2024年9月9日、早朝より山陽道歩き旅(日帰り)実施。朝5時に目が覚めたので、早めに家を出た。とにかく、暑い日々なので、可能なら、JR福山駅に早く着き、JR福塩(ふくえん)線に乗り換えてJR神辺駅に到着したかった。神辺駅から徒歩10分ぐらいで神辺宿本陣に到着できるだろうと予想していた。午前11時ごろには、神辺駅にたどり着ける予定だった。
ところが、東海道線の琵琶湖近くの駅のホームで人との接触事故が発生とのことで、東海道線並びに山陽線のダイヤが乱れだしていた。大阪駅から乗った新快速が姫路駅近くで、ストップした状態になってしまった。30分以上は止まったままだった。もうすぐ姫路駅なのに・・・岡山駅行きの普通列車にうまく乗り継げないかも・・・? と、新快速が信号待ちで動こうとしないことに、やきもきしていた。やっと動き出して、姫路駅に着いた時、岡山行きの列車は、新快速に乗っている乗客が乗り換えるのを待って、(発車時刻の23分後に)走り出した。(よかった、普通列車が待ってくれていたのだ!)
乗り込んだ車内に、一席だけ空いていたので、座ることができた。席お隣の高齢者(男性)と、列車の遅れや駅ホームでの接触事故などの話をする機会になった。お隣の男性も、青春18切符利用で一人旅をしておられる方だった。その方は岡山駅で乗り換えて、三次駅方面へ行き、広島で一泊する予定とのことだった。私は山陽道歩き旅で、日帰りで神辺宿近辺を歩いた後、帰宅する予定などを、話題にした。姫路駅から岡山駅まで、普通列車だと、約1時間かかるのだが、お隣の人との話が楽しく、時間が短く感じられた。岡山駅でその方とお別れし、それぞれ違う列車に乗り換えた。
私は山陽線のまま、福山駅行きに乗り換えた。しかし、岡山発福山駅行きの列車は、初めに予定していた列車には乗れなかった。旅行前に予定していた列車は、すでに出発してしまっていた。予定の列車に乗れなかった影響で、神辺駅に到着できる時刻が約1時間も遅くなってしまった。11時頃に到着のはずが、(ダイヤの乱れが原因で)12時になってしまったのだった。
1時間の遅れを取り戻そうと、(自分なりに用意してきた神辺宿近辺の)地図を見て、「本陣」を目指して速足で歩き始めた。ところが、20分ほど歩いても、本陣らしい屋敷のある街並みが見つからない・・・。(あれっ、道をまちがえたかな??? )と、思ったが、(町を歩いている人はいない)どうしよう・・・どうしよう・・・。(とりあえず、駅に戻ることにしよう・・・)
9月9日の広島県(福山市)の昼過ぎの気温は35℃ぐらいあるかも・・・。ちょっと、歩くだけでも、汗がたらたら・・・暑いなあ! (冷静になろう)と自分に言い聞かせながら、元来た道を戻ることにした。
(学校が早く終わったのだろうか?)昼過ぎだというのに、自転車に乗った高校生らしい男女3人が通りがかったので、道を尋ねることにした。「すみません、神辺宿の本陣へ行きたくて・・・、道に迷ってしまったのですが・・・」と声をかけた。
3人の中で、道に詳しそうな女生徒が、本陣への行き方を教えてくれたのだった。うれしかった。(やはり、行く方向を間違っていたのだ! 尋ねることができる人に出会ってよかった! 車には何台もすれ違ったが、歩いている人はいなかったから。自転車に乗っていた3人に出会えて、よかった! 感謝、感謝。)
神辺駅から(歩く方向を間違うことなければ)約10分ほどで到着できるところに「神辺宿本陣」はあった。江戸時代のままの建物が残っていた。土曜日の午前中ならボランティアガイドが案内可能とかかれていたが・・・。今日は月曜日、ボランティアガイドの方はおられなかった。本陣内部にも入れなかった。しかし、外観と街並みを見学できただけで、満足できた。屋敷の庭に植えられている「紅い花」の樹は「さるすべり」らしかった。さるすべり(百日紅)の花が印象的な屋敷だなあ・・・と、写真に収めた。
(ここから続きです)
本陣に面したアスファルト舗装の道が山陽道でした。本陣近くの建物群も古くからの建築物らしく、宿場町の雰囲気がありました。去年訪れた岡山県・矢掛宿の街並みに比べると街並みの長さは短いように思いましたが、江戸時代を感じさせる雰囲気は十分に味わうことができました。広島県・神辺宿本陣が山陽道に面している塀や建物群の長さはかなり長かったですね。カメラに収めるのに、2方向から撮った次第です。本陣の敷地に入れなかったので、山陽道に面した塀・建物や樹木しか撮ることができませんでした。大きな百日紅(さるすべり)の枝が塀からはみ出して、紅い花がたくさん咲いていました。
中山道の滋賀県・醒井(さめがい)宿(水中花の梅花藻で有名ですが)の百日紅の並木道の木々が美しかったことを思い出していました。(そうだ、百日紅の花が咲く季節なんだ!)と、神辺宿本陣の百日紅の花を醒井宿本陣近くで見た百日紅と重ねて、印象深く見ていました。
