聖句つれづれ 「命の恩人」キリスト 全三回の三
ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」
彼らは王に答えた。「王様、そのとおりでございます。」
すると王は言った。「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
(「ダニエル書」三章、新改訳聖書二〇一七年版)
〈要約〉国が亡ばされ、異国へ連れてこられた青年たち三人。その国の王に従い、金の像を拝めと命令を受ける。だが、三人は、自分たちの信じる神がおられる、その方だけに従う、と言って、命令を拒んだ。そこで、怒った王は、縛った三人を火の燃える炉の中に投げ込み、焼き殺せと命じた。ところが、その真っ赤に燃える炉の中で、三人は生きて歩いている。そして、その三人を生かしている四人目の存在がいる。その四人目の存在こそ神の使いだった、という物語である。
1
事故のあと、会社を休職し、療養生活を送りました(会社は、二年ほど経ったとき、労災の期限が過ぎたというような理由で、退職の通告をしてきました。退職金は十万円ですと、電話の向こうで課長が告げました。感情の伝わらない、淡々とした声でした)
療養中、事故を断片的に思い出すことがありました。けれど、傲慢だったのに助かった、いのちをもう一度もらったようなものだ、有難いことだ、というふうには思えませんでした。事故前と変わらない自分が頑固さを主張していたのでした。痛みで眠れない夜が増えた分、事故前よりかたくなさが強くなっていたかもしれません。静かに人生をふりかえり、これからの生き方を考える余裕はありませんでした。首や腰に直接打つ「神経ブロック」という麻酔注射がありましたが、何十本打ったことでしょう。一週間ともたない効き目のために。
あれほどの事故に遭い、助かった。それは「奇跡」なのかもしれません。そんな経験をした人は、神の世界に心が自然と向くものではないか、そう思うひとはいるでしょう。重い病気や大きな怪我のあと信仰に入った人は少なからずいると思います。しかし、私は残念ながら、そのような人たちの群れにすぐに加わることができなかったのです。
『いのちの初夜』という作品を書いた北條民雄という作家は、自分がハンセン病に罹(かか)ったと知ったとき、それまでの自分の鬱屈した思いや絶望感とようやくバランスが取れた気がする、というようなことを書いていました。彼ほどの苦しみを味わっていたわけではありませんが、一度二十歳のときに死のうかと思い悩んだ私でした。その五年後に事故に遭って、彼を思い出したのです。何となく共鳴するところがありました。
2
聖書を初めて買ったのは十七歳のときでした。高校の帰り、古本屋の棚で見つけた口語訳聖書でした。すぐに開いて読むというには文字が小さく、分厚いものでした。思春期の一時的な興味だったのでしょう、その後ずっと本棚にしまったままでした(裏表紙に「十七歳」と赤ボールペンで記しました。記念のつもりだったのだと思います)。
自己流に読んだのが十九歳の頃。大学生となり、そこで出会った学生が小型の文語訳聖書を見せてくれました。新約聖書だけだったと思います。紺の表紙が素敵でした。
彼はクリスチャンでした。私は聖書研究会に誘われましたが、一、二度覗いただけでした。けれど文語に惹かれて私も同じ聖書を買いました。そして、ぽつりぽつりと読んでいました。文学好きな私に、文語は快い響きでした。
けれど、キリスト教会に行くということは頭に浮かばなかったと思います。下宿先の近くに教会があったかどうか、何も思い出せません。導き手は誰もいなかったのです。
そして事故に遭う前です。職場近くに借りたアパートの部屋のドアに「狭き門より入れ」などと貼り紙をし、実際ドアは薄くだけ開けた状態にしていました。しゃれみたいですが、甲斐のない人生というあてのなさの反面、「目的のある人生を生きたい」という願いがあったのでしょうか。聖書の言葉の読み散らかしをしていたのだろうと思います。
「神は愛なり」という御言葉の電撃に打たれたのは、事故後、療養生活を送っていたときです。このときは一念発起とでも言うのでしょうか、分厚い文語訳聖書を買っていました。もうこれ以上猶予はない、と思ったのかもしれません。赤鉛筆を持ち、線を引きながら、一日の多くの時間、聖書をむさぼるように読みました。痛むことと聖書を読むこととが日課みたいな日々でした。
聖書にようやく向き合い始めたのが二十六歳。聖書を初めて手にしたときから九年の時が流れていました。
3
実は、神さまに決定的な御言葉を示され、信仰に招き入れられるまでに、さらに五年の時を必要としました(この経緯は、別のところで紹介したいと思います)。
聖書を初めて手にしてからなんという長い時間をさまよい続けたのでしょう。死ぬかもしれなかった事故でさえ、すぐにめざめ、自分のさまざまな罪を悔い改め、魂を奮い起こすことがなかった私、神の前にひれ伏すことのできなかった私です。
神さまの深い憐れみ! 長いご辛抱!
あの事故以来、腰痛は「腰痛症」となりました。腰をぶつけたとき上体が揺れ、ムチ打ち症みたいにもなりました。そのせいの頭痛も長いつきあいです。気圧の低下と寒さはこたえます。また今でも、やかんから出る白い蒸気にビクッとなる一瞬さえあります。すでに四十五年ほども経ちましたが、体はまだ事故を忘れていないようです。
しかし、それでもいま私はこうして生きています! あのとき、「左ニ下ガレ!」という声によって生かされたいのちが、―生かしてくださった「命の恩人」がおられる! と信じることができるようになったいのちが、今日もこうして鼓動しているのです。
私のいのちは、ほんとうに「有難い」(有ることが難しい、もったいないほどの)いのちなのです。
★祈り求めるものはすべて得たと信じなさい。その通りになる。(聖書)
★いつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます。