夢溪筆談 卷十七 書畫(宋)沈括
畫牛、虎皆畫毛,惟馬不畫。余嘗以問畫工,工言:「馬毛細,不可畫。」餘難之曰:「鼠毛更細,何故卻畫?」工不能對。大凡畫馬,其大不過盈尺,此乃以大為小,所以毛細而不可畫;鼠乃如其大,自當畫毛。然牛、虎亦是以大為小,理亦不應見毛,但牛、虎深毛,馬淺毛,理須有別。故名輩為小牛、小虎,雖畫毛,但略拂拭而已。若務詳密,翻成冗長;約略拂拭,自有神觀,迥然生動,難可與俗人論也。若畫馬如牛、虎之大者,理當畫毛,蓋見小馬無毛,遂亦不,此庸人襲跡,非可與論理也。
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譯文(現代中国語訳)
現代中国語訳から日本語にしてみました。
(拙訳)
人々は牛と虎を描くのに皆、毛を描く。馬を描くときだけ毛を描かない。私はかつて絵かきに、この一つの問題について尋ねた。絵かきは言った「馬の毛は細いから描かない」私は難癖をつけて言った「鼠の毛はもっと細いのに、逆に何故描くの?」絵かきは答えられなかった。普通、馬を描くとき、大きさは一尺にすぎない。本物の馬に比べてずっと小さい。もし比例に従って縮小すれば、毛は細くて描けない。鼠を描くときは実物の大きさとほぼ同じで、当然、毛を描くべきである。しかし、牛と虎も大きいのは小さくなるように描くので、理屈から言っても毛を描くべきではない。しかし、牛、虎の毛は深く、馬の毛は浅い。理屈から言うと区別すべきだ。名画家は小さな牛、小さな虎を描くのだから、毛を描くけれども大まかに数筆だけ塗るにすぎない。もしも細密周到に描かないといけないなら、かえって乱れてまとまりがなく、煩わしいように見える。簡単に数筆で塗ると、かえって精神がふきこまれ、よりいっそう生き生きとする。しかしながら、この理屈は絵の理がわからないような人と論じに行くのはとても難しい。もし馬を描くのと同様に、大きな牛、大きな虎を描くなら、当然、毛を描かないといけない。大概、小さな馬は毛がないように見えるから、毛を描かない。これは、凡庸な人が、古い足跡を踏襲して名画家たちと理を論ずることができないのだ。
(日本語にしてみましたが、自分でもまだ意味不明です)