久邇宮朝融王には侍女に生ませ農家に養子に出した子供が居たらしい。
朝融王は香淳皇后の長兄で久邇宮家の当主だった。
だから、養子に出された子供は上皇陛下のイトコにあたる。
もし、子供が男子であれば・・・。
紛れもなく天皇の血を引く男系男子。
情報元は倉富勇三郎の日記。
大正末から昭和初期にかけて枢密院議長だった人物である。、
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元帥海軍大将伏見宮博恭王第3王女の知子女王を妃とする。1929年(昭和4年)1月27日の父宮の薨去を受けて久邇宮家を継承する。
後年、朝融王は侍女と関係を持ち、妊娠させる。知子女王は、事務官に父親の伏見宮博恭王に知らせないでほしいと告げる。侍女は他家へ嫁がされ、侍女の産んだ子供は、事務官の手配で農家の養子になった。侍女には5000円、養子先の農家には1万円が支給された。(当時の総理大臣の年俸は1万円に満たない額だった)
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引用元 Wikipedia
Wikipediaには書いてないが引用元は、浅見雅男『伏見宮』(講談社、2012年)
そして浅見氏が倉富日記から引用したらしい。
倉富勇三郎が枢密院議長だった時期の出来事であれば、子供は上皇陛下と同じくらいの年齢だ。
なぜ母親の侍女からも引き離して養子に出したのか。
なぜ養子先は農家だったのか。
子供の母親は侍女という事だが、明治時代まで皇室ではお側に居てお世話をする侍女が側室になるケースが大半だった。
珍しい事ではない。
皇室は伝統的に一夫多妻で正妃が居てもそれぞれ別の部屋に暮らしていた。
高貴な女性には仕える侍女が沢山居て、世話をされる側。
正妃となっても夫の世話をする事は無く、正妃よりも家柄の低い侍女として採用された公家の女子達が常に夫の側に居てお世話をする。
お世話をするといっても、調理や洗濯などの下働きをする訳ではない。
お話相手、趣味を一緒に楽しむ相手といった知識や教養が必要な仕事。
そういう侍女が妻の役割をするような慣習を廃止したのが昭和天皇と香淳皇后だったが。
それ以前に大正天皇と貞明皇后が慣習を改め道筋を付けた。
貞明皇后自ら大正天皇のお世話をし、女官(侍女)が住み込みで天皇や皇男子のお世話をする形を無くしたのである。
貞明皇后自身は、側室の子供。
誕生後、丈夫に育つようにと東京近郊の豪農に里子に出され、田舎暮らしを経験した。
朝融王の子供の母親は、昭和天皇の皇后の実家の侍女。
当主の目に留まるというのは下働きでは無い。
それなりの家柄の令嬢ではなかったか。
香淳皇后の母親も側室だった。
庶子に対する偏見は無かったと思われる。
久邇家は、天皇ご一家は、養子に出た子供についてどこまで知っていたのだろうか。