墓の話
五歳の墓があの村にある。
母と一緒に埋められた。
夫に棄てられた母が
僕を道連れにした。
十八歳の墓があの町にある。
今は高層マンションが建つあの町。
僕は犬に噛まれ
傷口から全身に菌がひろがった。
二十五歳の墓があの研究所にある。
爆発事故で壁に打ちつけられ
僕のからだは砕けた。
研究所は骨ごとコンクリで塗り固めた。
六十六歳の墓は姉の墓。
八十四歳の墓は父の墓。
ふたりはちゃんと死んだので
ちゃんと墓地がある。
傲慢になれない生と死
夫婦の不仲で子が道連れにされる、親の虐待で子どもが殺される、とつぜんの病気で亡くなる、事故に、あるいは事件に巻き込まれて殺される、災害や戦争で死者となる、などなど、「理不尽な死」がたくさんある。
けれど、その理不尽な死も「死」であるという現実の中に私たちの生はある、ということを受けとめなくてはならない。
わたし自身、これまで何度か「理不尽な死」と呼ばれるような死の瀬戸際まで行った。それらを通して「死と生」とは表裏一体、ひと続きであると実感するようになった。
春の桜の季節に死にたいという歌人もいた。病院でなく我が家で死にたいと願う方々は少なくないだろう。もっともっと人生を愉しみたいと、長生きを切望する方々もいるだろう。
一方で、自ら命を絶ちたいと思い詰める方々も。私自身、二十歳の時にそう思い詰めたように。
だが生も死も、自分自身で好きにできるようなものではない、と思う。
命が、与えられたものであるのと同じに、死も備えられたものである、―という思いが、年々強くなってきている。
ひとは、生にも死にも傲慢になれない、という思いである。
●ご訪問ありがとうございます。
「善と悪」「生と死」という一見対照的なものが、実はひとつながりのものではないかと、思うようになりました。簡単に断言してしまうのはよくないと思いますが。
書いたことを忘れてしまうという認知の傾向が出てきていますが、粘れるだけねばって、考えを一筋のものにしていきたいと思います。