鬼井江の世界(gooブログ)

山陽道歩き旅④ (13片上宿・JR西片上駅 → 14藤井宿手前・JR上道駅へ) 4月10日・日帰り

 4月10日、青春18切符利用で「山陽道(西国街道)歩き旅」をしてきた。青春18切符5回分のうち、残り1回分を使用期間最終日(4月10日)に利用。天気に恵まれ、快適に歩くことができた。

 山陽道歩き旅は、今まで(①②③)に山陽本線・龍野駅 → 赤穂線・西片上駅まで歩いてきている。宿場としては「9正條宿」→「10片嶋宿」→「11有年(うね)宿」→「12三石宿」→「13片上宿」まで歩いてきた。

 今回は片上宿→藤井宿手前まで歩いた。この日の歩数は約31000歩。18kmほど歩いたことになる。

 JR堺市駅を午前7時過ぎに乗車して、赤穂線・西片上駅に到着したのは、午前10時43分。山陽道の片上宿中心部(片上宿本陣跡)から歩きだした時刻は、10時50分でした。

 片上宿(1月10日の続きの地点)から再スタート。赤穂線は単線なので、駅での待ち時間があり、思うように進行してくれない。(早く西片上駅についてほしかったが、意外に到着時間がかかった。)

 「お夏清十郎」という駆け落ち事件が発生したのは、江戸時代の中期のこと。「お夏清十郎」の話・事件をご存じの方は少ないだろう。(もっとも、私より年上の方は知っておられる方が多いらしい。歌舞伎や浄瑠璃、映画などにもなったらしいので。) 話の結末として、捕らえられた「清十郎」は罪人として処刑されたが、「お夏」は生き残った。その「お夏」の墓や生き残った後、葛坂峠の茶店で働いていた「茶店の跡」があった。山陽道で、片上宿からしばらく歩いて行った葛坂の途中に墓、峠に茶店跡があった。お夏のことを詳しくは知らなかったので、この話の歴史を知りたくなりました。それで、休憩がてら、ちょっとスマホで調べてみました。

 そしたら・・・・

【 姫路の米問屋・但馬屋の手代の清十郎は、主人の娘お夏と密通、大坂へ駆落ちしようとしたが、運悪く捕らえられ、清十郎は大金を盗んだ嫌疑まで受けて死刑となり、お夏は恋しさのあまり気が狂う。 】

 という話・事件でした。解説によると、清十郎にかけられた嫌疑は事実ではなかったのですが、お夏に恋する同僚の嫉妬からのたくらみから清十郎に嫌疑がかかったとのことでした。お夏に責任はないとはいえ、絶世の美女は、知らず知らずのうちに事件の遠因となっていたようです。こういうケースは、世界中でもいろいろあるものですね。駆け落ち事件で、お夏は謹慎処分ですんだようですが、(江戸時代ゆえに謹慎中は清十郎に関する情報は知らされることはなく) 恋する清十郎が死刑になっていた事実は知らされることはなかった。お夏は、清十郎が生きてどこかにいるにちがいないと思って、探し回ったらしい。しかし、みつからなかった。清十郎への恋心は募るばかり・・・。お夏はとうとう乱心してしまった。 

 この話には脚色もあり、いろいろ(お夏のその後・死亡はいつ?)と伝説があるようです。姫路での出来事が、なぜ(備前国)片上宿の近くの葛坂峠の茶屋でお夏が働くことになったのか? そして、お夏の墓が葛坂にあるのか? など、「伝説」が事実なのか、脚色がもたらした「事実が変化した話」なのか? など、あれこれ想像した「山陽道歩き」になりました。

 「その後のお夏」についての説は、二つあるそうです。一つは、清十郎が処刑されていたことを知って、間もなくお夏も清十郎のもとへ行った。つまり、自殺して果てたという説。

 二つ目は、清十郎が処刑されていたことを知ったが、姫路の地を離れ、お夏の心を支えてくれる人のおかげで、茶店で働きながら長生きすることができた。清十郎の死を知っても自殺しないで、人生を終えたという説。

 たぶん、二つ目の説と関係するのが、「葛坂峠の茶店」であり、「お夏の墓」なのだろう。(と、私は推測した。さて、事実は? )

