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賣酒者傳 魏禧 筆 (現代中国語訳を参照して日本語にしました)

2021-08-24 15:55:57 | 日記

虞初新志 卷三(清)張潮 編著
賣酒者傳 魏禧 筆

魏禧

萬安縣有賣酒者,以善釀致富。平生不欺人。或遣童婢沽,必問:“汝能飲酒否?”量酌之,曰:“毋盜瓶中酒,受主翁笞也。”或傾跌破瓶缶,輒家取瓶,更注酒,使持以歸。由是遠近稱長者。

里有事醵飲者,必會其肆。里中有數聚飲,平事不得決者,相對咨嗟,多墨色。賣酒者問曰:“諸君何為數聚飲,平事不得決,相咨嗟也?”聚飲者曰:“吾儕保甲貸乙金,甲逾期不肯償,將訟,訟則破家,事連吾儕,數姓人不得休矣!”賣酒者曰:“幾何數?”曰:“子母四百金。”賣酒者曰:“何憂為?”立出四百金償之,不責券。

客有橐重資於途,甚雪,不能行。聞賣酒者長者,趨寄宿。雪連日,賣酒者日呼客同博,以贏錢買酒肉相飲噉。客多負,私怏怏曰:“賣酒者乃不長者耶?然吾已負,且大飲啖,酬吾金也。”雪霽,客償博所負行。賣酒者笑曰:“主人乃取客錢買酒肉耶?天寒甚,不名博,客將不肯大飲啖。”盡取所償負還之。

術者談五行,決賣酒者宜死。賣酒者將及期,置酒,召所買田舍主畢至,曰:“吾往買若田宅,若中心愿之乎?價毋虧乎?”欲贖者視券,價不足者,追償以金。又召諸子貸者曰:“汝貸金若干,子母若干矣。”能償者捐其息,貧者立券還之,曰:“毋使我子孫患苦汝也!”及期,賣酒者大會戚友,沐棺更衣待死。賣酒者顏色陽陽如平時,戚友相候視,至夜分,乃散去。其後,賣酒者活更七年。

魏子曰:吾聞賣酒者好博,無事則與其三子終日博,喧爭無家人禮。或問之,曰:“兒輩嬉,否則博他人家,敗吾產矣。”嗟乎!賣酒者匪唯長者,抑亦智士哉!

選自(《魏叔子文集》,有刪節)

原文、譯文 (現代中国語訳)

