北中央道、山形道を経て、月山道路を走り、鶴岡へ。

月山は、紅葉の始まり、まだ、まだ、緑が強い。

 

 

鶴岡市の散策予定のカトリック鶴岡教会、致道博物館、大寶館は、近隣にあり徒歩圏内。

 

 

一目散に向かったのは、言うまでもなくカトリック鶴岡教会。意外にも武家屋敷のような長屋門の奥に白い木造教会の建物が見えた。門内の教会堂周囲は、幼稚園の園庭となっていて、カラフルな色の園服を着た子供たちが、遊んでいた。

 

1903年(明治36年)に建てられたヨーロッパ中世紀頃のロマネスク様式をもつ教会で、1979年(昭和54年)から国の重要文化財に指定されている。

 

白亜の殿堂、赤い塔屋、白い雲がアクセントになる紺碧の青空。

「美しい!」の一語に尽きる、来た甲斐があった、そして、天候に恵まれたことを神に感謝!

 

 

鶴岡公園の西隣に位置する、庄内藩主酒井家の御用屋敷地だった場所に立つ致道博物館には、国指定重要文化財の貴重な歴史的建築物が移築されている。美しく整備されていても、所詮“剥製”である。信仰の場として、生きている教会堂の放つオーラはない。

 

 

ゲートを入って右側にある旧西田川郡役所は、庄内を代表する建築家、高橋兼吉が手がけたルネサンス風の擬洋風建築で、1878年(明治11年)竣工である。1969年(昭和44年)に国の重要文化財に指定。1970~72年(昭和45~47年)、現在地に移築復元、保存された。

 

 

旧鶴岡警察署庁舎は、1884年(明治17年)竣工。木造2階建ての擬洋風建築で、設計・施工は大工棟梁高橋兼吉があたった。

1956年(昭和32年)に現在地に移築され、2009年(平成21年)に国の重要文化財に指定された。

 

 

旧庄内藩主御隠殿は、1863年 (文久3 年)に藩主忠発が建てた隠居所である。1864年(明治元年)江戸の中屋敷を解体して、その一部を鶴ヶ岡城三の丸の御用屋敷地に移築した。木材や瓦などは、江戸から西廻り航路で酒田へ、さらに川船を利用して鶴岡へ運ばれた。

 

 

江戸時代末期に建てられた2階建ての土蔵で、当初は藩主の武具や調度品類が収納されていたという。

 

 

旧渋谷家住宅は、鶴岡市(旧朝日村)田麦俣に1822年(文政5年)に創建された多層民家で、高層部には養蚕飼育の様子が伺える。昭和44年(1969年)に移築された。

 

 

大寶館は、大正天皇の即位を記念して1915年(大正4年)竣工した洋風建築で、赤い尖塔と白亜の殿堂として大正建築の優美さが、内部を含めて原形をとどめている。

開館当時から戦前にかけては、主として物産陳列場として使われたが、1951年(昭和26年)から1985年(昭和60年)までは、市立図書館として地域の人々に利用された。

 

 

山形市の目的地も福島市、鶴岡市と同様、街の中心部に集中している。今回、3都市を夜行日帰りで散策できたのも、この立地の良さのお陰だ。

 

 

カトリック山形教会は、1926年(大正15年) 竣工。 外観は純西洋風のロマネスク様式。 外部壁面には鉄板が張り巡らされ、現在はその上にコンクリートが薄く塗られている。内部は木造が基調で、 昭和30年代は畳敷きであった。

 

 

山形聖ペテロ教会礼拝堂は1910年(明治43年)竣工。木造平屋建(搭屋付)、切妻、鉄板葺き、外壁は下見板張り、ペンキ仕上げとなっている。2002年(平成14年)に国登録有形文化財登録。

 

 

山形六日町教会は、1914年(大正3年)竣工の木造平屋、日本基督教団所属。

次に紹介する山形県郷土館「文翔館」の奥にある。

 

 

