身体と自然というものは、生まれたときから当たり前にあるものとして捉えているので、
実はあまり良くわかっていないのかもしれないと最近よく感じる。
フェルデンクライス・メソッドの創始者、モーシェ・フェルデンクライスは『Elusive Obvious』という著書を出しているが、
このタイトルは「あいまいにして明確なもの」という意味である。
解っていると思っているが、実ははっきり解っていないもの、
解っていると思っているからこそ、より繊細な真実を見ることができていないもの。
それは、自分の身体であり、自分自身であり、自然であるとも言える。
今、地球温暖化についての話題が論じられることが多くなり、
持続可能な生き方に変えていこうという方向を向きつつある。
社会が大量生産・大量消費にもとづく経済成長中心のシステムになっている現状では、
個人が努力して変えようというにも限界がある。
しかし、社会は個人個人の集まりなので、個人が変わることの積み重ねが社会を変える。
問題解決には、①政治的解決、②技術的解決、③教育的解決がある。
温暖化や石油資源の枯渇、食糧問題など地球規模の問題に対しては、
教育的解決では時間がかかりすぎて、間に合わないという見方もある。
しかし問題の根本解決は基本的な物事の捉えかたを育む、
人間教育にあるのではないかと思う。
自分の健康や身体を多くの人はどう捉えているだろうか。
調子が悪くなったら医者に見てもらって薬をもらえばいいと思っていれば、
調子が悪くない時にはあまり、自分の身体を省みないようなライフスタイルになってしまう。
自分の身体をそう捉えている場合、おそらく、
自然環境に関しても同様の捉え方になってしまうであろう。
問題が顕在化しなければ、そのままほおっておく。
そういう態度が今の地球環境問題につながっている。
地球市民として生きる人間教育が必要であることは、だいぶ前から言われているが、
それはホリスティックな捉え方をベースとしたものにならなければいけない。
子ども達は素直に新しい価値観を受け入れていくかもしれないが、
価値観が確立されてしまった大人にとっては、これからの低炭素社会、持続可能な社会への転換は、
かなり大きな価値観の転換になることを覚悟して望まなければいけないと思う。
しかし、幸いにも自分の身体というものは、
存在自体がホリスティックなものであるから機械的な捉えかたで生きていると、
必ずどこかでサインを発する。それが不調や病気となって現われてくる。
身体を壊してライフスタイルを転換せざるを得なくなった方も多いのではないかと思う。
人間が勝手に頭で「解っているさ」と思考停止をしても、
身体は常にバランスをとりながら様々なメッセージを私たちに発信している。
自分の身体に耳を傾ける、そしてかすかな声をもキャッチし、自分自身の中での分離を統合させていく。
身体の統合、身体と心の統合、個人の中での統合された感覚が、
自分の外側のコミュニティ~社会環境・自然環境~を統合させていく感覚に広がっていく。
最近、「環境のことについて何かしなければいけないと思うけれど、
何をしらたいいのだろう」、そういう戸惑いの言葉を聞くことがたびたびある。
もっともシンプルな方法としては、自分の身体の声を聞いて、
その声にしたがって何かをはじめてみるのが、
エコロジカルにものを考えることに繋がるのではないかと思う。
実はあまり良くわかっていないのかもしれないと最近よく感じる。
フェルデンクライス・メソッドの創始者、モーシェ・フェルデンクライスは『Elusive Obvious』という著書を出しているが、
このタイトルは「あいまいにして明確なもの」という意味である。
解っていると思っているが、実ははっきり解っていないもの、
解っていると思っているからこそ、より繊細な真実を見ることができていないもの。
それは、自分の身体であり、自分自身であり、自然であるとも言える。
今、地球温暖化についての話題が論じられることが多くなり、
持続可能な生き方に変えていこうという方向を向きつつある。
社会が大量生産・大量消費にもとづく経済成長中心のシステムになっている現状では、
個人が努力して変えようというにも限界がある。
しかし、社会は個人個人の集まりなので、個人が変わることの積み重ねが社会を変える。
問題解決には、①政治的解決、②技術的解決、③教育的解決がある。
温暖化や石油資源の枯渇、食糧問題など地球規模の問題に対しては、
教育的解決では時間がかかりすぎて、間に合わないという見方もある。
しかし問題の根本解決は基本的な物事の捉えかたを育む、
人間教育にあるのではないかと思う。
自分の健康や身体を多くの人はどう捉えているだろうか。
調子が悪くなったら医者に見てもらって薬をもらえばいいと思っていれば、
調子が悪くない時にはあまり、自分の身体を省みないようなライフスタイルになってしまう。
自分の身体をそう捉えている場合、おそらく、
自然環境に関しても同様の捉え方になってしまうであろう。
問題が顕在化しなければ、そのままほおっておく。
そういう態度が今の地球環境問題につながっている。
地球市民として生きる人間教育が必要であることは、だいぶ前から言われているが、
それはホリスティックな捉え方をベースとしたものにならなければいけない。
子ども達は素直に新しい価値観を受け入れていくかもしれないが、
価値観が確立されてしまった大人にとっては、これからの低炭素社会、持続可能な社会への転換は、
かなり大きな価値観の転換になることを覚悟して望まなければいけないと思う。
しかし、幸いにも自分の身体というものは、
存在自体がホリスティックなものであるから機械的な捉えかたで生きていると、
必ずどこかでサインを発する。それが不調や病気となって現われてくる。
身体を壊してライフスタイルを転換せざるを得なくなった方も多いのではないかと思う。
人間が勝手に頭で「解っているさ」と思考停止をしても、
身体は常にバランスをとりながら様々なメッセージを私たちに発信している。
自分の身体に耳を傾ける、そしてかすかな声をもキャッチし、自分自身の中での分離を統合させていく。
身体の統合、身体と心の統合、個人の中での統合された感覚が、
自分の外側のコミュニティ~社会環境・自然環境~を統合させていく感覚に広がっていく。
最近、「環境のことについて何かしなければいけないと思うけれど、
何をしらたいいのだろう」、そういう戸惑いの言葉を聞くことがたびたびある。
もっともシンプルな方法としては、自分の身体の声を聞いて、
その声にしたがって何かをはじめてみるのが、
エコロジカルにものを考えることに繋がるのではないかと思う。