https://www.easyatm.com.tw/wiki/%E8%B3%A3%E9%85%92%E8%80%85%E5%82%B3

賣酒者傳:古典典故,選自魏禧所著《魏叔子文集》。基本信息名 -百科知識中文網

https://twgreatdaily.com/x1TIrW0BMH2_cNUgYIN0.html

因技藝精湛而傳世之千古散文名篇《賣酒者傳》

現代中国語訳(百科知識中文網)を参照して、日本語にしてみました。
(拙訳)
江西省吉安市萬安県にひとりの酒売りがいた。酒造りに長けていたため金持ちになった。生涯、他人を侮らなかった。もし(主人に)酒を買いに来さされた下僕、下女に出会ったら、必ず「あなたは酒が飲めるか」と尋ねた。相手の酒の量で飲む酒を注いでやり、そして言い聞かせた。「絶対に瓶の中の酒を盗んで飲んではいけない。さもないと主人の鞭打ちを受けねばならない」と。ある時、下僕(下女)が道を歩いていてバランスを崩し、つまずいてひっくり返って転び、酒を詰める入れ物を壊したところに出くわした。いつも自分の家から持ち出す瓶に、いい酒を新しく詰め替えて、下僕(下女)に持ち帰らせた。こんなわけで、至る所の人は皆、酒売りは道義に叶った振る舞いの人だと称賛した。
郷里で、ある人が金を集めて酒を飲むたびに、必ず酒売りの酒屋に集まり会合をした。郷里のある人は何度も集まり一緒に酒を飲むが、衆議で決める事柄を決められなかった。互いに嘆息した。ほとんどの顔は難色を示した。酒売りが尋ねた。「皆さん、どうして何度も集まって一緒に酒を飲んでいて、衆議で決める事柄を決められないで、互いに嘆息するのですか?」集まって一緒に酒を飲んでいた人が言った。「私たちは甲某のために乙某に金を借りる担保を提供した。甲某は期限が過ぎても金を返そうとしない。まもなく起訴される。もし起訴されれば破産して、私たちまでも巻き添えになるだろう。私たちの幾つかの家の人は充分に休息できなかった。」酒売りは尋ねた。「あなたたちは、いくらの金を担保したのですか?」集まって一緒に酒を飲んでいた人が答えた。「元金と利息、合わせて四百両。」酒売りが言った。「これは何か心配するに値するものがあるのですか?」すぐに四百両を取り出して、彼らがローンを返済するのを助けた。またさらに、借用証書を取ることを求めなかった。
とある、とても多くの物を袋に入れて背中に背負い、路を歩いて行く人が大雪に遇い、前に行けなくなった。酒売りは道義に叶った振る舞いの人だと聞き、大急ぎで酒売りの店に行き、宿を取った。雪が続けざまに幾日も降り、酒売りは毎日、客を呼んで博打に同席した。そして、買った金を出して酒を買い、一緒に食べて飲んだ。客は大半、博打に負けた。内々、不機嫌に言った。「酒売りは帰するところ、道義に叶った振る舞いの人ではないのだろうか?そうなのだが、私は已に博打に負けて、さらにたくさん飲み食いして私の勝った金から払った。」雪が止んだ後、客は博打で負けた金を支払って出発の準備をした。酒売りは笑って言った。「天候は甚だしく寒いのに、博戯の名でなければ、客は(あなたは)きっとたくさん飲み食いしないだろう。」酒売りは、客に勝った金を全て客に返してあげた。
ある占い師が五行を説いた。まもなく酒売りは死ぬだろうと判定した。占い師が判定した死期がまもなくになった時、酒売りは買い入れた田畑、家屋の主人を一同に呼び寄せて言った。「もし私があなたたちの田畑、家屋を買いに行くなら、あなたたちは心中、願うか?価格に不利がないことを?買い戻したい人は当初の価格に基づいて、価格が不公平な人には、現金を出して追加で補った。また、酒売りに金を借りている人を一同に呼び寄せて言った。「あなたたちが借りた資金は若干だ。元金と利息は若干だ。」返せる人は利息を払わなくていい。貧しい人なら、すぐに借用証書を貧しい人たちに返した。(貧しい人たちは返済しなくてよい。)さらに言った。「私の子孫に借金の取り立てをさせて、あなたたちに苦しい思いをさせなくてよい。」占い師が判定した死期が来た。酒売りは多くの親戚、友人たちを集め、棺桶の支度をし、更に服装を換えて死ぬのを待った。酒売りの顔色は普段と同じで明るく輝いており、親戚、友人たちは互いに顔を見合せた。深夜まで待って解散した。その後、酒売りは更にもう七年生きた。
魏先生が言った。「私は聞いた。酒売りは博打が好きで、仕事がないとき、自分の子供たちと一日中、博打をして、言い争いが起きると、家の人の間の礼節がない。ある人が酒売りに尋ねると、酒売りは『子供たちは上手く遊び戯れる。子供たちが他人と博打をして私の家の財産を損なったというようなのではない。』と言った。ああ、酒売りは、ただ道義に叶った振る舞いの人であるだけでなく、更にまた、智惠のある人なのである!」


說苑 正諫篇(漢)劉向 良藥苦於口,利於病;忠言逆於耳,利於行。

2021-08-22 10:07:58 | 日記

說苑 正諫篇(漢)劉向 選

良藥苦於口,利於病;忠言逆於耳,利於行。

原文のあるサイトより

孔子曰:「良藥苦於口,利於病;忠言逆於耳,利於行。故武王諤諤而昌,紂嘿嘿而亡,君無諤諤之臣,父無諤諤之子,兄無諤諤之弟,夫無諤諤之婦,士無諤諤之友;其亡可立而待。故曰君失之,臣得之;父失之,子得之;兄失之,弟得之;夫失之,婦得之;士失之,友得之。故無亡國破家,悖父亂子,放兄棄弟,狂夫淫婦,絕交敗友。」

