カップ爺さんというのは、僕が名付けた。
仕事などがない土日の朝は、近所のベンチャシリ公園まで1時間ほどのウォーキングに出かけているのだが、その道中の外壁にカップ爺さんはよく腰掛けている。
小柄で、顔も小さい。
短く刈り込んだ白髪で、自分のかぶって来たスポーツキャップ(いつもロゴは隠れていて見えない)を裏返して、座っている自分の膝の上に抱える。
要は、物乞いなのだ。
しかし、どこかこざっぱり感があり、あまり不潔な印象はない。
僕はカップ爺さんにどこか好感を感じ、それ以来、見なければ必ず財布にあるだけの小銭をたっぷり帽子に入れてやる。
何故カップ爺さんと呼んでいるかというと、小銭を渡すたびに毎回「カーップ」と大きめの声で叫ぶからだ。
それ程大きな声ではないが、この華奢な爺さんが少し頑張っているような印象を受ける。
カーップ、というのは、タイ語で「ありがとう」の「コップンカップ」の最後だけが強調されてそのように聴こえるものだ。
僕は、このカップ爺さんが可愛そうだからもうここ一年ほど毎回お金をあげている訳ではない。
ただ何となく、この爺さんが好きなのだ。
自分の祖父や父に面影が似ている、というのでも全くない。
カップ爺さんに同情している、というのともちょっと違う。
ただ、ちょっと可愛らしいのだ。
僕はただその爺さんがこれからもそこに居続けられるように支援するスポンサーの1人だ。
タイでは、
特にここ、僕の住む首都バンコクでは、よく路上生活者や物乞いを見かける。
手足のどこかがない人、不自然なほど猛烈に痩せてるガリガリの中年男性、赤ん坊を抱いて座り込む女性、歌を歌っている太った中年男性、めちゃくちゃ不潔そうな見た目(職業上?わざとなのかどうか分からない)の比較的若い男性、年端もない子供が一人でプラスチックのコップを抱えてうずくまっているのもいる。
近くを通り過ぎるタイの人たちの彼らに対する行動はどうかというと、同情してお金を渡す人もいれば、全く気にかけない人もいる。
存在には明らかに気付いている。
彼らは大抵人の多く集まる駅前や、屋台通りの近くに紛れてたりするからだ。
子供は流石に同情を誘う。そんな、幼稚園を卒業したばかりのような子供は、そんなところにうずくまっているのではなく、学校に行って友達を作ったり、野原で走り回ったり、または喫茶店や公園などでママ友と話し込む母親の隣でNintendo Switchの画面を必死で睨みつけていて欲しい。
ここで僕が何を言いたいのかというと、他人のことは、結局分からないということだ。
このカップ爺さんが、一体いくらの収入を稼いでるのか、それが十分食べていけるだけのものなのか、全く分からない。
いかにもその年で一人もの、身寄りもないように見えるが、本当は大家族の一員で、ただ暇つぶしにやっているのかもしれないし、実はその収入で一家10人を食わしてやってるのかもしれない。
それは、知りようもない。
結局、他人には、他人の本当のところは何一つ分からないのだ。
カップ爺さんだけでなく、それ以外にいる多くの路上生活者、物乞いみんな、本当のところは分からない。
僕だって、
約2年前まで、誰にも分からなかったと思う。
周りから見れば、全ては順調過ぎるくらいに順調で、あいつは運がいい奴だと、あらゆる人達から妬み、羨み、憧れの対象だったと思う。
安定した会社で将来を約束されたエリート街道まっしぐら。
高収入で、二つ目の自宅を購入し、ヨーロッパ駐在帰り。
ヨーロッパ人と国際結婚で、2人の子供はハーフで、行儀も良く、頭も良い。
会社では、これまでの出世競争でみんな脱落していったので、ライバルもとうとういなくなってしまった。
上司からは一目置かれ、ツーカーの中であり、他部署のキーパーソンや役員達とは全て繋がっていた。
英語とロシア語ができるので重宝され、ロシアやヨーロッパに出張があれば、社長と2人で何処へでも飛び回った。社長にも特別に可愛がってもらった。
そして2年前、僕はその会社を自ら辞めて職を失い、1年半前、離婚を求められ子供たちの親権を前妻に渡したのだ。
全てを失った。
でも、
誰も結局分からないのだ。
あの2年前まで、僕がどういった気持ちで過ごして来たのか。
誰かの助けを必要としており、いつ壊れてもおかしくない状態であったことを。
そして、予想通り壊れた。
普通のことが、普通に起こった。
ただ、それだけ。
僕は、可愛そうな、いかにも同情を誘う物乞いには、お金はあげない。
僕の持つこのお金は、僕が苦労して、一人悩み、寂しさと孤独を抱え込み、あとは自分の日頃の継続した努力により培った仕事の能力によって得られた対価だ。
楽をしながら得たものではないし、勿論自分で稼いだ。
あげるなら、若い時にちゃんとした教育を受けさせてくれ、育ててくれた親にあげたい。
あとは、息子たちの未来へ。
だから、
僕のお金を、ただ僕がその人を好きだから、という理由だけであげたい。
どんなに立派な人でも、社会的意義がある人道的な活動家にも、世界を救うヒーローにも、僕はお金をあげない。
僕は、僕の好きな人にあげるのだ。
そして、
カップ爺さんも、その一人なのだ。
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