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眉村さん

2012-10-31 17:02:55 | 書籍・記事

毎月月末に「眉村卓さん」賞とかいうのに選出してもらってます.10月も2位だった・・・何回か頂いてます。そしてようやく眉村さんについてwikiしてみました。

なんと父と同い年。しかも「ねらわれた学園」は高校時に見ているし、ついこのまえは映画で「妻に捧げた1778話」を観たばかりです...ほかにもさらっと読んだことある本をコピペ。なんだか身近に感じてきました。毎月ありがとうございます、と言っておきたい。

 

経歴 [編集] 以下コピペ

1934年に大阪府大阪市西成区で生まれる。大阪府立住吉高校を経て1957年大阪大学経済学部卒業後、大阪窯業耐火煉瓦株式会社(現:株式会社ヨータイ)に入社、日生工場(現岡山県備前市日生町)転勤[2]。1958年、大阪窯業耐火煉瓦株式会社退社、株式会社大広の嘱託コピーライターとなる一方で、1960年からSF同人誌『宇宙塵』に参加する。1961年に「下級アイディアマン」が第1回空想科学小説コンテスト(のちのハヤカワ・SFコンテスト)に佳作入選しデビューする[3]。

1963年には会社を辞め、初めての単行本である処女長編『燃える傾斜』を発表、専業作家としての活動を開始する。1979年には、『消滅の光輪』にて第7回泉鏡花文学賞および星雲賞を受賞した。1987年に『夕焼けの回転木馬』で第7回日本文芸大賞を受賞し、1996年には『引き潮のとき』で2度目となる星雲賞を受賞した。インサイダー文学論を提唱し[3]、組織と個人の葛藤を作品のテーマとしている。また多数の短編SFやエッセイ、ジュブナイル小説を執筆した。作家活動以外ではラジオパーソナリティも務めた[3](『チャチャヤング』(毎日放送)、『男のポケット』(FM大阪))。

眉村は高校時代に俳句部に所属し、水原秋桜子主宰の「馬酔木」に投句するなどしていた。作家としてデビューした昭和40年代には、毎日新聞の記者をしていた赤尾兜子とパーティで知り合い、これをきっかけにして兜子の主宰誌「渦」の同人となっている。当時眉村は俳句の中にSF的な感覚を盛り込むことを試みていたが、逆に兜子から、小説の文章が俳句的で読者に伝わらないという指摘を受け、以後小説の書き方を変えたという。兜子の死後は多忙もあってしばらく句作から離れたが、上述の妻の死以降、ショート・ショート

と平行してふたたび句作に取り組むようになり、「渦」にも復帰、2009年には最初の句集『霧を行く』を出版している[6]。

ねらわれた学園 1976 (角川文庫)
滅びざるもの 徳間書店 1979.6
一分間だけ ショート・ショート 1980.4 (角川文庫)
迷宮物語 1986.8 (角川文庫)
乾いた家族 1993.6 (ケイブンシャ文庫)
ゆるやかな家族 1993.10 (ケイブンシャ文庫)
妻に捧げた1778話 2004.5 (新潮新書) 「僕と妻の1778話」集英社文庫




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