山形県郷土館「文翔館」は、1916年(大正5年)竣工の英国近世復興様式建築物で、県庁舎及び県会議事堂で、構成されている。1984年(昭和59年)、国の重要文化財に指定され、1986年(昭和61年)から10年の歳月をかけて復原工事が行われた。

 

実は、元々の訪問先リストには載せてなかった。山形六日町教会に向かう途中で偶然発見、訪問の運びとなった。無料駐車場もあり、ラッキーな発見だった。

 

 

旧県会議事堂はレンガ造り一部2階建てで、当初から県議会で使用されないときには演奏会等の会場としても使用され、現在でもさまざまな催しに使われている。

 

 

旧県庁舎はレンガ造り3階建てで外回りの壁面は石貼りで覆われ、重厚感のある佇まいである。文翔館のシンボルで4辺に顔を見せる時計台は、現在日本で稼働している中で札幌の時計台に次いで2番目に古いものとのこと。時計職人が振り子を動かす分銅を5日に一度手動で操作し、大切に使われている。

 

 

山形県郷土館「文翔館」訪問で、今回の教会散策は終了。帰路、山形県南陽市の赤湯温泉で一服して帰った。赤湯温泉は、学生時代に自動車免許合宿で滞在したなつかしい町だ。40年振りの訪問。何しろ、学科が終了してしまうと、1日2時間の実地のみ、毎日、片道約10キロの山中にある蛭沢湖までランニングして湖に飛び込み、再びランニングで帰る毎日。若かりし頃の夏の思い出である。ホテルは、三食、昼寝、温泉付き。

 

赤湯温泉から足尾の居宅までは、グーグル先生の思し召しに従って一般道を走行。国道もあるが、冬季には通行止めになる県道、町道もあって、日が暮れてからの走行は、ちょっとの勇気と細心の注意がいるルートだったが、夜11時前に無事帰宅した。

 

 

【メモ】

アメリカの次期大統領が、トランプ氏に決まった。アメリカ国民が彼を選んだのだから僕がツベコベ言うべきではないことを百も承知している。彼の当選で、2つの戦争が悪い方向に進むかもしれないとか、世界の分断に拍車をかるとか、もちろん円安が進行し、日本社会が、貧しくなるとか、そのような憶測で彼を批判するつもりもない。彼に対する不満は、あまりにも品格のないことだ。僕自身、品格があるとか、ないとか、ひとを批判できるほど品格がある訳でもない。彼が、アメリカではなく、アフリカか、ラテンアメリカの新興国の大統領ならば、許容できるといった話でもない。

 

トランプ氏は、移民排斥を主張しているが、本心でも、そう考えているとは思えない。移民排斥は、集票ツールにすぎない。アメリカが、グレートであった原動力は、流入し続ける移民の力だ。実際、トランプ氏を強く支持したイーロン・マスク氏も南アフリカ移民だ。(父親のルーツは、アメリカにあるが、母親から受け継いだカナダ国籍によってアメリカに入国している。) トランプ氏の妻だって、ユーゴスラビア(現スロベニア) 移民であることは、広く知られている。トランプ氏自身が掲げる「メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン」に移民が必要なことを彼は知っている。集票のためならば、何でもやってしまう彼は、政治家ではなく、政治屋なのだろう。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/高岡

2024年10月19日 | 旅行

2024年の記録

10月に出張した富山県高岡市の朝の散策の記録

(前回のiPhone画質の不満から、今回はNikon COOLPIX P5100で撮影)

 

トップ写真は、お気に入りの赤レンガ建築の旧高岡共立銀行本店。

 

 

足尾から高岡まで、高速をクルマで走って、片道約6時間。さすがに日帰りにできず、1泊したお陰で、高岡市山町筋重要伝統的建造物保存地区(重伝建)を散策できた。

 

山町筋重伝建が散歩圏内といった我が儘な上司に気を使ってくれた部下のチョイスはアパホテルだった。アパホテルに宿泊したのは、久しぶりのこと。理由は、料金設定が高めなのと、嫌中書籍設置問題で、来日中国取引先の宿泊には利用できないこと。