原文と韓国語訳のある資料

설원2

Google Books

資料の韓国語訳から日本語にしてみました。
(拙訳)
孔子が言った。「良薬は口に苦いが病気に効き、忠言は耳に障るが行いに有益だ。だから周の武王は人々に直言をさせて繁栄し、殷の紂王は人々に口を閉ざさせて滅びた。君主に直言する臣下がなく、父に直言する子がなく、兄に直言する弟がなく、夫に直言する夫人がなく、士人に直言する友がなければ、彼らの敗亡するのは、立ち止まって待つことができるほど速い。だから『君主が誤ると臣下がそれを正し、父が誤ると子がそれを正し、兄が誤るとそれを弟が正し、夫が誤るとそれを夫人が正し、士人が誤るとそれを友が正す』ということだ。それで、亡び、破滅した国家がなく、歪んだ父と反逆した子がなく、我が儘な兄と捨てた弟がなく、狂乱した夫と淫蕩な夫人がなく、絶交した友と傷ついた朋友がないのだ。」と。


古硯說(明)許獬 (現代中国語訳から日本語にしてみました)

2021-08-20 06:45:51 | 日記
  1. 古硯說(明)許獬 

原文、译文 (現代中国語訳)

http://wap.5156edu.com/wyw/html/z6952m5090j6068.html

 

原文、譯文 (現代中国語訳)

https://www.itsfun.com.tw/%E5%8F%A4%E7%A1%AF%E8%AA%AA/wiki-2588986

 

翻譯 (現代中国語訳)
我家有方古硯,是過去因友人的贈送所得到的,接受了後就一直放在那裡,當作一方(普通)的硯台使用著,不知道它是一方(珍貴)的古硯。不久有能辨識古物的人告訴我:“這是五代、宋時的古董,年代很久了,應該小心的把它當作珍寶一樣收藏著,不要讓它受損和毀壞了。”我聽到了這樣的勸告後,也就依從了他的話把(這方硯)當作了寶貝。但沒時間來辨識它是否真的是五代、宋代時的物件。

雖然這樣,這器物如果真的是五代、宋時的東西,當初的人也只僅僅把它當作一個硯台來使用罷了,哪裡知道一定不能毀壞、還一定要把它傳到現在而成為一件古物呢?傳到現在,然後才知道它是五代、宋時(的寶物),不知道它在五代、宋時,那些把周、秦、漢、魏以上時期的器物當作珍寶的人,對這塊(五代、宋時的)硯台又如何(看待)呢?但又不知道那些把周、秦、漢、魏以上時期的器物,拿來給周、秦、漢、魏以上時期的人看,那時期的人看這些器物有怎樣呢?

人們看到世上那些和和樂樂的人,沉醉於奢華艷麗的享樂中,在權貴和地位顯赫的人的門前來回奔跑,卑躬屈膝的樣子,遭受羞辱卻不知道羞恥。這時,有一個人站出來改變這種風氣,高高直立守道自重,憑淡泊的心態守住自己的操守,拿古代先人琴書圖畫、器物愛好來娛樂自己,並且美其名叫“好古”。所以大凡能名之曰 “好古”的人,一定不是平庸世俗的人。因為那不是平庸世俗的人所喜歡的,那么那些平庸世俗的人也就追隨並模仿著他們。於是讀書人中那些追求財利求得上進的人,一定想竭盡辦法拿出權貴們沒有的東西,來巴結侍奉那些權貴要人;權貴要人也時時拿出自己的器物的在讀書人中誇耀。可是那些羨慕“好古”卻不知追求什么的讀書人,也每每與世人競爭角逐,一定要仿效他們所擁有的器物而後快。

唉!這不是真能愛好古物,只不過與平庸世俗的人趣味相同罷了。既然與平庸世俗的人愛好相同,可是還要吵嚷著要擁有好古的名聲,來顯示與那些平庸世俗的人不一樣。不知道他們的名聲是這樣,而他們真實想法卻不是這樣的。

我所說的好古的人,想學習(先人或前輩)的道義,寫他們那樣的文章,思念他們的人卻不能相見,上下徘徊,期望只能得到他們的遺墨、遺物中存留下來的東西來玩賞,就好像恍然見到他們真人一樣,因此喜好它們而從不滿足。所以古代的那些“好古”的人,不是因為他們留下的器物,而是他們的為人。

