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辨姦論(宋)蘇洵 (唐宋八大家文読本 四」明治書院より)

2022-02-19 10:33:20 | 日記
辨姦論(宋)蘇洵

事有必至,理有固然。惟天下之靜者,乃能見微而知著。月暈而風,礎潤而雨,人人知之。人事之推移,理勢之相因,其疏闊而難知,變化而不可測者,孰與天地陰陽之事。而賢者有不知,其故何也?好惡亂其中,而利害奪其外也!
昔者,山巨源見王衍曰:“誤天下蒼生者,必此人也!”郭汾陽見盧杞曰:“此人得志。吾子孫無遺類矣!”自今而言之,其理固有可見者。以吾觀之,王衍之爲人,容貌言語,固有以欺世而盜名者。然不忮不求,與物浮沉。使晉無惠帝,僅得中主,雖衍百千,何從而亂天下乎?盧杞之奸,固足以敗國。然而不學無文,容貌不足以動人,言語不足以眩世,非德宗之鄙暗,亦何從而用之?由是言之,二公之料二子,亦容有未必然也!
今有人,口誦孔、老之言,身履夷、齊之行,收召好名之士、不得志之人,相與造作言語,私立名字,以爲顏淵、孟軻復出,而陰賊險狠,與人異趣。是王衍、盧杞合而爲一人也。其禍豈可勝言哉?夫面垢不忘洗,衣垢不忘浣。此人之至情也。今也不然,衣臣虜之衣。食犬彘之食,囚首喪面,而談詩書,此豈其情也哉?凡事之不近人情者,鮮不爲大奸慝,豎刁、易牙、開方是也。以蓋世之名,而濟其未形之患。雖有願治之主,好賢之相,猶將舉而用之。則其爲天下患,必然而無疑者,非特二子之比也。
孫子曰:“善用兵者,無赫赫之功。”使斯人而不用也,則吾言爲過,而斯人有不遇之嘆。孰知禍之至於此哉?不然。天下將被其禍,而吾獲知言之名,悲夫!

原文全文、譯文 (現代中国語訳)
https://fanti.dugushici.com/ancient_proses/71709

原文全文、譯文 (現代中国語訳)
https://kknews.cc/culture/3zk9zvy.html


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「唐宋八大家文読本 四」明治書院に書き下し文と現代日本語訳があります。

「唐宋八大家文読本 四」明治書院より
(書き下し文)
事には必ず至る有り。理には固より然る有り。惟だ天下の靜なる者のみ、乃ち能く微なるを見て著るるを知る。月暈(かさ)かぶりて風ふき礎(いしずゑ)潤ふて雨ふるは、人人之を知る。人事の推移し、理勢の相因(あひよ)るは、其の疎闊にして知り難く、變化して測る可からざる者は、天地陰陽の事に孰與(いづれ)ぞや。而して賢者にして知らざる有るは、其の故は何ぞや。好惡(かうを)其の中(うち)を亂して、利害其の外を奪へばなり。昔者(むかし)山巨源 王衍(わうえん)を見て曰く、天下の蒼生を誤る者は、必ず此の人ならんと。郭汾陽(くわくふんやう) 盧杞(ろき)を見て曰く、此の人志を得ば、吾が子孫遺類無からんと。今よりして之を言へば、其の理固より見る可き者有り。吾を以て之を觀るに王衍の人と爲(な)り、容貌言語、固より以て世を欺いて名を盜む者有り。然れども忮(そこな)はず求(むさぼ)らず、物と浮沉す。晉をして惠帝無く、僅かに中主を得しめば、衍百千ありと雖も、何に從りてか天下を亂さんや。盧杞の姦は固より以て國を敗るに足る。然り而して不學無文(ぶん)、容貌は以て人を動かすに足らず、言語は以て世を眩(くら)ますに足らず。德宗の鄙(ひ)暗なるに非ずんば、亦何に從りて之を用ひんや。是に由つて之を言へば、二公の二子を料(はか)ること、亦容(まさ)に未だ必ずしも然らざること有るべし。今、人有り。口には孔子の言を誦(しょう)し、身には夷(い)・齊(せい)の行(おこなひ)を履み、名を好むの士、志を得ざるの人を收召(しうせう)し、相與(あひとも)に言語を造作(ざうさく)し、私に名字(めいじ)を立て、以て顔淵・孟軻復た出づと爲す。而して陰賊險狠(こん)にして人と趣を異にす。是れ王衍・盧杞合(がつ)して一人(いちにん)と爲るなり。其の禍(わざわひ)豈に言ふに勝(た)ふ可けんや。夫れ面(おもて)垢つけば洗ふを忘れず、衣垢つけば澣(そそ)ぐを忘れざるは、此れ人の至情なり。今や然らず。巨虜の衣を衣(き)、犬彘(けんてい)の食を食(くら)ひ、囚首(しうしゆ)喪面(さうめん)して詩書を談ず。此れ豈に其の情ならんや。凡そ事の人情に近からざる者は、大姦匿(だいかんとく)たらざること鮮(すく)なし。豎刁(じゆてう)・易牙・開方是れなり。世を蓋ふの名を以て、而して其の未だ形(あらは)れざるの患(うれひ)を濟(な)す。治を願ふの主(しゆ)、賢を好むの相(しやう)有りと雖も、猶ほ將に擧げて之を用ひんとす。則ち其の天下の患を爲さんこと必然にして疑無き者(こと)、特(ただ)に二子の比なるのみに非ざるなり。孫子曰く、善く兵を用ふる者は、赫赫の功無しと。斯の人をして用ひられざらしめば、則ち吾が言は過と爲りて、斯の人に不遇の歎(なげき)有らん。孰(たれ)か禍の此に至るを知らんや。然らずんば天下將に其の禍を被(かうむ)りて、吾知言(われちげん)の名を獲んとす。悲しいかな。