 

日本は言論の自由がある国なので、件の書籍を設置する自由がある。しかし、十分な議論のできない環境で、歴史認識に関わる問題を提議するのは、如何なものか?というのが、僕の見解。

歴史認識を改めるとか、一致させるなど、できない、そもそも、歴史認識は、一致させるべき性質のものではない。事実は1つでも、それをどのように認識するかは、その人のバックポーンで、異なるものだからだ。

 

アパホテルのビジネスモデルは、ある意味で独特。アパ・カレーなるレトルトカレー等のプレゼントがあったり、狭い部屋に異常にデカイテレビモニターを設置したりと。無駄と言えば、無駄なのだけど、それが“お得感”や“ゴージャス感”になる。まぁ、一泊するのは良いが、3連泊以上は、「ちょっとね!」と僕は思う。

 

 

山町筋は加賀前田家二代当主前田利長が高岡開町に際し、近隣の城下町から町人を招いて北陸道沿いに商人町を造ったことが始まりで、高岡は江戸期から明治期にかけ物資集散の拠点として発展し、中でも山町は商業活動の中心だった。

 

現在でも残る街並みは、1900年(明治33年)の大火の復興にあたり、防火構造である土蔵造り主屋が建てられたことによる。それらの土蔵造り主屋に混じり、本格的な洋風建築の赤レンガの銀行や洋風建築の意匠を取り入れた主屋等も建ち、特色ある歴史的景観となっている。

 

 

1914年(大正3年)に高岡共立銀行本店として建てられた。擬ルネッサンス様式の建物で、屋根は銅板葺きである。その後は北陸銀行高岡支店、1964年(昭和39年)11月からは富山銀行本店として使用された。

 

建物の設計は、東京駅を設計した辰野金吾の監修のもと、清水組の田辺淳吉が担当した。

 

2019年(令和元年)の富山銀行本店移転に伴い、建物は2021年(令和3年)、高岡市に無償譲渡された。市の建物診断では、大地震で倒壊の恐れがあり、大規模な耐震補強工事には、工法の違いにより3億5千万から5億円程がかかるとされている。なお、施設活用案として、交流・展示施設や飲食・物販施設などの利用も考えに入れ検討している。

 

 

山町筋から路地を入っても絵になる街なみがあった。

 

 

【メモ】

「令和の米騒動か?」と言われた夏が終わり、コメの収穫期の秋を迎えたが、店頭にならぶコメの価格は高止まりだと嘆く友人たち。農家の立場からすると、原価の上昇分は、まだまだ農家の持ち出しだ。肥料も農業資材も、そして農機の燃料も輸入である。それでも、コメの生産をやめないのは、農家にとって農業が事業ではなく家業、つまるところ収益をあげることが目的ではなく、継承することが目的になっているからだ。

 

日本のコメが、安いか、高いかと言えば、チョー高い。アジア圏に住んだ経験のある人なら分かると思う。高い理由をひと言で言うと、無理して作っているからだ。日本は南北に長いのに、多くの農家は、ゴールデンウィークに田植えをする。理由は、兼業農家だからだ。そんな訳で、田植え機が稼働するのは、年数日間。稼働時期が、重なるので、自前で所有するしかない。一戸の規模が小さいのに田圃が散在していることも多く、効率も悪い。そのため、専業農家も請け負いを躊躇するので、大規模化は遅々として進まない。

 

営農のために我が家の家計が大赤字にならないのは、国の補助金があるからだ。家業でやっている農家に、なぜ補助金を拠出するかというと、食糧安保という大義があるからだ。しかし、既述した通り、肥料から燃料に至るまで、農家の買い物の大半は輸入なので、輸入がストップすれば、コメの生産はもちろん、農業そのものが、できなくなる。化学肥料を人糞に替え、農機を使わずに人力で、何から何までやったら、収量は激減して、食糧危機は回避できない。

 

結局のところ、食糧安保を大義にした日本の農業政策は、時代錯誤になってしまった。ほんとうの目的である“票田”の家族経営農家は、瓦解してしまった。コメの輸入を解禁すれば、小麦同様、国内生産は限りなくゼロになる。国内の農業効率化を目的に企業の農地所有を解禁すれば、きっと海外資本のものになってしまうだろう。

 

展望のない、農家の愚痴になってしまった、頓首!

