不安はおいらの影だから
不安の首根っこを押さえつけたい
そんな溜め息がもれ出てくる
もどかしさ 苦しさ
まるで胸がドキドキでできているよう
不安は そう
綿飴みたいにねばっこい
次々とからまり ふくらんでいく
離そうとすればするほど心にべたついてくる
爺(じい)は悟った 何十年もかかってやっと
―不安はおいらの影だ そして
不安はおいらが好きだ
だからいつもおいらのそばに居たがるのだ と
不安の首根っこを押さえつける
その抵抗をそろそろやめよう
せっかく好きだと言ってくれる不安なのだ
犬の散歩のように一緒に歩いていこう とネ
●ご訪問ありがとうございます。
「不安」は長い間「敵」でした。底意地のわるい、しつこい「敵」でした。でもふるい落とそうとすると、余計からみついてくるのです。
そこで考えました。人から不安は切り離せない。だから、不安であっても良いではないか。それが自然ではないか。恥ずかしい事でも弱々しい事でもない、不安は生まれた時からずっと当たり前についてきたものなのだから、と。
不安のままに生きていく、物事を考えていく、行動をしていく。
不安などないよと見栄はることも要らない。たいしたことではないと誤魔化すこともしなくていい。むろん酒で濁してしまうことも。
「味方」とはいえなくても、不安を「敵」としなくても良いのではないか、―爺は、そう考えたのです。