鬼井江の世界(gooブログ)

山陽道歩き旅③ (12三石宿→13片上宿)2023年1月10日 日帰り

 予定通り、(冬の)青春18切符利用最終日(1月10日)に山陽道歩き(3回目)に出かけてきた。早朝4時に目が覚めたので、前回よりも早く家を出た。堺市駅を午前6時過ぎの列車に乗ったので、前回の終わった地点(JR三石駅)に到着したのは、午前8時45分だった。

 駅から階段を下りてくると、真正面に「三石一里塚跡」の碑があった。(前回は駅ばかり探していたので、気が付かなかったが)この日は、すぐに見つかった。この碑から「三石の町並」は、まっすぐ南西に延びていた。しばらく行くと三石宿本陣だった建物があった。「かどや旅館」の建物だが、現在は旅館は営業していないらしい。立派な建物で、(ある資料によると)総畳数130畳の規模だったということである。外観を写真に収めて、歩き旅を進めた。

 三石宿は、山陽道が播磨国と備前国とを結ぶ往来の多い場所ゆえに、古くから交通の要衝で、参勤交代や商売人の移動に際しても、宿泊や休憩所として繁栄していた。しかし、現在の三石宿周辺には、耐火レンガの工場や蝋石(ろうせき)の工場などがあり、レンガ造りの建物や煙突が印象的でした。山の工場らしい風情が感じられるところになっていました。時代の変化に対応している町なのでしょう。

 三石の(山陽道)町並みを過ぎると、交通量の多い国道2号線を歩くことになりました。安全な歩道もあり、車の音はうるさかったですが、緊張しなくて歩くことができました。弟坂、兄坂と呼ばれる緩やかな長い坂を歩き、片上宿(瀬戸内海・方上津)を目指して歩きました。

 国道を歩くことが多かった。高速道路の下を通過後、小公園のある個所に出た。その場所には、「明治天皇八木山御小休所阯」の碑と「旧山陽道 八木山一里塚跡」の碑があった。

 二軒屋という所から四軒屋という所まで国道2号線を進み、「四軒屋」の信号から右に入って行った。山陽道らしい道幅で、車もほとんど通らない道だったが、旧家らしい家並みが続いていた。(山陽道らしい道だったので)ゆっくりした気分で歩くことができたました。途中、持参していたサンドイッチを食べて、昼食休憩を取りました。

 山陽道を歩くにつれて、一本松集落という所に至った。そして、「備前焼桂花園」の前を通るとき、立派な塀の下に「藤之棚茶屋跡」と書かれた白い標柱を目にした。江戸時代、備前藩主の休憩所があり、湯屋も作られたという場所だった。

 「天神宮」の地点で、(国道の横断用の信号はなかったが、陸橋があったので)階段を上がっていくと、片上の町が見えた。(おっ、片上宿が近づいたぞ!)と、感激。遠くの方だが、水面が見えていた。(方上津の港かも?)と想像してみたのだった。いよいよ瀬戸内海が近そうに思われた。

 国道2号線を陸橋利用で横断し、山陽道を進んでい行った。JR赤穂線の踏切を渡ると、片上宿中心部へとつながっていた。家々が連なり、備前市の一部らしく、いわゆる「市内」の地域であった。

 片上中心部に至ると、「宇佐八幡宮」があり、鳥居の前の狛犬は備前焼(こげ茶色の狛犬)でした。八幡宮の前に「旧山陽道 片上宿(方上津)」と書かれた「白い標柱」が設置されていました。片上宿の地は、「方上津」と言われていた所で、(津=港だから)、瀬戸内海の良港の一つだったのでしょう。

 さらに中心部(本陣のあるところ)を目指して歩いていくと、売薬の祖「万代常閑翁跡」の碑がありました。岡山はいろいろな分野で活躍した人が出ている県だなあ、と思いました。

 (海が近い雰囲気の)川を渡り、山陽道が直角に曲がっている付近で、「本陣跡」が見つかりました。『片上駅本陣小國邸趾』と書かれた石碑と説明板でした。建物は何もなく、石碑だけでした。