(現代日本語訳)
物事にはそれより他になりようのない事があり、理屈にはそれより他に考えようのないことがあるものである。だが、それは広い天下の中で心が落ち着いていて、少々の変化に動じない人だけが、その事や理のほんの微かな兆しを見ただけで、それが顕著な事実となって現れた時のことが分かるものなのである。月が暈(かさ)をかぶると風が吹くとか、柱の土台石つまり礎石(いしずえ)が湿気を帯びると雨が降るなどということは、誰でも知っている。が、俗世界に於ける勢力の消長や、物事の道理と自然の成り行きとの間の相互関係は、距(へだ)たり過ぎて分かり難いとか、変幻自在で推測できないとかいうが、天地間に於ける陰陽の道理の難しさに比べればそれ程のこともないであろう。ところが賢者と呼ばれる人たちでそれが分からない人がいるのは何故であろうか。好き嫌いの心がその人の心を内側からかき乱し、利害打算がその人の心を外側から奪って行くからなのである。昔、山巨源は王衍に会った後で、「天下の人民たちを不幸に陥れる者は、きっとこの男であろう」と言った。郭汾陽は盧杞に会った後で、この人物が自分の望みを達成したならば、私の子孫たちは一人残らず殺されるであろう」と言った。現在になってから言ってみれば、彼らのそう言った理由には勿論頷ける点があるのである。私の目から見るならば、王衍という人物は、容貌、言語のすぐれていたことから、世間を欺いて実力も伴わないのに高位高官と名声を盗んだということは勿論あろう。しかし、他人が危害を加えた訳でもなく、他人に貪り求めた訳でもなく、極く自然のままに世間とともに浮き沈みしたのである。かりに晉に惠帝(という大馬鹿天子)がいなくても、せいぜい並の天子がいたとしたならば、たとえ王衍が百人いようと千人いようと、何をたねにして天下を乱すことができたであろうか。盧杞の姦物ぶりは、勿論、国を敗亡せしめただけのものは持ってはいた。とはいうものの、学問のない文字の読めない人間で、(王衍に比べるならば)人を動かす程の容貌の持ち主でもなければ、世を眩惑する程の言語の才能の持ち主でもなかった。暗愚な徳宗でなかったならば、どうしてこんな男を用いたであろうか。そういう点から申すならば、山巨源、郭汾陽の両公が、王衍、盧杞の二人に対する憶測は必ずそうであると決まっていた訳のものとは言えないのである。ここに一人の人物がいる。この人は口には孔子の言葉を誦(そら)んじ、身には伯夷や叔斉の清廉潔白な行為をし、名誉の好きな人たちや、思うように志の得られない人たちを呼び集めて、一緒により集まって学説を作り、その学説に自分勝手に書名をつけて、顔淵や孟子の再来であると言っている。ところが実は心中には人をそこなうような気持を持っており、根性がけわしくかつひねくれていて、普通の人とは様子が変わっている。王衍と盧杞とが合わさって一人になったような人物である。その及ぼす禍害はとても口に言えるようなことではすまないであろう。大体、顔が垢で汚れれば洗うことを忘れず、衣服が垢で汚れればすすぎ洗いをすることも忘れないのは、極めて自然な人情である。ところが今やそれがそうではないのである。捕虜になって奴隷にされた者が着るような粗末な衣服を着、犬や豚が食べるような粗末な食物を食べ、囚人のような頭をし、服喪中の人のような顔のままで『詩経』や『書経』について論じている。これがどうしてその人の本当の心であろうか。何事にせよ、人情とかけ離れたことをする者が、大変な悪賢い人間でないことは稀である。豎刁・易牙・開方がこれにあたるのである。(その人物は)世間をおおい尽くす程のすぐれた名声を背負って、表には現れない災患をまとめあげている。平和を願う君主や、賢人を好む宰相がおられながら、なお(その名声に迷わされて)その人物を登用されようとしておられる。そうなればその男が天下の災患を惹き起こすことは必然であって何の疑念もないことはとても王衍や盧杞の二人の比どころではないのである。孫子は「軍隊の用い方の上手な者には、赫々たる功名はないものだ」と言っている。もしもこの人が用いられなかったとしたならば、私の言ったことは失言となり、この人は不遇の嘆きをかこつことであろう。彼によって起こる禍害が先程述べた程ひどいなどということは誰にも分からないであろう。その反対にこの人が用いられたとすれば、天下の人がその禍害を蒙って、私は人の述べた言葉の真意の分かる人間だという評判を得ることとなるであろう。なんと悲しいことではあるまいか。





