本陣から400m行ったところに、「廉塾(れんじゅく)」があるということが資料に書かれていた。「廉塾」って、どんな塾だろうと思って、(近くだったので)とりあえず、行ってみることにした。説明板によると、「廉塾=菅茶山邸」とのことでした。江戸時代の漢詩人・菅茶山(かんちゃざん)が「廉塾」を1791年頃に開設したとの説明がありました。教師(塾頭)の一人として、(あの有名な)頼山陽も塾生を教えたとのことでした。(へぇー、頼山陽がこの塾で教えていたのだ!)と興味を持ちました。
廉塾の建物は古く、改築中で、建物群の一部しか写真に収めることができませんでした。全体の改築にはかなり月日を要するように思われました。敷地がかなり広い「菅茶山邸」なので、カメラでは撮りきれません。
神辺宿訪問では、山陽道に面した神辺宿本陣・(街道から少し離れていたが)「廉塾=菅茶山旧邸」・街道に面した街並みなど、(たどりつくのに道に迷いながらも)神辺宿の主な見学地を訪れることができました。神辺駅に戻ったのは、午後1時30分頃になっていました。
神辺宿訪問を終了してから、南西方向の尾道方面へ続いている「(広島県)山陽道歩き」を再スタートさせました。
宿場歩きだけで、汗がだらだらと流れ、下着も汗をたっぷりと含んだ状態でした。とにかく、暑くて、暑くて・・・。休憩をたっぷりとりながら、街道地図をしっかり見ながら、山陽道を歩き間違えないように歩いていきました。
芦田川に架かった大渡橋を渡った地点で、川面から吹いてくる風が心地よかったので、十分に休憩をとりました。芦田川沿いの街道を歩いてどんどん進んでいきました。木陰になるところがない道で、高速道路の下の個所が陰になっていたので、そこで、また休憩をとりました。とにかく「去年の9月9日の(岡山県)山陽道歩き旅」の気温よりも高く感じられ、へとへとになった状態で歩き旅をつづけました。(タクシーが通ったら、手を挙げるのだが・・・)と思いながら、歩き続けました。しかし、タクシーなどまったく通る気配のない道でした。(トラックと乗用車は通るのに…。)とにかく、疲れてきていたので、JRの近くの駅はどこかなあ? と、スマホでマップを出して(現在地を確認し)さがしました。歩き方がかなり遅くなり・・・。とにかく、近くの駅を必死で探しました。
不慣れなスマホのマップ利用ですが、なんとかJRの駅を探すことができました。「JR備後赤坂駅」が見つかりました。ほっとしました。(さあ、がんばって、備後赤坂駅まで、歩くぞ!) と、気合を入れました。
熱中症をおこさないように陰の部分を見つけては、休憩をとりながら、駅目指して進んでいきました。JRの線路がちらっと見えたときは、うれしかったですね。(あっ、レールが見えたぞ!)
本日の山陽道歩き旅として、計画していたもともとの目的の地は、(気候も良く、体の調子が良ければと予定していたのは)JR尾道駅でした。ところが、暑くて暑くて・・・、道にも迷ってしまって・・・。神辺宿散策で時間がかかってしまい・・・。予定地にはたどり着けませんでした。尾道駅よりも3駅手前のJR(山陽線)備後赤坂駅が実質の目的地になってしまいました。
JR備後赤坂駅に到着した時刻は午後5時20分になっていました。実質約12kmほどの「山陽道歩き旅」でしたが、疲れました。時速約3kmほどのノロノロ歩き旅でしたが、熱中症にならずに歩くことができました。
列車ダイヤの乱れが夕方になっても(姫路~大阪間)続いているようで、堺市駅に到着できたのは、午後10時40分でした。11時前に帰宅。ほっとしました。風呂に入って、ゆっくり休みました。
本日の万歩計は35966歩でした。歩き旅コースは3万歩ぐらいでしょう。約18kmほど歩いたことになりますが、「神辺宿さ迷い歩き分」を差し引くと、実質の「街道歩き旅」距離は約12kmだったようです。今までで、一番厳しい「日帰り・街道歩き旅」になりました。 (歩き旅報告はここまでです。)
以下、写真を添えておきます。
百日紅(写真中央)の樹が印象に残った「神辺宿・本陣」の建物 立派な建物だった。(茶色の家は本陣ではない隣の家。)
反対側から撮った神辺宿本陣 アスファルト舗装の道が「山陽道」です。
史跡 神辺本陣 (門は閉まっていました。かすれていましたが何とか読める字でした。)
神辺宿 街並み (人通りは少ない通りでした。国道から少し離れているからでしょう)
廉塾ならびに菅茶山旧宅 写真右手に、説明板がありました。建物は改築中で、入れませんでした。
菅茶山邸のごく一部です。大きな建物で、改築中でした。何とか写真に写せる箇所がありましたので、パチリ。
神辺宿内 「神辺駅跡」碑
この地に豊臣秀吉が朝鮮役よりの帰途、立ち寄った館があったと説明されている。山陽道は江戸時代よりも前には、通行人が多かったことであろう。京都と九州を結ぶメインルートだったから。