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/日本縦断と浅草・日光

2024年10月06日 | 旅行

2024年の記録

8月と9月の散策の記録

 

 

トップ写真は、浅草寺雷門。日本の観光地の象徴か?日本人観光客は、パラパラ、マジョリティは、外国人、近未来の日本の姿か?

 

 

居宅から東京の本社に出勤するときは、東武日光駅までは、クルマで約40分。東武日光駅から浅草まで行き、営団地下鉄銀座線に乗り換えて日本橋へ。浅草で都営地下鉄浅草線に乗り換えれば、そのまま京浜急行直通で、羽田空港へ乗り換え1回で行ける。

 

 

北九州空港を飛び立ち、一眠りして目が覚めて、窓から外を眺める。三重県志摩市上空を飛行中。

 

 

静岡県上空では、雲の間から富士山の山影が見えた。

 

 

神奈川県三浦半島上空。

 

 

航路は、神奈川県から千葉県上空まで飛び、その後大きく旋回して、北側から南下して羽田空港に向かった。南房総市富津町~君津市~長柄町。

 

 

 

7ヶ月前まで住んでいたワラビスタン上空。まだ、1年も経ていないのに遠~いいむかしのことに思える。

 

 

東京都中央卸売市場上空、東京湾岸フロンティア。

 

 

羽田空港に無事着陸!

 

 

羽田空港駅から都営地下鉄浅草駅まで直通電車で30分、駅から徒歩5分。浅草寺雷門は、抜群にアクセスが良い。英語や中国語で、行き交う人に話しかければ、実践的なインターナショナルコミュニケーションのトレーニングになるだろうな、ちょっと怪しがられるけどね。

 

 

仲見世通りを進み、宝蔵門をくぐると正面に本堂、左手に五重塔。

 

 

雷門門前にある浅草観光文化センターの展望室からは、雷門から仲見世通り、宝蔵門までを一望できる。(本堂は宝蔵門の陰になって見えない)

 

 

東武鉄道浅草駅ビル(現:EKIMISE(エキミセ))は、1931年(昭和6年)竣工の基本意匠をネオ・ルネサンス様式とした関東初の百貨店併設駅ビル。

 

 

日光から足尾への帰路、日光東照宮神橋から日光金谷ホテルを眺める。

 

 

【メモ】

部下から「円高は、このまま進みますかねぇ?」と聞かれた。

「そんなのわからないよ。だって、世界では、戦争が2つも続いているんだぜ。」 

そうなのだ、2つも戦争があり、毎日、何の罪もない人を殺し、殺されている。それに対して、何もできない自分。言い知れない無力感を覚える。

 

イスラエルのガザへの空爆が、レバノン、イランへと拡大していることについて、「日本への影響は? 石油が高騰するのかなぁ」とバラエティ番組でコメントしたゲストがいた。正直な気持ちなのだと思うが、あまりにも不謹慎なコメント。僕は憤りを覚えた。戦争が終結するならば、石油価格が倍になっても僕は許容するよ。

 

 

旅は続く

 

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/鉱都足尾・夏の思いで

2024年09月28日 | 旅行

2024年の記録

足尾の短い夏、6月~8月の散策の記録

 

 

週末になると茶色とゴールドのツートンカラーのディーゼル機関車が、客車を牽引して、足尾駅まで運行される。

 

 

