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題張氏隱居二首之二(唐)杜甫 (現代日本語訳を考えてみました)

2021-09-28 09:31:13 | 日記
題張氏隱居二首之二(唐)杜甫

之子時相見,邀人晚興留。
霽潭鱣發發,春草鹿呦呦。
杜酒偏勞勸,張梨不外求。
前村山路險,歸醉每無愁。

現代日本語訳を考えてみました。

(拙訳)
張先生、あなたと互いに会うたびに、人を迎えて興に乗せ、留めて遅くなるようにするんだね。
霧が晴れた池で鯉がぴょんぴょん跳ねて、春の草野で鹿がううと鳴く。
私のところの杜康の酒を強く勧めれば、張先生のところの梨を別に求めることはないね。
前の村の山道は険しいけど、酔って帰るたび毎、憂いはない。

「詠古二首有所寄」 劉禹錫 (独力での鑑賞に挑戦しました)

2021-09-26 14:01:12 | 日記
「詠古二首有所寄」 劉禹錫
ㄩㄥˇ ㄍㄨˇ ㄦˋ ㄕㄡˇ ㄧㄡˋ ㄙㄨㄛˇ ㄐㄧˋ

車音想轔轔,不見綦下塵。可憐平陽第,歌舞嬌青春。
金屋容色在,文園詞賦新。一朝復得幸,應知失意人。
寂寥照鏡臺,遺基古南陽。真人昔來遊,翠鳳相隨翔。
目成在桑野,志遂貯椒房。豈無三千女,初心不可忘。

原文(繁體字)のあるサイト

(参考) 中国語のサイト

(参考) 日本語のサイト

(語句)
轔轔 車の響く音、きしんだ音をたてたり、地面を轟かしたりするさま
綦(=基) あやぎぬ、萌葱色の絹布、履き物の紐や飾り、
平陽 ①尭帝の住んだ都②春秋時代の魯の国にあった
第 やしき、邸宅
嬌 なまめかしい婦人、むすめ
青春 年の若いこと
金屋 立派な建物、黄金葺きの家
容色 みめかたち、器量
文園 文林、文壇
詞賦 詞と賦、古い韻文の一形式
南陽 河南省南陽県
真人 中国の道家において理想とされる道を体得した人
翠鳳 翠はカワセミの雌、鳳はオオトリ
相 たがいに、ともどもに
隨 付き従って
翔 高く飛ぶ
目成 目配せして意を通ずる
桑野 桑畑や田野
椒房 皇后の住む御殿、椒庭、貴婦人の室、後宮
豈に どうして~だろうか、いやしない
三千 非常に数の多い

(書き下し文に挑みましたが滅茶苦茶😱)
車音、轔轔にして想ふ、綦の下に塵をまみえず。
憐れむべし、平陽の第、歌い舞う嬌の春は青し。
金屋に容色在り、文園に詞賦を新たにす。
一朝にして復た幸を得るも、まさに失意の人と知るべし。
寂寥、鏡臺を照らす,基を遺す古への南陽。
真人、昔來遊す、翠鳳、相隨翔す。
桑野に在りて目成す、椒房に貯え志遂す。
豈に三千の女無からん、初心忘るるべからず。

(現代語訳に挑みましたが滅茶苦茶😱)
車の音が響いて思う、基の下に塵は見えない。
可哀想な平陽の邸、歌い踊るむすめは年若い。
黄金葺きの家に器量よしがいて、文壇では詞賦が新しい。
僅かな間にまた幸せを得たとしても、当てが外れてガッカリする人であるのを知るべきだ。
寂寥が鏡台を照らし、基を遺す昔の南陽。
道を体得した人が昔、遊びに来て、翠鳳が相伴って飛翔した。
桑畑や田野で目配せして意を通じさせ、貴婦人の御殿に住まわせて志を遂げる。
どうして三千の女がいなかったであろうか、いやいたのだ、初心を忘れてはいけない。

