恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第二章 必要なのは正しい生命観の確立
◆絶対を忘れているむなしさ◆
先の続き・・・
十歳の時に、とてもよい方であった叔父が亡くなって、
その死に顔があまりにも醜い恐ろしい顔になっていたので、たいへんショックを受けました。
死は苦しく、遺体は汚れたもの。
これが今までの人類の歴史を通じて当たり前とされてきたことです。
けれども、この常識を完全に超越しない限りは、新しい生き方と理想的な社会は見えてきません。
死への恐怖とエゴイズムはつながっています。
これを解決しないと、個人にも人類にも本当の救いと幸せはありません。
母が九十四歳で亡くなった時、その死に顔は想像もつかない美しさと言いましょうか、
まるで二十代の女性のようでした。
シワやシミは全部なくなり、若い頃と同じ肌に戻っておりました。
それどころか、まるで赤ちゃんのような肌になっておりました。
人がどういう死に方をするかは、生きている間の日々の心の状態によるものであって、
人それぞれに違います。
そもそも、私たちは日頃から死ぬということをあまり深く考えていません。
死を自覚して日々の生活を送っているとは言えません。
いつかは必ず直面しなくてはいけない死であるのに、
まるで他人事みたいに思って生きていることが多いのです。
そして、ある日突然のように、それまでは他人事と思っていた死が自分の身に訪れた時、
それを安らかな心で迎え入れ、自らの生涯と出会った人々や周囲の人々に感謝して、
あの世に逝けるという人は稀であると思います。
「会者定離ありとは常に聞きおれど昨日今日とは思わざりけり」という古言があります。
人生の無常は生きている者同士の突然の別れから、死に別れまで、いついかなる時でも
予告なしに襲ってくるものです。
目先のことばかりにとらわれ、日々の生活に齷齪としているうちにいたずらに歳月を費やし、
気付いてみたらもうすっかり年を取っていたという人がほとんどではないでしょうか。
必ず死ぬとわかっていても、なかなか死を迎えるだけの心の準備ができないのです。
なぜでしょうか。
それはもちろん十分に生命を燃焼し尽くさなかったということもあります。
もう十分にやりたいことをやり、使命も果たした。
満足と感謝に満たされ、いつあの世に召されても不足はないと言いきることができたなら、
抵抗なく死を迎えられそうです。
けれども、もっと大切なことがあります。
死んだらどうなるかかがわからないということが、人間が死に対してあまりにも不必要な
恐怖や苦しみを持ってしまう原因になっているということです。
人間とは単なる肉体的存在ではなくて、肉体がなくなっても心は続き、あの世に霊として
生き続けるのだとわかれば、死への態度も一変してしまうことでしょう。
それがわかると生き方も変わる筈です。
「父母にかりに呼ばれて客に来て、またたちかえるもとのふるさと」このうたは、
この世は仮の宿ということを教えています。
どんな世界から生まれ、何のためにここに来ているのか、魂の目的というものがわからない限り、
死に対しても無知であり続けるでしょう。
無知であればあるほど、それは突然襲って来る恐ろしいものであるかのように受け取られます。
その結果、生きている間は心の安らぎがなく、どこかで疑問や不安を持ち続け、これを
解消しきれずにいることになります。
これが残念ながら、現在までのこの地球社会の実態にほかなりません。
~ 感謝・合掌 ~