桐葉封弟辨(唐)柳宗元 (「唐宋八大家文読本 二」明治書院より)

2022-01-24 16:50:10 | 日記
桐葉封弟辨(唐)柳宗元 (「唐宋八大家文読本 二」明治書院より)

古之傳者有言:成王以桐葉與小弱弟戲,曰:“以封汝。”周公入賀。王曰:“戲也。”周公曰:“天子不可戲。”乃封小弱弟於唐。
吾意不然。王之弟當封邪,周公宜以時言於王,不待其戲而賀以成之也。不當封邪,周公乃成其不中之戲,以地以人與小弱者爲之主,其得爲聖乎?且周公以王之言不可苟焉而已,必從而成之邪?設有不幸,王以桐葉戲婦寺,亦將舉而從之乎?凡王者之德,在行之何若。設未得其當,雖十易之不爲病;要於其當,不可使易也,而況以其戲乎!若戲而必行之,是周公教王遂過也。
吾意周公輔成王,宜以道,從容優樂,要歸之大中而已,必不逢其失而爲之辭。又不當束縛之,馳驟之,使若牛馬然,急則敗矣。且家人父子尚不能以此自克,況號爲君臣者邪!是直小丈夫缺缺者之事,非周公所宜用,故不可信。
或曰:封唐叔,史佚成之。

原文、譯文(全文)(現代中国語訳)

原文、韓国語(한국어)訳(全文)

原文、書き下し文(古之傳者有言。~亦將舉而從之乎?)のあるYahoo!知恵袋

原文、現代日本語訳(古之傳者有言。~亦將舉而從之乎?)のあるYahoo!知恵袋


「唐宋八大家文読本 二」明治書院に書き下し文と現代日本語訳があります。

「唐宋八大家文読本 二」明治書院より

(書き下し文)
桐葉もて弟を封ずるの辯
古の傳ふる者言へる有り。成王桐の葉を以て小弱弟(てい)に與(あた)へ、戲れて曰く、以て汝を封ずと。周公入りて賀す。王曰く、戲なりと。周公曰く、天子は戲る可からずと。乃ち小弱弟を唐に封ずと。吾意ふに然らず。王の弟當に封ずべきか、周公宜しく時を以て王に言ふべく、其の戲れを待ちて、賀して以て之を成さざるなり。當に封ずべからざらんか、周公乃ち其の中(あた)らざる戲を成して、地を以てし人を以てし、小弱の者に與へて之が主と爲さば、其れ聖と爲すを得んや。且つ周公は王の言は苟(いやし)くもす可からざるのみと以(おも)ひて、必ず從って之を成さんか、設(も)し不幸にして王桐の葉を以て婦寺に戲るること有るも、亦將に擧げて之に從はんとするか。凡そ王者の德は、之を行ふことの何若に在り、設し未だ其の當(たう)を得ずんば、十たび之を易ふと雖も病(へい)と爲さず。其の當るに於ては、易へしむ可からざるを要するなり。而るを況や其の戲を以てするをや。若し戲にして必ず之を行はば、是れ周公王に教へて過(あやまち)を遂げしむるなり。吾意ふに周公の成王を輔くること、宜しく道を以て從容(しょうよう)として優樂して、之を大中に歸せんことを要すべきのみ。必ず其の失を逢(むか)へて之が辭(じ)を爲さず。又當に之を束縛し、之を馳驟(ちしう)して、牛馬の若く然らしむべからず。急なれば則ち敗れん。且つ家人の父子すら尚此を以て自ら克つ能はず。況や號して君臣と爲る者をや。是直(これただ)小丈夫の缺缺(けつけつ)たる者の事のみ。周公の宜しく用ふべき所に非ず。故に信ず可からず。或は曰く、唐叔を封ぜしは、史佚(しいつ)之を成すと。

