恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第一章 或る愚か者の生涯
◆念力から祈りへの転換◆
先の続き・・・
十歳の時には太平洋戦争が始まりますが、
兄が出征兵として戦地に赴いてからというもの、
兄の無事の帰還を祈願するため、
両親の代参として一キロほど離れた山のお宮さんに日参するようになりました。
雨が降っても雪が降っても、
山の中腹にあるお社にお参りすることを欠かした日は一日もありませんでした。
そうして、六年の歳月が流れ、ついに兄は無事に中支から帰還いたしました。
やっとそれが成就した喜びで足が地につかず、天にも昇ったような気持ちでした。
ありがたさに身を置く所もないほど嬉しかったものです。
六年間毎日一生懸命に兄の無事を祈りながら、自分と兄とは一体だと感じていました。
ところが、無事帰還した兄は自分が運がよかったんだと、
六年間の祈りなどすべて知らなかったために、なんとも言えぬ淋しさを味わったものです。
結局、幼い六年の経験を通じて私が学んだことは、「祈りは人のため」という一事でした。
つまり、相手が喜んでも喜ばなくても、ただその人のために祈るということです。
愛の祈りであれば、神様に聞いていただけます。
我が事に関して祈れば、そこに必ず自我の欲望が入ってくるスキが生じます。
そして、いつしか祈りというよりも念力でもって願望を成就させようということになりかねません。
しかし、大切なのは神様の御心を自分の生活に現わしていくということでなくてはなりません。
これは現在でも私の神癒の根底に生きていると思います。
でなければ、奇蹟的な治癒が起きるわけがありません。
神は真の祈りに感応して力をお与えになるからです。
念力で願望を成就しても、決して幸せにはなれません。
愛のまごころとは、すべてを神様に託していくという、
神の子としての素直さということにもつながります。
祈りが純粋なほど、自我がなく無私であるほど、
天の神様は聞き届けてくださいます。
みんなが念力を使って自分の思いどおりになどしようとしたら、
この社会は念力合戦みたいなことになり、不調和になってしまいます。
やはり、自分を忘れて他を活かすという精神こそが美しく、尊いまことの祈り、
真祈りに通じるものだと言えましょう。
己を忘れて他を利する。
これが神の御心だと思います。
~ 感謝・合掌 ~