Lost And Found

人生失くしたもの・・みつけたもの・・

モンスタークレーマーの洗礼

2020-02-17 16:50:07 | 僕がヤマトでウツになったワケ

4からのつづき

 

 安全運転には神経質なまでのルールを設けるヤマトの社内免許をようやくパスし、

当時のセンター支店長と主管へ、面談及び乗務許可証を受けに行くことになりました。

会議室には主管支店長と安全課長がいました。

 

「最初はいくつ荷物を持たせるつもりか?」との主管支店長の問いに

センター支店長は、「80個ほど」という返答をしていましたが、

実際稼働して受け持った数は毎日100以上。

新人とて手加減はなく、毎日その日の全量を普通に持たされました。

 

 こうして稼働して10日ほどたったある日、

まだ慣れない私は、ある家に午前中指定の荷物を19分遅れてようやく届けに行くことができました。

そこは沿岸部のある種「癖のある人達」が住む地域です。

インターホンを鳴らし、申し訳なさそうに荷物をお持ちしたことを伝えると、

応対した女性がすぐに玄関口に出てくるわけでもなく、誰かとなにやら話をしているのがインターホン越しに聞こえます。

何か嫌な予感がしました。出てきたのは年配の見るからに醜悪な小太りの男性でした。

時間に遅れたことを謝ると、時間を守らなかったことに対し烈火の如く怒り、

「お前の名前は何だ?」「歳は幾つだ?」質問を浴びせます。

ひたすら謝っているとそれがさらに火に油を注いだようで、

頭の先からつま先まで舐めるように値踏みするように見られ、

 

「見るからに40そこそこの様だが、

お前の歳で仕事もできない出来損ないは

俺の会社では即クビだ。上司を電話口に出せ。」

 

と言いました。

ひたすらにあやまる私でしたが、持っている携帯を寄越せ、と食い下がります。

私は仕方なく支店長に電話をし、事情を説明し、その男に携帯を渡しました。

この時私は何か取り返しのつかないことをしてしまったかのような錯覚に陥りました。

携帯を手にした男はこれまでの発言を同じように繰り返し、

自称会社社長であること、この後出張に出かけること、

 

「列車に遅れたら補償しろ」

 

と言い出しました。

これは普通に金品の要求、恐喝に当たります。

謝罪の強要も場合によっては強要罪に当たります。

 

 時間指定配達はサービスの一環です。

たとえそれが遅れたとしても責任をヤマトが負う必要はないものです。

それは送り状の一枚一枚にも明記されています。

 

 最終的には支店長が過失とも言えない事案に平謝りすることで客の気持ちを落ち着かせ収まった事件でしたが、

モンスタークレーマーというものの存在、正しいことも客に言えない事なかれ主義のヤマトの社風、

客扱いの難しさ、人間の醜さ、やりきれなさを思い知らされた最初の出来事となりました。

 

ちなみに私はこの家人から出禁となりました。

 

 

 

 

 

 


軽四限定、初めての配達

2020-02-17 16:03:01 | 僕がヤマトでウツになったワケ

3からのつづき

 配属されてから半月。夏の繁忙期がやってきました。

私は先輩ドライバー達の援護を行うため、軽四での配達をすることになりました。

彼らの助手席の横乗り指導と軽四での社内免許試験を受けた後、

軽四限定でようやくひとりで配達することを許されました。

 

 その地域はドライバーが回るべきコースの1地域にしかすぎず、

それでも一日に80個は配達しなければならない郊外の古い住宅地です。

ですから日中から年寄りも多く、在宅率の比較的良いところでした。

土地勘のない私はスマホのグーグルマップを駆使し、

時には会社のルール、各荷受人宅のローカルルールに戸惑い、失敗ながら

なんとか毎日の配達を乗り切って、初めての繁忙期を終えました。

この頃の私はまだまだ見習い期間。

安い給料でしたが、ある意味達成感を感じていました。

 

 9月になり、私を独り立ちさせて1コース担当させようという話がようやく持ち上がりました。

しかし毎年秋の交通安全週間に合わせて社内で行われる「事故ゼロ運動」期間に

事故の可能性が高い新人を稼働させるわけにはいかないとの理由で、

私の独り立ちは10月以降、ということになりました。

それまでの間、私は社内免許を取るための実績づくりと横乗り、乗務訓練をすることになりました。

 

この頃の私は自分自身がウツに陥ることなど知る由もありませんでした。

 

つづく

 

 


センター配属

2020-02-17 14:47:16 | 僕がヤマトでウツになったワケ

2からのつづき   

 配属が決まった先は自宅から車で30分のセンターでした。

朝アシをしていた建屋同様、ヤマトのセンターはどこも粗末で小汚い感じなのは変わりません。  

先輩ドライバー達は20代~50代までいましたが、年齢層が高めに感じました。

主力である選手が40代、50代・・これが3K、運送業の現実なのかもしれません。  

 

