ケガしなかった?
1
私は茶碗をよく割る子どもだった
そのたんびに心が砕けた
罪意識がバラバラと床に散った
けれど母の罵声(ばせい)はなかった
「ケガしなかった?」
それが最初の声だった
息子らもよく茶碗を割った
皿も割った コップも割った
そのたんびに背が縮んだように見えた
子どもの上目づかいは切なかった
「ケガしなかった?」
母をまねた
2
これまでに一度も茶碗を割らなかった人、皿を割らなかった人、コップを割らなかった人など、おそらくほとんどいないでしょう。日用の品々でなく、壺など高価な物を割ってしまった人もいるかもしれません。
思わず手がすべったときの絶望的な感触。
落ちて砕けたときのあの衝撃的な音。
少し大げさに言えば、自分は過ちをおかす者であること、それを知らされた出来事です。さらに大げさに言えば、人生には取り返しのつかないことがある、そのことを教えられた出来事です。
そのとき「だいじょうぶ、だいじょうぶ!」と言ってくれた母。「それより、おまえの手や足のほうが心配だよ」と言ってくれた母。
たとえ取り消せない間違いをしでかしてしまっても、悪いと思う気持ちがあれば、そしてそれを言葉や表情や態度であらわせば、ゆるしはある―そのことも胸に刻んでくれた出来事です。
私たちの「過失」は日常的に起こり、「ゆるし」もまた日々の暮らしの中に用意されています。「過失とゆるし」に焦点を絞れば、毎日の出来事はその連続、その堆積であるかもしれません。
その奥のほうに「悪」や「罪」は根を張っています。芽を吹きだそうと待ち構えています。けれど、それがもしも露わになったとしても、悔い改めれば、そうしさえすれば、「神の赦し」は、天に広がっているのではないかと思います。創世の時からずっと。
●ご訪問ありがとうございます。
ロシアの侵略のことを思い浮かべながら書きました。すでに何万人もの命が失われてしまいました。取り返しのつかないことです。
しかし、と思います。
今こそ罪を悔い、悪を止めてくれ! と。
たった一人の侵略者、それを取り巻く同類の者たち。
今こそ罪を悔い、悪を止めてくれ!
赦しの神が見ておられる! と。