また、レポートを書こうと思っているが、
8月頭と下旬に2回「Plant Medicineリトリート」を開催した。
植物とじっくり対話をして、そこから何か必要なことに気付く時間。
ひとりひとりが植物と向き合う最後の時間は、
とても良い空気が流れる。
やって良かったと思う時間だ。
裏磐梯でやるワークショップの中で、
おそらくこれが一番やるべきもののような気がする。
やったあと、いつもそう思う。
もろもろの夏のあわただしさが過ぎて、
最近、少し一息つく時間だが、何か集中モードが切り替えられず、
時々来客があるのが良い気分転換になっていた。
雨も多かったし、あまり外を散歩する気分にもならず、
忙しい時のパターンのまま、旦那さんがご飯をつくってくれていたので、
次にやる事を考えねば、と思いつつも、なにかそれが空回りする。
野菜を育てる、収穫する、植物に触れる、食事をつくる、
それをしないことが、自分のバランスを偏らせている気がした。
今朝の久々の良い天気につられて、
ぶらっと、向かいの沼に行ってみた。
「久しぶりだね」
って言われたような気がした。
植物を見ても、じっくりと観察し感じる前に
「これ、何かにしなくては」
というモードが働く。
以前は、惹きつけられるものがあれば、
じっと見ていた。じっと観察していた。
見ることしかできない時期があったことも
良かったのかどうなのかだけれど…。
今朝の散歩では、そんなもやもやや、
しばらくここに来れなかったもやもやを
言葉にならない言葉で、
その場の自然界の存在達に愚痴ってみた。
ふいに
「それでいいんじゃない」
という答えが返ってきた。
それって、どれだ?
愚痴りたいことは他にもいろいろあって、
次なる行動をいつも考えている自分に、
だいぶ嫌気がさしていた。
そんなに活動してどうすんのよ。
講座をやる、イベントをやる、
参加費をいくらにして何人集める。
あーだこーだ。
今年は畑もおざなりにして、忙しくしている。
そんな自分には嫌気がさしていた。
ワークショップや講座をする時には、
いつも、凄く集中力を使うので、
これ以上増やして、質を落とすことはしたくないし、
暮らしの基本的なことをする時間とのバランスを考えたら、
増やすことなど無理だと解っているのに、
なんで、いろいろ考えるのだろう。
そんなに人を集めたりお金になることやりたいのかな、
自分は…。
グルグルしている自分に、
「それでいいんじゃない」
という答えだった。
Let it beに近い感じかな。
「次をどうしようか?
どんなことをやろうか?
どうしたら人が集まりやすいのか?
それを考えるのは、
あなたが自然界の声をできるだけ多くの人に
伝えたいと思っているからでは?」
「あ、はい、そうでした」。
人をたくさん集めて、
お金や力を得たいわけではない。
でも、前のめりな自分を見た時に、
冷ややかなもう一人の自分が批判をする。
3.11前は前者の自分だった。
どんどんやりたいことを形にしていこうとする自分、
それで、もっと1人1人が元気になり、
世界をよくしていきたい、という自分。
それは震災後の自分から見れば、
青臭い正義の振りかざしのように見える。
「自分では好きなことやって、
人や社会のためになっているつもりかもしれないけど、それがなんなの?