 今回の山陽道歩き(ブログ内容)では、「お夏」についての記述が多いのですが・・・。特に印象に残った場所だったので、長い記述になりました。

 さて、葛坂峠を過ぎてからの山陽道について。

 JR伊部駅近くの山陽道(西国街道)は、備前焼の中心らしく、備前焼の店・工房・焼窯の煙突が並んでいた。店を見学している人は(この日は)少なかったが、外国人団体がある備前焼店からたくさん出てきたとき、「さすが備前焼、国際的だなあ!」と思った。コロナが落ち着いてきたので、来日外国人も増えてきているらしい。

 不老川にかかっている橋の所で、休憩用のベンチがあった。そこで、しばらく休憩した。旧街道とはいえ、結構車の行き来が多かった。山陽道(西国街道)は狭いの道なので、どの車も対向する時はゆっくりになっていた。

 休憩した地点の山陽道の表示には、「備前焼本通り」と書いてあった。備前焼本通りに面した家々には、味わいがあった。ちなみに、近くの天津神社の狛犬は備前焼だった。

 しばらく山陽道を歩いていくと、香登(かがと)地区に到着した。読み方の難しい地名だった。(JR香登駅もあるので、駅名読み方の勉強になった。) 吉井川の近くなので、吉井川が川止めになった時は、江戸時代旅人にとって重要な「間(あい)の宿」として栄えたらしい。香登の家並みには「街道情緒」が残っていた。雰囲気があった家は、『鷹取醤油』という明治期からの醬油さん。うだつを備えた立派な建物でした。醤油の販売以外にソフトクリームも販売していたので、中に入り休憩がてらいただいた。おいしかった。

 近くに教会があったので、写真を一枚。(へぇ…山陽道に面したキリスト教会、珍しいなあ!)と独り言。

 香登を過ぎてから、吉井川(岡山県の大きな川)の堤防道(国道2号線)に沿って歩いた。近くに『備前長船刀剣博物館』があるようだったが、月曜休館とのことで、寄らなかった。備前大橋という大きな橋を渡り切った地点に、「岡山市東区」の標示板があった。(いよいよ岡山市に入ったぞ!)

 樽原という地点を過ぎると、岡山市立上道(じょうとう)中学校の校舎が目についた。(いよいよ、本日の目標地点=JR上道駅が近そうだった。)山陽新幹線の列車が見える地点に至り、新幹線に沿うように走っている山陽本線のレールも確認できた。

 上道(じょうとう)駅発15時55分の列車に乗りたかったので、急いだ。腕時計を見たら、(あと5分しかない!)と焦った。必死で歩いたが・・・、乗れなかった。上道駅に到着できたのは、16時10分だった。残念!

 15時55分に乗れていたら、帰宅時刻は午後7時ごろになる予定だった。(歩き旅において、地方駅では)一本遅れると、帰宅は1時間近く遅れることがある。そういう経験をしているので、今回、残念な思いをした。

 案の定、この日の帰宅時間は、午後8時になってしまった。疲れもあって、お腹がすいていた。自宅で夕飯をすぐに食べることができて満足。夕飯を用意して待っていてくれた妻に感謝。 

 次回(中山道・残り9宿完歩後の12月ごろになるかな?)は、(上道駅近くの)14藤井宿近辺 → 15岡山宿方面へ歩く予定。

 (今回の記録は以上です。)  

 

花が供えられている墓石=「お夏」の墓

葛坂峠の「お夏茶店跡」 悲恋の美女お夏が働いていた「峠の茶店」ということで、繁盛していたとのこと。それほど高地ではない峠でしたが、見通しがよく、地域の家々が見下ろせる峠でした。一休みするのに適した場所でした。明治天皇は西国巡幸の際、馬に乗ってこの峠を越えたとの記録あり。

山陽道に面した立派な家が何軒か目にしました。

鷹取醤油 うだつ(装飾した防火壁)を備えた立派な建物

山陽道に面したキリスト教会(逆光で一部写りが悪いですが…)歴史ある建物でした。

吉井川に架かる備前大橋(写真右が車道で、私が歩いた橋は歩道。安全な幅の広い歩道でした。)

正面の先が、岡山市東区。長い長い橋でしたね。

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