ふたりの外寝のひと
日々の暮らしの中で、不思議な重なり方をする光景と出会うことがある。
外寝のひと 1
朝の公園に外寝のひとがいる
傍らに自転車
石のベンチにナップザック
外寝のひとは背を向けて
樹か鳥をみている
トイレに黄色のテープのバッテン
水道には蛇口がない
疫病が街にはやっているのだ
ぼくは公園を抜けていく
露のおりた草が靴を濡らす
外寝のひとは
ふりむかない
樹か鳥をみている
外寝のひと 2
公園を時間が過ぎた コロナが塞(ふさ)いでから三年
トイレから黄色のバッテンがなくなった
水道の蛇口は外されていない
公園のベンチにひとがいる
そばに自転車
ベンチの上に二三本のペットボトル
そのひとは背を向けて座っている
そのひとは年取った後ろ姿にみえる
そのひとはタバコを吸っている
ぼくの散歩はひさしぶり
公園に入ったのもひさしぶり
そのひとを見たのははじめて
外寝のひとかな とぼくはつぶやく
夏だからよかったかな とぼくはつぶやく
水も出るしトイレも使えるし とぼくはつぶやく
前のひとは寒かったろう あれから一年半だなと思い出す
そのひとは背を向けたままタバコを吸っている
ぼくはその背を横目で見ながら公園を抜けていく
二編の詩の光景は、通りすがりの人との小さな出来事、というものである。どこにでも、いつでもありそうな光景である。ただ、この町では「外寝のひと」を見かけることが少ないので、その点は少し違うけれど。そしてその少しの違いが、心に残る出来事となったのだった。
「ぼく」は以前も今度も、声をかけなかった。弱った様子、困った様子に映らなかったというのと、何となく「近づきがたさ」を感じてしまったというのと、両方の理由からだった。
前のひとも今度のひとも、背を向けていた。公園の内側でなく外側に体を向けていた。だから、公園に入ってくる人がいても、ふり向かなければわからない。だが二人とも、ふり向かなかった。「ぼく」が公園を抜けるまで一度も。
街中を歩いていて、すれちがう人がいる。大勢いる。けれど、お互いに顔を見ない。たまたま、よけようとして見るときもあるが、黙ってすれちがう。そして何も記憶しない。すれちがったことさえ忘れてしまう。
でも、あの公園のあのひとたちのことは記憶に残った。
どうやら「外寝のひと」らしい。それが珍しかったのだ。
しかも同じ公園、しかも同じベンチである(ほかにもベンチはあるのだが)。しかも自転車を止めている。しかも、ふたりとも背を向けて座ったまま。しかも、「ぼく」は朝の散歩の途中。―こんな重なり方があるものなのだ。
前のひとは、今度のひとによって、今度のひとは前のひとによって、陰影が濃くなった。「ぼく」は、何もしないで通り抜けただけなのに。
ずっと背を向けたままだったふたり。
内側を向くことなく、自分を外側に向けていたふたり。
忘れてしまわず詩に書きとめておけと、「ぼく」に迫ってくるものをもっていたふたり。
ひとことも言葉を交わしていないのに、「ぼく」の心の内側へ存在を向けてくれた、ふたり。
●ご訪問ありがとうございます。
戦死者の死は「群死」でなく「個死」です。通りすがりの人の生は「群れの生」でなく「個の生」です。ひとを「数」で考えないこと、一人ひとりを「個」として見ること、それが大事だと思います。