「潛書」上『勸學篇』(清)唐甄
翰林顏學山(光斅)試士浙江、唐士爲之客。顔公語坐人曰、“人之生、皆不自足者也。庶人有庶人之憂、士有士之憂、公卿有公卿之憂、天子有天子之憂、此 謂天之勞我以生也。“唐子 曰、“有一事可以無憂、人不知求之耳、學聖人之道是也。不求足於世、孰有與之以不足者。本無不足於己、孰有處於不足者。坦坦然、蕩蕩然、遊於天地之閒、如在唐虞之世、其有憂乎、其無憂乎。“顏公改容曰、“子之言誠是也。”
原文のあるサイト
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自分なりに書き下し文を考えてみました。
(書き下し文)
翰林學山(光斅)試士浙江、唐士これの客に為る。顔公坐する人に語りて曰(いわく)、“人の生、皆自ずと足らざる者なり。庶人に庶人の憂い有り、士に士の憂い有り、公卿に公卿の憂い有り、天子に天子の憂い有り、これおもへらく天の生を以て我を勞(ねぎら)うなり。“唐子 曰(いわく)、“一事有るを以て憂い無かるべし、人之を求めるを知らざるのみ、聖人を學ぶの道これなり。世に足るを求めず、孰(たれ)か之以て足らざる者あり。本(もと)己に足らざるなし、孰(たれ)か足らざるに處(お)る者あり。坦坦然、蕩蕩然として、天地之閒(間)に遊び、唐虞の世に在るが如し、其(それ)憂い有るか、其(それ)憂い無しか。“顏公容(かたち)を改めて曰(いわく)、“子の言誠(まこと)に是(ぜ)なり。”
現代日本語訳を考えてみました。
(拙訳)
翰林學山(光斅)試士浙江、唐士がこの人の客になった。顔公が坐っている人に語って言った、“人の暮らしは皆自ずと足らないものである。庶民には庶民の憂いがあって、下級の役人には下級の役人の憂いがあって、高位高官の人には高位高官の人の憂いがあって、天子には天子の憂いがある。これは考えるに、天が私の生きる苦労を慰めてくれるのであろうか。“唐子が言った、“一事があれば憂いは無いであろう。人が之を求めるのを知らないだけで、聖人について學ぶ道はこれである。世間に足るを求めなければ、だれかこれで足らない者がいるだろうか。本来、己に足らないものはない、だれか足らない所にとどまる者がいるだろうか。安らかで、ゆったりと心が落ち着いて、天地の閒(間)に遊び、唐虞(太古の聖人といわれた二帝。唐は尭帝、虞は舜帝)の世にいるようで、それで憂いは有るのか、それで憂いは無いのか(無い)。“顏公は顔つきを改めて言った“あなたの言うことは本当に正しいです。”
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