 新しい場所で自分の居場所を確立するには自分を受け入れてもらう努力をしなければいけません。

これがある意味私にとって苦痛です。

特にその相手が年下だった場合、余計な努力、つまり時にはバカを装う小細工も必要になってきます。  

40代の私を相手にマウントを取ろうとする20代、 仕事はできるが気分屋の30代センター長は多少厄介な相手ですが、

その他の40代、50代ドライバーはとてもいい人たちでした。  

また一方、受付・事務・作業を行うスタッフも気を使う相手でした。

20歳~50代までおり、一番若い20歳の女性スタッフでさえ既にお局化しているので、 彼らとの接触も気を使いました。  

そんな中、当然私はヒエラルキーの一番下からのスタートです。 

 

つづく

 

 

 

 


面接、入社へ

2020-02-17 14:03:57 | 僕がヤマトでウツになったワケ

1からのつづき 

 私は20年以上も手に付けた職をかなぐり捨ててドライバーになることを妻に相談しましたが、
安定した収入を得られるという理由で逆に歓迎され、私としても複雑な気持ちだったのを覚えています。
できれば家業を続けていきたかったからです。

 朝アシを始めて1年が過ぎたある春のこと、
私は上司の支店長にドライバーになりたい旨を伝えました。
新入社するには年齢が高いが、これまでの働きぶりを考慮し、応援していただけるとのことでした。

 その後程なくして主管と呼ばれる本部へ面接に来るようにと言われました。
普段着ることのないスーツを着て行きました。
特に試験はなかったように記憶しています。

 人事面接官に「何になりたいの?」と再確認されましたが、
ヤマトといえばドライバーしか知らなかったので、ドライバー志望で、と伝えました。
やはりそこでも年齢が問題とされました。
しかしそこは支店長の応援とドライバー不足という理由もあってか、
「特例で」という理由で入社が認められました。

 その後、私はその他中途採用されたドライバー志望の方々と、
今思えば実務にあまり必要のない研修や初めての2トントラックの運転研修を受け、
隣町の某センターに配属することが決定しました。

 その頃の私は、(今となっては信じられませんが、)今後の生活を救っていただけるであろう会社に報いなければという気持ちと、
新しいことが始まる不安でいっぱいでした。

水田の稲の青葉が風に揺れる初夏のことでした。

 

つづく

 

 


はじまり

2020-02-17 12:20:11 | 僕がヤマトでウツになったワケ

 鬱とはそれまで全く無縁だった私がヤマトで鬱になるまでに至った経緯をここに記します。

 私がヤマトと関わるきっかけとなったのは、家族の生活を守るためでした。
生業とする家業の不振からダブルワークをせざるを得なくなったためです。
選択肢のあまりない地方において、本業との両立を考えると
朝の荷物仕分け作業のアルバイト(朝アシスト:以降朝アシ)が都合がよかったためです。

 出勤は毎朝6時。3時間~3時間半の労働時間で休日は週1回。
月に5万ほどの収入になったでしょうか。
朝アシ作業は倉庫で行いますから当然空調等はなく、冬は寒く夏は暑い現場です。
同僚には定年後の生活のためやむを得ず働く老人が4人、
新しい就職先を探すため求職者雇用支援センターに通う元トラックドライバーが1人、
ニートをしていたような若い女が1人・・
彼らの一人として加わった当初、とうとう僕も行きつくところに行きついた、
そんな悲観的な気持ちになったのを覚えています。

 仕事自体は繁忙期以外はきつく感じることはありませんでした。
しかしドライバーにはいい奴も悪い奴もいました。
相手は朝アシ、ということで態度は横柄、
人を鼻で使うようなベテランやきつく当たってくる新人さえいます。
目の前の朝アシもいつかは客になる、そういったことも分からないのでしょうか?
同僚の老人には正社員とは問題を起こすなとはアドバイスされましたが、
血気盛んな私はフリーランスなんだという自負という強みから、
例えヤマトに所属するアルバイトといった立場であっても、
そういった連中にははっきりと言ってやりました。

 そんな中、前述の元トラックドライバーが再就職先を見つけてヤマトを卒業していくことになりました。
私たちは皆彼の前途を祝って送り出しました。
そのころまでには朝アシの一員として馴染んでいる自分がいました。 
私も新人さんを教える立場となり、主管の支店長にも名前を覚えてもらえるようになりました。

 しかしこのままではよくない、そう思っている自分がいました。
本業の手詰まり感、本業に影響を与える消費税増税の決定、これから大きくなっていく子供・・
私は悩んだ挙句、妻と信頼できる数人に相談をし、ある決断をしました。
ヤマトのセールスドライバー(SD)への転身です。

つづく