祈りを、うたにこめて

祈りうた(信仰くねくね  「聖書を読もうかな」という時3)

〈信仰くねくね〉 「聖書を読もうかな」という時3

 「聖書を読もうかな」と人が思うのはどのような時だろう。いや、わたし自身がそう思ったのはどのような時だったか。
 体と心と魂と、この三つがあるなら、聖書は「魂」に働きかける。たとえ体と心が病んだり傷ついたり苦しんだりしても、―いのちの瀬戸際と見えるような状態におちいったとしても、すぐに「魂の救い」を求める気持ちにはなれぬかもしれない。むしろ心と体のことで精一杯になり、魂の入る隙間がない、という状態かもしれぬ。
 日々が楽しくてしかたがないというひと、幸せ感いっぱいのひとは、「魂の救い」を求めることに縁はないだろう。多少の苦労はしても、毎日が充実していると感じるひとも、同じようであるかもしれない。
 他方、自分の仕事や趣味や社会的な活動などに注力している人・没頭している人、あるいは、けがや病から回復したいと懸命に治療の日々を送っている人、さらに辛さや哀しみのどん底にあるような人でさえも、「目の前の困難を乗り切らねば」、「弱気にならず頑張らないと」「頼れるのは自分だけ」というような強くはげしい思いになるかもしれない。
  ―事実、「今ちょっと手が離せない。神さま、ご免!」と、わたし自身も長い間呟いていた。ケガ、病気、失業の不安、人生の目的の無さなどの状態におちいっていたときだった。頼りにならない己なのに、うつろな自我にしがみついていたのである。



★わが影を 肩車して 青き踏む  
★いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「信仰くねくね」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事