世間では、酷暑、酷暑と呟かれる2024年の夏。しかし、日足トンネルを抜けて旧足尾町に入ると、別世界の涼しさ。標高600~1000米の高さに加え、周囲を山に囲まれているため、良くも悪くも15時をすぎると、日が沈んでしまう。ほとんど、エアコンを使うこともなかった。(足尾が長い人は、涼しさに慣れてしまい、それなりに暑くて、使っているが・・・・。) ただし、朝晩には、霧が発生するため、湿度が高く、除湿のためエアコンを使うことがあった。

 

 

梅雨の最中、雨あがりの空に一瞬のあいだ虹が掛かった。(足尾町掛水)

 

 

虹が消えた後、夕焼けを映した東の空が、燃えるような紅色に変った。(足尾町掛水)

 

 

旧国鉄色のキハ35型ディーゼルカーが停まっている足尾駅。

 

 

DE10型ディーゼル機関車と12系客車で編成されるわ鉄・トロッコわたらせ渓谷号

 

 

僕の勤務先の目の前の岩壁、今でこそ、植樹の成果で青々としているが、“日本のグランドキャニオン”と呼ばれ、岩肌剥きだしの絶壁になっていた。

 

 

粟野町(現鹿沼市)上粕尾と足尾町(現日光市) を結ぶ粕尾峠は、最高地点が標高約1100米。

1896年(明治29年)に鉄索(ロープウェイ)が設けられ、粕尾の材木や木炭が運搬されていたが、現在、鉄索の跡はみつからない。写真は、最高地点の市境付近から足尾側の展望。

 

 

足尾製錬前の古河橋を渡り、本山坑口前を抜け、銀山平に至る足尾の裏道の最高点が舟石峠である。冬季通行止め。

 

 

松木川左岸(上流から下流側を見る)の自動車の通行できるドン詰まりにある銅(あかがね)親水公園。

 

 

粕尾峠を越え、国道122号線のバイパスと交差した付近の足尾町向原の内ノ籠川。

 

 

粕尾峠旧粟野町側の青空、白い雲、そして路傍の花。

 

 

山林からしみだす水、その流れは、思川となり自宅のある下野市をかすめて、野木町で渡良瀬川と合流、利根川を経て太平洋へ注がれる。

 

 

居宅のベランダから見る空、住めば都。どこよりも落ち着く場所かもしれない。(足尾町掛水)

 

 

足尾は、山に囲まれた谷底にあり、北東と南西が僅かに開けている地形のため、夕焼けが見られるのは稀だ。日光市今市のショッピングモールの駐車場で、久々に夕焼けのパノラマを見た。

 

 

【メモ】

自民党の新総裁が決まった、日本の新総理大臣が決まったに等しい。そのことを深く議論するつもりはない。まぁ、タカ派のTさんが総理になって、対中関係が荒れると困るなぁ、といった心配は、杞憂に終わり、やれやれ、といったところだ。

 

僕の祖父は、戦前、政商みたいなことをしていたらしい。そのためか、父は、政治家を政治屋、政党を政治業者と呼んで、軽蔑していたが、その一方で、義父もその父も、そして義母の父も政治家というのも皮肉か。

 

政治家の世襲は、良くないという人もいるが、悪くもないと思う。世襲議員の方が、ある意味で、自由なのだ。政治家が、政治家でいるためには、選挙に勝たなくてはならない。世襲した地盤があれば、絶対安泰という訳ではないが、地盤もなく選挙に勝つためには、人脈やカネの面倒を見てくれる親分に仕えなくてはならない。そんなことをしていると、自身の志など、どこかへ吹っ飛んで、地位や権力を掌握することが目的となってしまう。

 

頭脳明晰で、弁が立ち、世襲でもない議員がいるが、どうも彼らは、日本を変えたいのではなく、日本を変えられる権力が欲しいだけに見える。自身の政治信条を語るのではなく、マーケッティングの手法でリサーチした、大衆に受ける、票を集められることを言う。世界的な大衆迎合主義の一端か?

 

義父を悪く言いたくないが、議員になる方が、医者や弁護士、教師になるより手っ取り早く「先生、先生!」と呼ばれると考えたのではないか?世襲の地盤を最大限活用してね。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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