常潤道中有懷錢塘寄述 ( 蘇東坡  )  宋詩 鈔(清)吳之振   (韓国語訳から日本語にしました)

2021-09-26 13:50:47 | 日記

常潤道中有懷錢塘寄述( 蘇東坡 )

宋詩 鈔(清)吳之振

草長江南鶯亂飛 年來事事與心違
花開後院還空落 燕入華堂怪未歸
世上功名何日是 樽前點檢幾人非
去年柳絮飛時節 記得金籠放雪衣
( 蘇東坡 )

宋詩 鈔(清)吳之振

原文のあるサイト

韓国語のブログ
상윤도중유회전당기술고常潤道中有懷錢塘寄述古

韓国語のブログを参考に、意味を考えてみました。

草長江南鶯亂飛
江南に草が生い茂り、鶯がごちゃごちゃに飛ぶが

年來事事與心違
毎年、事々は私の気持ちと行き違うんだよ

花開後院還空落
花は開いた後、庭でまた寂しく散るけど

燕入華堂怪未歸
燕は華堂に入って来て、戻って行かないのが変だね

世上功名何日是
世間の富貴功名はいつの日にやって来るのか

樽前點檢幾人非
酒樽の前で推し量ってみる、幾人が過ちを犯したのだろうか

去年柳絮飛時節
去年、垂れ柳が綿を飛ばす時を考えてみると

記得金籠放雪衣
金色の鳥籠から白鳩を飛ばしてあげたのを思い出すなあ

潛研堂文集  鏡喩(清)錢大昕  (現代中国語訳から日本語にしました)

2021-09-26 10:49:05 | 日記
潛研堂文集 鏡喩(清)錢大昕

五官莫明於目面有此子而目不知烏在其為明也目龐混物而不能見吾之面假於鏡而溫焉鏡之賁不如甘鏡不求於目而目轉求助於鏡然世未嘗以鏡之助目而咎目之失明鏡何負於目哉常有任目而惡鏡者日是好苦我吾自有目烏用鏡為久之視世所稱美人鮮富意者而不知己面之奏予泰然謂美莫已若左右匿笑客終不悟悲夫

原文のあるサイト
潛研堂文集 : 五 - Chinese Text Project

現代中国語訳のあるサイトより
https://rueylin0119.pixnet.net/blog/post/326087712-%E2%96%B3%E6%97%81%E4%BA%BA%E6%84%8F%E8%A6%8B%E4%B9%8B%E5%BF%85%E8%A6%81----%E9%8C%A2%E5%A4%A7%E6%98%95%EF%BC%9A%E9%8F%A1%E5%96%BB%28%E7%BF%BB%E8%AD%AF%29

現代中国語訳を参考にして、私なりに意味を考えてみました。

(拙訳)
五官の中で目ほど真相を見抜くものはなかった。しかし、顔の上にあるほくろは、目には却って見えないが、その実情を見抜くのはどこにあるのか?目は別の物が見えるが、自分の顔は見えなくて、鏡の助けを借りてはじめて見える。鏡の貴重さは目に及ばなくて、鏡は目の助けを必要としないが、目は鏡の助けを借りないといけない。しかし、世間の人は鏡で以て目を助けないで、反対に目が真相を見抜けるのを咎める。実際には鏡のどこが目に及ばないのか?目を信じて鏡を嫌悪する人が言った。「鏡は私をたいへん苦しめる。私自身に目があるのに、どこに鏡を用いる必要があろうか?」長いときが経ち、世間の人たちが称賛するところの美人に完璧なのは極めて稀で、自分の顔の上にほくろがあることを知らないで、なおさら泰然自若として「私より美しいのはいない」と言う。周囲の人は皆、忍び笑いするが、本人はいつまでもわからない、誠に哀れだ!

