祈りを、うたにこめて

祈りうた(信仰くねくね  「聖書を読もうかな」という時2)

〈信仰くねくね〉 「聖書を読もうかな」という時2


 家の宗旨が仏教の〇〇宗である、という人のほかにも、仏典を読む人、仏教に触れる人は少なくないだろう。「歎異抄」は広く読まれていると思う。「般若心経」をなぞって心を静め、浄めたいという人はもっと多いだろう。
 それに比べて聖書を買う人、読む人はどれほどいるのだろうか。何かしらの深い、重い事情があって思いつめたというようなことがないと、手にすることは少ないように思う。あるいは、ミッションスクールの授業課題で聖書を読むことを指示された学生の場合なら、必要に迫られて一部分を読むことがあるだろうか。

   無宗教十句

いまからの信心ですか 眠いのに

カミサマや 閉店までの暇つぶし

御神輿(おみこし)は還暦過ぎに重すぎる

延命の管も祈りも固辞します

死ねそうな気がしてきたよ 遺書まとめ

あゝやっと解放されるカミホトケ

ここからは天国ですの規制線

無宗教 供花、線香、数珠、アーメン

天国を見てきたような弔辞聞く

もくとう! で死者が生者を値踏みする

 
 わたしが初めて聖書を買ったのは十七歳のときだった。前に書いたとおりである。それなりに人生と向き合おうと考えたのだ。
 だが、ときおり開いて読むことはあったが、読みひたることはなかった。
 何かしらの決意で買ったはずなのに、今思えば、いっときの知的な興奮だったのだろう。人生の深みにはまってどうにもならなくなり、救いを宗教に求める、という魂の状態ではなかった。思春期の気取りが、「聖書を持つってなんかカッコイイ」と思わせたのだろう。
 大学生になったとき、聖書研究会というサークルに入っている学生が、文語訳の聖書を見せてくれた。そのときも「文語訳って、なんかカッコイイ」と思ったことを覚えている。
 わたしの場合、どうやら魂の問題でなく、したがって信仰的でなく、見せかけだけの、一種のファッションとして聖書を持つことになったのだ。そう認める。キリスト教の信徒でない人が、胸から十字架のネックレスを下げているのと同様に。
 当時も今も、底の浅い己であると思い知らないわけにいかない。
  ただ、なぜかしら、最初に買ったその小型の聖書、それがその後ずっと心の中に不思議な光を放っていたのである。
 





★わが影を 肩車して 青き踏む
★いつも読んでくださり、ほんとうに有難うございます。
 
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「信仰くねくね」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事