(現代日本語訳)
古代の事を書き伝えた本にいっていることがある。周の成王が桐の葉を幼くまだ弱い弟の叔虞に与えて、たわむれにいった、これをもってお前を諸侯に封ずる、と。王の摂政周公旦はこのことを聞いて宮中に入って祝いの言葉を述べたところ、王はいった、それはたわむれにしたことで、真実のことではない、と。すると周公はいった、天子はたわむれてはならない、と。そこで幼いまだひよわい弟を唐の地に封じた、と。私は思うに、事実はそうではないであろう。王の弟が、当然諸侯に任命しなければならぬとしようか、周公旦は、適当の時にそれを王にいうのがよろしく、王のたわむれを待ってこれを祝賀して、それを成しとげさせはしないであろう。また当然諸侯に封じてならないとしようか、周公はそれなのにその理にあたらぬ戲れを成しとげて、土地や人民をもって、幼い弱い者に与えて、これの主人とするならば、一体周公を聖人とすることができようか。その上周公は王の言葉はよいかげんに取り扱うことはできないと思って、必ずその言の通りにこれをなしとげるとしようか、もし不幸にも王が桐の葉の珪を与えて、それで宮女や宦官などに戲れることがあっても、またすべてこれに従って諸侯に封じようとするであろうか。一般に王たる者の人格は、大切なことはその行為がどうであるかにある。もしそれが適当でなかったならば、十度それを易えても害とはしない。大切なことは、それが正当な場合には易えさせてはならない。それなのに、ましてこのたわむれの事では、なおさらである。もしたわむれであるのにぜひともこれを実行するならば、これは(聖人といわれる)周公旦が王に教えて過ちを成しとげさせるのである。そのようなことはあり得ないはずである。私は思うに、周公が成王を輔佐するには、道理に従ってゆるやかに、ゆとりがあって楽しみながら、王の行為を、大いなる過不及のない道理に従わせることを求めるが宜しいとするだけである。必ずその過失を待ちうけて、そのための弁解をしない。また当然、束縛したり、馳け走らせたり、まるで牛や馬を取り扱うように、成王の自由を奪い強制的に従わせてはならない。もしきびしくすれば失敗するであろう。その上、普通の家庭の人の父子の間でもやはりこれでは自分で堪えられない。まして君と臣と称する間がらでは、なおさらのことである。これはただつまらぬ男のこざかしい者のしわざにすぎず、周公のような聖人の用いるべきことではない。故に私はこの話をほんとうと思えないのである。ある本にはいう、唐叔を封じて、王の戲れを実現させたのは周の史官史佚である、と。













戰國策 齊策四 (「戦国策 上」明治書院より)

2022-01-19 16:38:32 | 日記
戰國策 齊策四

蘇秦謂斉王曰「斉秦立為両帝、王以天下為尊秦乎。且尊斉乎。」王曰「尊秦。」 「釈帝則天下愛斉乎。且愛秦乎。」王曰「愛斉而憎秦。」 「両帝立、約伐趙、孰与伐宋之利也。」王曰「不如伐宋利。」 対曰「夫約然与秦為帝、而天下独尊秦而軽斉、斉釈帝、則天下愛斉而憎秦、伐趙不如伐宋之利。故臣願王明釈帝、以就天下。倍約儐秦、勿使争重。而王以其間挙宋。夫有宋則衛之陽城危、有淮北則楚之東国危、有済西則趙之河東危、有陰平陸則梁門不啓。故釈帝而貳之以伐宋之事、則国重而名尊、燕楚以形服、天下不敢不聴、此湯武之挙也。敬秦以為名、而後使天下憎之、此所謂以卑易尊者也。願王熟慮之也。」

