わかる
一九七〇年、大学二年生のわたしは、学生運動の渦中(かちゅう)にいた。日米安保条約改定への反対、米軍によるベトナム戦争への反対、それが主な運動だった。成田空港建設反対という行動も大きなものだった。
わたしは暴力を用いるデモには加わらなかった。けれど、「力」で悪しき状況を変えたい、という熱い思いは、ヘルメットをかぶり、「ゲバ棒」と呼ばれた角材を手にし、警官隊に向かって投石する若者たちと似たところはあったろうと思う。
ただ、お粗末な話だが、芯のある政治思想とか、根っこに蓄えた歴史観などがあったとはいえない。「今の日本ではだめだ。何とかよい日本にしたい」という「正義感」とか「愛国心」のようなものだけで動いていたのだと思う。
そんなわたしは、よくデモに参加した。「○○反対闘争」とか「○○阻止闘争」とか、そのときどきのデモがあり、「闘争」というはげしい言葉で自分を勢いづけていた。深夜に帰宅することも少なくなく、泊まり込みで準備したり、現地へ出向いたりしたことも何度かあった。
あるとき、雨の中大きなデモに参加し、泥んこになって帰宅したことがあった。
風呂場でズボンを脱ぎ、着替えると、母のところへ行った。母は居間にいた。わたしが帰宅するまで、さぞ心配していたろうと思ったが、何も言わなかった。テレビに目をやっていた。
わたしは、母に言った。
「俺は今、デモに何度も行っている。世の中を変えたいと思っている。こんな日本じゃ良くない。変わらなくちゃいけない。だから、変えるためにデモしているんだ」
そう言うわたしは、実は内心疲れてきていた。
非暴力デモといっても、ひとたび街頭へ出れば、機動隊員がいるのだ。デモの隊列の左右を囲むのである。ジュラルミンの盾を持ち、濃紺の制服に身を包んだ巨漢の機動隊員は、チビのわたしには山のように映った。険しい眼には怒気が満ちている。
「阻止闘争」と名づけた大きなデモのとき、正面から蹴散らされ、逃げ惑った学生をつかまえ警棒を打ち下ろす姿を見たとき、わたしは脚がすくんだ。「我が力」で日本を変えるどころの話ではない。我が力は、正義の名のもとに暴力を行使する同年齢の警官たちの、その「力」の前で声も出なくなってしまったのだ。
行動の成果のなさ、何より自分自身の骨の無さに、疲れてきていたのである。
しかし、とわたしは突っ張ったのだ。ここで弱気になってはならぬと。そして、母に向かって、わかったような口をきいたのだった。
母は、生意気言うなと、言わなかった。心配ばかりかけてと、非難もしなかった。
わかる
わたしには分からないけど
そういって泣いた
おまえのことを分かりたいと
うんと思っているよ
そういって泣いた
息子はただ黙っていた
分かってくれなくてもかまわないよと
こころで呟いた
強がっていた
おっかさんは息子の考えをわからなかったろう
おっかさんは けれど
息子の揺らぎを
自信のなさを
すっかり分かっていただろう
わたしの「闘争」は、一年間で終わった。その後長い間敗北感・挫折感となって残ったが、母の「おまえのことを分かりたいよ」という言葉を超えるものではなかった。
●ご訪問ありがとうございます。
ウクライナ兵・ロシア兵の武装する姿から、遠い昔の警官隊(機動隊と、当時は呼んで怖れました)のことを思い出し、ついでわたしの小さな挫折体験を思い出し、さらに、わたしの気持ちをカバーしてくれた母のことを思い出しました。