墨池記(宋代)曾鞏 (韓国語訳などから日本語にしました)

2021-09-25 10:41:50 | 日記
墨池記(宋代)曾鞏

臨川之城東,有地隱然而高,以臨於溪,曰新城。新城之上,有池窪然而方以長,曰王羲之之墨池者,荀伯子《臨川記》雲也。羲之嘗慕張芝,臨池學書,池水盡黑,此爲其故跡,豈信然邪?
方羲之之不可強以仕,而嘗極東方,出滄海,以娛其意于山水之間;豈其徜徉肆恣,而又嘗自休於此邪?羲之之書晚乃善,則其所能,蓋亦以精力自致者,非天成也。然後世未有能及者,豈其學不如彼邪?則學固豈可以少哉,況欲深造道德者邪?
墨池之上,今爲州學舍。教授王君盛恐其不章也,書‘晉王右軍墨池’之六字於楹間以揭之。又告於鞏曰:“願有記”。推王君之心,豈愛人之善,雖一能不以廢,而因以及乎其跡邪?其亦欲推其事以勉其學者邪?夫人之有一能而使後人尚之如此,況仁人莊士之遺風餘思被於來世者何如哉!
慶曆八年九月十二日,曾鞏記。


原文、译文(現代中国語訳)のある簡体字のサイト

原文、譯文(現代中国語訳)のある繁體字のサイト
https://fanti.dugushici.com/ancient_proses/47521

原文、韓国語訳のある韓国語Blog

ずっと韓国語訳から日本語にしていたところ、韓国語訳に酷い箇所が出てきました。

そのときになって初めてYahoo!知恵袋に日本語訳が見つかりました。(ガックシ⤵️⤵️)
途中までの現代日本語訳がYahoo!智恵袋にあったんですね。

後半1/3は中国語のpdf資料も参照しました。
なお、中段の一部分の訳は加地先生訳を使っています。

(拙訳)
臨川の城の東に高く聳え立つ土地がある。下では小川に面しているのだが、新城と呼ぶ。新城の上にはボコッと窪んだ長方形の池がある。ここが王羲之の墨池というのは荀伯子が臨川記で述べたところだ。王羲之は嘗て張芝を慕うあまり、池べりに臨んで書芸を学んだのだが、池の水が全て黒くなった。ここがその遺跡だというのだけれど、どうして信じられようか?王羲之は官職の道を登るのを固辞して、東の地方をあまねく遊覧し、青い海へ出て行き、山水の自然で楽しみを探したことがあった。もしかしたら、勝手気儘にさまよっていて、ここで休息したのではなかろうか。王羲之の筆跡は晩年になってはじめて見事なものになった。とすると、王羲之の名筆というのも、おそらく努力に努力を重ねて自力でもたらしたものであって、生まれつきの力によるものではない。ところが、 王羲之以後、彼に及ぶものはまだ出ていない。後世の人たちの学習が、王羲之に及ばないためだろうなあ。まだ全く学習が固より、少ないのではないだろうか!まして深く書道を探求し、德を求めた点でも並の人が及ぶものだろうか?墨池の上には今、撫州の学舎がある。この学舎の教授、王君は、墨池の来歴がくっ付くか、とても心配になり、晉王右軍墨池と六文字を書いて、柱の間に掛けた。そうして、さらに喜び、しっかりと「私には記文が必要です」と言った。私は王君の気持ちを推し量ってみた。おそらく、他人の長所を好むから、よしんば一枝の長所であっても、それを埋没させようとしない。それだからこそ、王羲之の遺跡と1つにまとめて重視するのではないだろうか。あるいは、また推し量って考えるに、王羲之の臨池苦学の事跡を通して学ぶ者を鼓舞しようとしたのではないだろうか。そもそも人に一枝の才能があって、後世の人たちに、このような境地に達したと崇められる。ましてや、仁の人や君子が遺した気高さと美徳が後世に影響を及ぼすのは、どんなに深遠なことか。
慶曆八年九月十二日曾鞏記す


なお、正しい現代日本語訳は「漢・魏・六朝・唐・宋散文選」平凡社にあります。