我看當今世人所愛好的,大都像這樣。不能詳盡闡述,只能表述相近似的,就寫了一篇《古硯說》。


現代中国語訳から日本語にしてみました。

結局のところ、自分でも意味がよくわかりません🤣
(拙訳)
私の家に古い硯があり、過去、友人のを贈ってもらったのだが、受け取った後、ずっとそこらにほったらかしで、普通の硯だと思って使用していて、それが貴重な硯だとは知らなかった。まもなく、古い物を鑑定できる人がいて、私に知らせた。「これは五代、宋の時代の骨董で、年代がとても古く、それを貴重な物と同様にみなして、気を付けて収蔵すべきです。取り落として壊してはいけません。」私はこのような勧告を聴いた後、まあ、その人がこの硯を貴重な物とみなした話に素直に従った。しかし、それが五代、宋代の時の物であるのが本当か否か特定する時間がない。このようであるが、この道具がもし本当に五代、宋の時代の物なら、昔の人もただ単にそれを一個の硯とみなして使用していたにすぎない。絶対に壊してはいけないこと、また必ずそれが現在まで伝わって一件の骨董品になることを、どうして知るだろうか。現在まで伝わり、それが五代、宋の時代の宝物とわかる。それが五代、宋の時代に、周、秦、漢、魏以上の時期の道具を貴重な物とみなす、それらの人たちは、この五代、宋の時代の硯に対して、またどのように取り扱うのだろうか?しかしまたさらに、周、秦、漢、魏以上の道具を周、秦、漢、魏以上の人に持って来て見せるそれらの人たち、その時期の人たちは、これらの道具を見て、どのように扱うのか、わからない。人々は世の中で、和らぎ楽しむ人が、ゴージャスな楽しみの中に酔いしれて、権力と地位の目立つ人の門前で行ったり来たりし、腰を低くしてペコペコする様子で、屈辱を受けても屈辱と思わないのを見かける。
この時、ある人が身を起こして、このような風潮を改めて変える。高く真っ直ぐに立ち、道を守り、自らの言動を慎み、淡白な心の持ち方で自分の信念をしっかりと守る。古代先人の琴、書、図画、道具を持って愛好して自分で楽しむ。そのうえ、美しい名前まで付けて「古きよき」と呼ぶ。およそ「古きよき」と呼ぶことのできる人は、凡庸で平凡な世俗的な人ではないにちがいない。それは凡庸で平凡な世俗的な人が好む所のものでなく、そのようにそれらの凡庸で平凡な世俗的な人も彼らに追随し模倣しないからである。というわけで、読書人の中の、それら財物の利益を追及して求める進歩的な人は必ず、権威ある人たちが持っていない品物を持ち出す可能な限りの手立てを尽くそうと考える。それら権威のある要人に取り入って世話をしに行き、権威のある要人も時々自分の道具を持ち出して読書人の間で見せびらかすのだ。しかし、それらの「古きよき」を羨ましく思うのに何も追い求めない読書人も頻繁に世間の人と互いに競り合って競争し、必ずその後すぐ、世間の人が所有する道具を見倣う。
これは本当に古い物を愛好できているのではない。ただ、平凡で凡庸な世俗的な人の趣味と同じなのに過ぎない。平凡で凡庸な世俗的な人と好みが同じなのだから、やはりまた、古きよき名声を擁するべきだと大声でわめき立て、平凡で凡庸な世俗的な人と同様ではないと顕示するようになるだろう。彼らの名声がこのようであるのに、彼らの真実の考えがこのようでないのかは、わからない。
私が言うところの古きを好しとする人は(先人或いは前輩の)道義を学習したくて、彼らのそのような文章を書き、彼らを恋しく思う人は、かえって相まみえることができない。上へ下へと行ったり来たりし、ただ彼らの遺した墨、遺した物の中に存留してきた品物を鑑賞するだけで、あたかも彼らが実在する人のように会えることに望みをかける。それだからこそ、それらを好み付き従って、満足しない。それ故、古代のそれら「古きよき」人は、彼らが留めてきた道具によってではなく、彼らの人格によってである。
私は今の世の中の人が愛好するところのものは、ほとんどがこのようであると見なして考える。詳細を尽くして論述できず、ただ近似的に述べ、一篇《古硯說》を書いた。


諸諸

2021-08-17 12:02:14 | 日記

仏教の三法印

諸法無常(物事は変わり続ける)

諸法無我(物事に実体はない)

涅槃寂静(ミルヴァーダ)

 

諸諸についての最近の私の大発見

古い書籍は偉大だということ

 

清代學術概論(民國)梁啟超の中の文章

「學問固不當求諸瞑想,亦不當求諸書冊,惟當於日常行事中求之」

(書き下し文)
学問は固よりまさにこれを瞑想に求むべからず、またまさにこれを書冊に求むべからず、ただまさに日常に事を行う中に之を求むべし。