原文のあるサイト

原文、譯文 (現代中国語訳) のあるサイト

書き下し文と現代日本語訳は「戦国策 上」明治書院にあります。

「戦国策 上」明治書院より

(書き下し文)
蘇子、齊王に謂つて曰く、齊・秦、立つて兩帝と爲らば、王、天下を以て秦を尊(たつと)ぶと爲すか、且(は)た齊を尊ぶとするか、と。王曰く、秦を尊ばん、と。帝を釋(す)てば、則ち天下、齊を愛せんか、且た秦を愛せんか、と。王曰く、齊を愛して秦を憎まん、と。兩帝立つて、約して趙(てう)を伐つは、宋を伐つの利に孰與(いづれ)ぞや、と。王曰く、宋を伐つに如か不(ず)、と。對へて曰く、夫れ約して[然]秦と與に帝と爲らば、天下獨り秦を尊んで齊を輕んじ、齊、帝を釋てば、則ち天下齊を愛して秦を憎まん、趙を伐つは宋を伐つの利なるに如かず。故に臣願はくは王の明かに帝を釋てて、以て天下に就き、約に倍(そむ)き秦を儐(しりぞ)け、重きを爭(あらそ)はしむる勿くして、王、其の閒(あひだ)を以て宋を擧げんことを。夫れ宋を有(たも)たば、則ち衛の陽城(やうじやう)危ふく淮北(わいほく)を有たば、則ち楚の東國危ふく、濟西(せいせい)を有たば、則ち趙の河東危ふく、陰・平陸を有たば、則ち梁門啓(ひら)けじ。故に帝を釋てて之に貳(くは)ふるに宋を伐つの事を以てせば、則ち國重くして名尊く、燕・楚は刑を服し、天下、敢て聽かずんばあらじ。此れ湯・武の擧(きよ)なり。秦を敬して以て名と爲し、而る後天下をして之を憎ましむ。此れ所謂(いはゆる)卑を以て尊に易ふる者なり。願はくは王の之を熟慮せられんことと。

(現代日本語訳)
蘇子が、斉(の閔)王に説いて言った、「斉と秦とが立って東・西両帝となられた場合、王さまは、天下の諸侯が秦を尊ぶとお思いになりますか、それとも、斉を尊ぶとお思いになりますか。」王が言った、「秦を尊ぶであろう。」「帝号をお捨てになった場合、天下の諸侯は、斉を愛するでしょうか、それとも、秦を愛するでしょうか。」王が言った、「斉を愛して、秦を憎むであろう。」「東・西両帝がお立ちになって、盟約して趙をお伐ちになるのは、宋をお伐ちになるのと、どちらが有利でしょうか。」王が言うには、「宋を伐つ方が有利だ」と。(蘇子が)答えて言うには、「そもそも、盟約して秦とともに帝におなりになったら、天下の諸侯は、ひとり秦を尊んで、斉を見くびり、斉が帝号をお捨てになったら、天下の諸侯は、斉を愛して秦を憎むでありましょう。(しかも、秦と盟約して)趙をお伐ちになるのは、宋をお伐ちになることの有利なのには及びません。されば臣は、王さまが、はっきりと帝号をお捨てになって、天下の諸侯に付き従われ、盟約に背いて秦を体(てい)よくあしらい、(秦に斉と)覇権を争わないようにしておいて、王さまには、その隙に宋を攻め滅ぼされますよう、お願い申し上げます。さて、宋をお保ちになったら、衛の陽城(衛の邑)は危うく、淮水以北をお保ちになったら、楚の(下)東国は危うく、済水以西をお保ちになったら、趙の(黄)河(以)東は危うく、(斉の)陰・平陸(の両邑)をお保ちになったら、(魏の首都、大)梁の門は開けますまい。されば、帝号をお捨てになって、これに宋を伐つことを増し加えになりますならば、お国は重くなり、お名は尊くなり、燕や楚は成り行きとして屈服し、天下の諸侯は唯一人として仰せに従わないものはありますまい。これこそ、古の殷の湯王・周の武王にもひとしい壮挙でございます。秦を敬って面目を立てておやりになり、そうして置いて、天下の諸侯に秦を憎ませるという段どりは、これが世にいう、『卑しきを以て尊きに易える』ということでございます。なにとぞ、王さまには、この点をよくよくお考え下さいますように」と。













戰國策 韓策三(漢)劉向撰 (韓国語訳から日本語にしてみました)

