旧宮家は、全て南北朝時代に誕生した伏見宮家に繋がっている。
ゆえに、伏見家が旧宮家の宗家という位置付けであるが。
実は、現在の当主の祖父が伏見宮家を継いだ事で、伏見宮家は宗家としての立場を失っていた。
現当主の祖父、伏見宮博恭王は、非嫡出子。
嫡男の次男の病気、三男の早世によって、後継者となった。
母の身分は低く、伏見宮家の当主には相応しくない出自だった。
伏見宮貞愛親王は、10代で家女房との間に博恭王をもうけた。
家女房とは、今でいう侍女である。
側室候補としてお側に仕えるので、全くの庶民というわけではない。
ただ、貞愛親王の正妃となったのは、有栖川宮家の女王。
次男と三男は、女王の実子だった。
宮家の中で最も歴史が長く、明治以降に多くの分家が出来た伏見宮家の当主には、母親の出自も重要であった。
久邇家は、伏見宮邦家親王の四男で貞愛親王の兄にあたる朝彦親王が創設。
貞愛親王は正妃の鷹司景子の実子である事から伏見宮家を継いだ。
朝彦親王の母も家女房だが、実家の鳥居小路家は天武天皇に繋がる高階氏の末裔。
朝彦親王は、生涯正妃をもたず、久邇家を相続したのは三男邦彦親王。
邦彦親王の母は神武天皇の妻の父親を祖とする泉亭家の出身。
そして、邦彦親王の長女が香淳皇后。
香淳皇后も久邇家を継いだ長兄の朝融王も、旧薩摩藩藩主家の島津家出身の正妃の実子。
久邇家の家祖、朝彦親王には異母兄が居た。
しかし、男子に恵まれなかった事で、異母兄の創設した山階宮家は断絶。
伏見宮家の博恭王の出自問題によって、3番手だった久邇宮家が、宗家の立場になった。