 この碑を確認したことで、本日の歩き旅は終了としました。来た道を少し戻り、JR赤穂線の駅、「西片上駅」発、13時50分頃の列車に乗り、播州赤穂駅→姫路駅→大阪駅→堺市駅へ。

 帰宅時刻は午後4時30分ごろでした。まだ明るい時間帯に帰ることができましたが、朝が早かったので、少し疲れました。本日の歩数は29040歩でした。約17kmほど歩いたようでした。地図上の距離は12kmほどの行程ですが、あちらこちらへ寄り道したり、間違った山陽道を歩いてしまって、戻ったこともありましたので・・・。歩く歩数・距離が増えてしまいました。山陽道歩きは、「街道歩きの案内板や案内矢印」が少ないので、迷うことが多々ありますが、歴史を感じながら楽しんで歩いています。

 次回の山陽道歩き④は「冬の季節」になりそうです。春夏秋は「中山道歩き」の残りの宿場を歩く予定をしています。   

 以上、山陽道歩き③の記録です。写真も参考にしてください。

 

JR三石駅 階段を降りたところに「旧山陽道 三石一里塚跡」の標柱があった。

すっきりとした新しい標柱だった。

耐火煉瓦工場 右手の大きな木造の建物に目が吸い込まれました。レンガの煙突も風流で、よかったですね。

三石宿 本陣だった建物がどっしりとした感じで残っていました。本陣の建物が残っているのは珍しいことですよ。(本陣だったところは、ほとんど「跡」の碑のみに。碑すらない本陣も何か所もありました。)

国道2号線=山陽道そのものと重なっている道もありました。 大型トラックがビュンビュン・・・。交通量が多い。流石、国道2号線の交通量は多かった! 岡山まで35kmの地点でパチリ。

国道2号線脇に「 旧山陽道 八木山一里塚跡 」の石柱がありました。

国道2号線から少し離れた道(=山陽道)の道幅は、(写真で推測できると思いますが)2m~3mぐらいでした。車が一台は通れる道幅でした。家並みのある山陽道は比較的ゆったりしていました。中山道は山の中の狭い道が多かったので、つい比べてしまいました。旧家風の家も多かったですね。(大火にあった集落・家並みが少ないのだろうと、想像しました。)中山道は、焼けて建て直した宿場が多かったようです。火事が発生すると、消火しにくかったのが、中山道だったのかな? と、勝手に想像しました。

国道2号線の陸橋から片上宿の町を撮ったもの。右の車道が国道2号線。すぐ左の下っていく道が山陽道で、線路を渡ると、街中へ続いている。線路はJR赤穂線。単線で、昼間は1時間に1本のダイヤ。

遠くに水面が写っています・・・ 昔、「方上津」と呼ばれていた天然の良港だったようです。江戸時代は「片上宿=片上駅」と呼ばれていた所。駅とは、「馬継場」・「船着場=港」・「宿場」などの意味でつかわれたところでした。片上は、「海路」と「陸路」による多くの利用者ゆえに、たいへん賑わったことでしょう。

宇佐八幡宮 鳥居の前の狛犬は備前焼(こげ茶色の狛犬)でした。 宇佐八幡宮鳥居の前に「白い標柱」が設置されていました。昔は「方上津」と言われていた所で、(津=港だから)、瀬戸内海の良港の一つでした。

片上宿の地は、売薬の祖(薬祖)と言われる「万代常閑(まんだいじょうかん)」の出身地とのことで、白い碑がありました。万代常閑は、岡山よりも、売薬で有名な富山県で有名な人物らしい。

片上宿本陣跡の石碑 「片上駅本陣小國氏邸趾」と書かれていました。 駅=宿場や船着き場の意味があり、どちらかといえば、船利用で片上に来た人も多かったのかも? 江戸時代は山陽道の宿場として賑わったことでしょう。現在、建物はまったくなく、本陣跡の石碑だけでした。

この碑を確認したことで、本日の歩き旅は終了としました。来た道を少し戻り、JR赤穂線の駅、「西片上駅」発、13時50分頃の列車に乗り、播州赤穂駅→姫路駅→大阪駅→堺市駅へ。

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