2022-01-09 11:00:00 | 日記
戰國策 韓策三(漢)劉向撰

秦,大國也。韓,小國也。韓甚疏秦。然而見親秦,計之,非金無以也,故賣美人。美人之賈貴,諸侯不能買,故秦買之三千金。韓因以其金事秦,秦反得其金與韓之美人。韓之美人因言於秦曰「韓甚疏秦。」從是觀之,韓亡美人與金,其疏秦乃始益明。故客有說韓者曰:「不如止淫用,以是為金以事秦,是金必行,而韓之疏秦不明。美人知內行者也,生物善為計者,不見內行。」

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韓国語訳から日本語にしてみました。
(拙訳)
紀元前249年、韓の国の公子、韓陽が三川を征伐していた中、帰国しようとした。足强が韓陽のため、韓桓惠王に言った「三川が制服された事実を大王やはり知っていますか?韓陽の連中たちがそれを君主に立てようとしています」と。韓桓惠王が三川征伐に乗り出した公子たちを皆、戻って来させた。秦の国は強大な国で韓の国は弱小な国であった。韓の国は内心、秦の国を嫌がっているが表面上は近しく親しくしていた。しかし、この計策は財宝、財産を利用しないでは事を成せないのだった。これに韓の国は韓桓の妾を売って財源を用意しようとしたが、美人の値段があまりにも高い美人を買おうとする諸侯がひとりも進み出なかった。すると、いよいよ秦の国が三千金を出して美人を買い上げた。韓の国がその金で秦の国に仕えると、秦の国は金と美人を皆、取ることになった。この時、韓の国から売られて来た美人が秦の国に「韓の国は内心、秦の国を非常に嫌がっている」と言った。これを以て見るに、韓の国は美人と財宝、財産を失ったのは勿論、内心、秦の国を嫌がっている事実が更にはっきり明らかになったわけだ。当時、ひとりの説客が韓の国について語った「贅沢と浪費を減らすことで財源を工面し、秦の国に仕えたならば、財宝、財産は必ず必要な所で適切に使用されることで、韓の国の秦の国についての憚りも不透明になるのです。美人は韓の国の出身だから韓の国の事情をよく知っているのです。したがって、計画をちゃんと立てる者は絶対に内部事情をよく知る者を外へ打ち出さない法です」と。

戰國策 楚卷第五(前漢)劉向 (韓国語訳から日本語にしてみました)

2021-12-15 10:12:00 | 日記
戰國策 楚卷第五(前漢)劉向

史疾為韓使楚,楚王問曰:「客何方所循?」曰:「治列子圉寇之言。」曰:「何貴?」曰:「貴正。」王曰:「正亦可為國乎?」曰:「可。」王曰:「楚國多盜,正可以圉盜乎?」曰:「可。」曰:「以正圉盜,奈何?」頃間有鵲止於屋上者,曰:「請問楚人謂此鳥何?」王曰:「謂之鵲。」曰:「謂之烏,可乎?」曰:「不可。」曰:「今王之國有柱國、令尹、司馬、典令,其任官置吏,必曰廉潔勝任。今盜賊公行,而弗能禁也,此烏不為烏,鵲不為鵲也。」

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韓国語訳から日本語にしてみました。
(拙訳)
史疾が韓の国ために楚の国に使者として来ると楚王が尋ねた「客はどんな法術を研磨したのか?」史疾が答えた列子圉寇の言葉を習いました」楚王が尋ねた「列子は何を主張しますか?」史疾が答えて「正義を強調する」と言いました。楚王が尋ねた「正義が治国にとって助けになるか?」史疾が答えて「助けになります」と言いました。楚王が尋ねた「楚の国には盗賊が多いのだが正義を掲げて盗賊を禁じらるだろうか?」史疾が答えて「可能です」と言いました。楚王が尋ねて「どうすればそのようにできるか?」このときちょうど鵲が屋根にとまると史疾が尋ねて「大王に請うて聞きますれば、楚の国の人々はこの鳥を何と呼びますか」と言いました。すると楚王が答えて「鵲と言う」と言いました。史疾が尋ねて「カラスと呼んだらダメですか?」と言うと、楚王が答えて「いけません」と言いました。すると史疾が言った「今、大王の国には柱國、令尹、司馬、典令などの官職があります。官員を置くとき必ず清廉潔白な姿勢で職務を忠実に遂行するよう要請します。それでも今、盗賊の横暴を防げていません。これは、烏不爲烏(カラスをカラスと呼ばない)で鵲不爲鵲(鵲を鵲と呼ばない)ところから始まったのです」と言いました。