死んだラザロのバラード
イエスは、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだ」(聖書)
ラザロは死んだ もう生き返らない
かれの体に彼はいない
ラザロは死んだ
もう 生き返らない
もどってきて! もどって きて!
家族は叫ぶ 家の戸口で、教会で、荒れた麦畑で
けれども ラザロは死んだ
もう 生き返らない
ラザロはぼやく ─わたしは誰にしたがった?
ラザロはなげく ─わたしは何人ひとを殺した?
ラザロはさけぶ ─わたしはいったい何を守ったの?
ラザロはうめく ─わたしはノー!となぜ拒まなかった?
ああ、ラザロは死んだ もう生き返らない
かれの骨は野ざらし
髪も爪もどこにもない
ラザロは 死んだ。
戦場に打ち捨てられるいのち
ラザロは、聖書に出てくる人物です。病で死んだのですが、イエス・キリストによってよみがえった人物です。この詩とは異なります。
けれど、一度生き返ったラザロですが、この地上に今も生きて存在しているのではありません。他の人間と同様、死にました。ただ、彼は神と出会い、神の声を聞き、神に救われた者として、天の国へのぼったのです。
この詩に登場するラザロは、兵士です。戦場で死んだ兵士です。彼に生き返るチャンスはありません。殺す者として戦場へ送られ、殺し合い、そして殺されました。
生きていた間、家族とともに過ごしたかけがえのない時間があったでしょう。友情を、恋愛を、大切なものとして味わったでしょう。将来への希望ももち、悩みも葛藤ももち、明日はあると信じて生きていたのだろうと思います。
しかしその彼のいのちは、戦場に打ち捨てられたものとなってしまいました。
このようなむごたらしいことが、この世界に今日も起こっているのです。どれほどの「ラザロ」が、今日も「野ざらしの骨」と化すのでしょう。
●ご訪問ありがとうございます。
ロシアの侵略戦争が始まって、明日で半年となります。マスコミはほとんど報道しなくなりました。報道があっても、「戦争のなりゆき」を報じるだけで、傷ついた人々の姿は薄まってしまっています。むごたらしい戦争なのに、その血なまぐささが感じられなくなってしまっています。
私自身も、朝・昼・晩「戦争が早くはやく終わりますように」と祈っていますが、2月24日に侵略が始まったときより緊張感が下がっています。
もう一度見つめなくてはと思いを新たにし、今回三度めですが「死んだラザロのバラード」を掲載します。(少し手を加え、戦争のむごさをもっと出したいと考えました)
さらに「戦場に打ち捨てられるいのち」を新たに加えました。この間、旧日本軍の太平洋戦争の戦闘の記録を、少なからず見ました。「野ざらし」とされた兵士たちの無念さを思い、心が激しく揺らぎました。