奈良から裏磐梯に昨日帰ってきました。雪がだいぶ解けていました。facebookでわさびの動画があがってきて4年前は雪が多かったことがわかる。
わーさんのことは、気にかけて心配してくれている人がいるので、シェアを躊躇しましたが、こうやって自然の中でのびのびしているわさびの姿を見るのは、とても嬉しいので思わずシェアしてしまいます。
脱走して20日あまり。わさびが去って20日と書くのと、脱走してとか家出してと書くのとだいぶ気持ちが違う。
今思うと「もうそろそろ行かなきゃいけなんだよ」と言っていたように感じた瞬間があった。目の状態が悪化し始めたころで、病院にいく数日前のこと。ふと感じたその感覚を思い出すのが嫌だったけど、自分の魂にしっかりつながった状態で振り返ってみた。
それに気づいてから約2か月ほどの間、病院にいったり目薬したりする役割の自分は嫌われるかと思ったら、意外にも、わさびは、家の中での追いかけっこ&かくれんぼに、わたしを誘ったり、いつもと違うことをやっていた。退屈になると自分で遊びを考えるので、今回も目薬いやだけど、それを遊び感覚にしちゃっているんだなと思い、その遊びに付き合うのは楽しかった。
その「追いかけっこ&かくれんぼ」をこの裏磐梯の大自然の中でやっているつもりなのかもしれない。それに付き合うのもやぶさかではない。
あの瞬間のまなざしを思い出すことは、恐かったけど、それを通して、わさびの愛が、もっと言えば宇宙の愛と叡智が流れてきているのだと思った。時間は瞬間の積み重ねで、その瞬間に永遠が含まれている。
瞬間にある永遠を信じられない小さい自分は、まだまだメソメソしているし、それでいいと思っているけど、魂の自分は、わさびを通して伝わってくるものを受けとめようとしている。
また、わさびがいない今の状態を受けとめるプロセスは、私だけではなく、もりぞうやくるみ(猫)の中でも動いている。そして、わさびとくるみと、もりぞうと私という一つの家族という単位のバランスをとろうとするプロセスに今ある。
もしかすると、この投稿を見て気にかけたり心配してくれている人にも、影響与えてしまっているかもしれないけれど、全ては調和的に調整さていけばよいと思い、これを書いています。
ひとつの出来事は、それだけのものではなくて、生命が網の目のようにつながっているごとく、全てに波及していくものだということ実感する。そして、ヒーリングとは本来、単独で起きるものではないのだということも、改めて感じなおしています。
プロセスが終わったころに、こんな風に軽やかに帰ってくるかもしれないしね。
わーさんのことは、気にかけて心配してくれている人がいるので、シェアを躊躇しましたが、こうやって自然の中でのびのびしているわさびの姿を見るのは、とても嬉しいので思わずシェアしてしまいます。
脱走して20日あまり。わさびが去って20日と書くのと、脱走してとか家出してと書くのとだいぶ気持ちが違う。
今思うと「もうそろそろ行かなきゃいけなんだよ」と言っていたように感じた瞬間があった。目の状態が悪化し始めたころで、病院にいく数日前のこと。ふと感じたその感覚を思い出すのが嫌だったけど、自分の魂にしっかりつながった状態で振り返ってみた。
それに気づいてから約2か月ほどの間、病院にいったり目薬したりする役割の自分は嫌われるかと思ったら、意外にも、わさびは、家の中での追いかけっこ&かくれんぼに、わたしを誘ったり、いつもと違うことをやっていた。退屈になると自分で遊びを考えるので、今回も目薬いやだけど、それを遊び感覚にしちゃっているんだなと思い、その遊びに付き合うのは楽しかった。
その「追いかけっこ&かくれんぼ」をこの裏磐梯の大自然の中でやっているつもりなのかもしれない。それに付き合うのもやぶさかではない。
あの瞬間のまなざしを思い出すことは、恐かったけど、それを通して、わさびの愛が、もっと言えば宇宙の愛と叡智が流れてきているのだと思った。時間は瞬間の積み重ねで、その瞬間に永遠が含まれている。
瞬間にある永遠を信じられない小さい自分は、まだまだメソメソしているし、それでいいと思っているけど、魂の自分は、わさびを通して伝わってくるものを受けとめようとしている。
また、わさびがいない今の状態を受けとめるプロセスは、私だけではなく、もりぞうやくるみ(猫)の中でも動いている。そして、わさびとくるみと、もりぞうと私という一つの家族という単位のバランスをとろうとするプロセスに今ある。
もしかすると、この投稿を見て気にかけたり心配してくれている人にも、影響与えてしまっているかもしれないけれど、全ては調和的に調整さていけばよいと思い、これを書いています。
ひとつの出来事は、それだけのものではなくて、生命が網の目のようにつながっているごとく、全てに波及していくものだということ実感する。そして、ヒーリングとは本来、単独で起きるものではないのだということも、改めて感じなおしています。
プロセスが終わったころに、こんな風に軽やかに帰ってくるかもしれないしね。