泥臭く、地道に生きることに向き合ってもいないくせに」
と、震災後の自分は言う。
それだけ、3.11の後は、どう生きるかを考え、
それを生きるだけで精一杯だったし、
無力な自分も味わった。
でも、今の自分は前の自分ではないし、
無力感を味わったままの自分でもない。
自分の中で分裂しているだけで、
勝手に葛藤しているだけだ。
お金と権力問題だけではなく、
正義の振りかざし問題もそこにあり、
まるで、アーリマンとルシファーの戦いのようだ(笑)
それを自然界の知性達は見事に軽々と超越する叡智を与えてくれる。
あらためて凄いもんだなと思った。
「それでいいんじゃない?」
とのひとこと、いや、それは言語ではない何かなんだけれど、
それだけで、自分の中のグルグルしているものが、
パンとはじけて、自分が見えていないところに、
気付ける場所に意識を移動させてくれる。
分裂しているものが統合される感じを、もうちょっと自分の中に定着させることをしてみよう。
それは、自分の中でPlant Medicineの体験をもっと深めることのような気もする。
瞑想してみること、書いてみること、次のビジョンを描いてみること。
夏が終わり秋に向かう今、果実を育てるにはいい時期だしな。
8月頭と下旬に2回「Plant Medicineリトリート」を開催した。
植物とじっくり対話をして、そこから何か必要なことに気付く時間。
ひとりひとりが植物と向き合う最後の時間は、
とても良い空気が流れる。
やって良かったと思う時間だ。
裏磐梯でやるワークショップの中で、
おそらくこれが一番やるべきもののような気がする。
やったあと、いつもそう思う。
もろもろの夏のあわただしさが過ぎて、
最近、少し一息つく時間だが、何か集中モードが切り替えられず、
時々来客があるのが良い気分転換になっていた。
雨も多かったし、あまり外を散歩する気分にもならず、
忙しい時のパターンのまま、旦那さんがご飯をつくってくれていたので、
次にやる事を考えねば、と思いつつも、なにかそれが空回りする。
野菜を育てる、収穫する、植物に触れる、食事をつくる、
それをしないことが、自分のバランスを偏らせている気がした。
今朝の久々の良い天気につられて、
ぶらっと、向かいの沼に行ってみた。
「久しぶりだね」
って言われたような気がした。
植物を見ても、じっくりと観察し感じる前に
「これ、何かにしなくては」
というモードが働く。
以前は、惹きつけられるものがあれば、
じっと見ていた。じっと観察していた。
見ることしかできない時期があったことも
良かったのかどうなのかだけれど…。
今朝の散歩では、そんなもやもやや、
しばらくここに来れなかったもやもやを
言葉にならない言葉で、
その場の自然界の存在達に愚痴ってみた。
ふいに
「それでいいんじゃない」
という答えが返ってきた。
それって、どれだ?
愚痴りたいことは他にもいろいろあって、
次なる行動をいつも考えている自分に、
だいぶ嫌気がさしていた。
そんなに活動してどうすんのよ。
講座をやる、イベントをやる、
参加費をいくらにして何人集める。
あーだこーだ。
今年は畑もおざなりにして、忙しくしている。
そんな自分には嫌気がさしていた。
ワークショップや講座をする時には、
いつも、凄く集中力を使うので、
これ以上増やして、質を落とすことはしたくないし、
暮らしの基本的なことをする時間とのバランスを考えたら、
増やすことなど無理だと解っているのに、
なんで、いろいろ考えるのだろう。
そんなに人を集めたりお金になることやりたいのかな、
自分は…。
グルグルしている自分に、
「それでいいんじゃない」
という答えだった。
Let it beに近い感じかな。
「次をどうしようか?
どんなことをやろうか?
どうしたら人が集まりやすいのか?
それを考えるのは、
あなたが自然界の声をできるだけ多くの人に
伝えたいと思っているからでは?」
「あ、はい、そうでした」。
人をたくさん集めて、
お金や力を得たいわけではない。
でも、前のめりな自分を見た時に、
冷ややかなもう一人の自分が批判をする。
3.11前は前者の自分だった。
どんどんやりたいことを形にしていこうとする自分、
それで、もっと1人1人が元気になり、
世界をよくしていきたい、という自分。
それは震災後の自分から見れば、
青臭い正義の振りかざしのように見える。
「自分では好きなことやって、
人や社会のためになっているつもりかもしれないけど、それがなんなの?
泥臭く、地道に生きることに向き合ってもいないくせに」
と、震災後の自分は言う。
それだけ、3.11の後は、どう生きるかを考え、
それを生きるだけで精一杯だったし、
無力な自分も味わった。
でも、今の自分は前の自分ではないし、
無力感を味わったままの自分でもない。
自分の中で分裂しているだけで、
勝手に葛藤しているだけだ。
お金と権力問題だけではなく、
正義の振りかざし問題もそこにあり、
まるで、アーリマンとルシファーの戦いのようだ(笑)
それを自然界の知性達は見事に軽々と超越する叡智を与えてくれる。
あらためて凄いもんだなと思った。
「それでいいんじゃない?」
とのひとこと、いや、それは言語ではない何かなんだけれど、
それだけで、自分の中のグルグルしているものが、
パンとはじけて、自分が見えていないところに、
気付ける場所に意識を移動させてくれる。
分裂しているものが統合される感じを、もうちょっと自分の中に定着させることをしてみよう。
それは、自分の中でPlant Medicineの体験をもっと深めることのような気もする。
瞑想してみること、書いてみること、次のビジョンを描いてみること。
夏が終わり秋に向かう今、果実を育てるにはいい時期だしな。