今日が平成の最終日となりました。テレビなどでは、平成の出来事を話題にしています。私にとっての平成だったのだろうと考えてみました。
平成になってから、大きな災害が何回もありました。中でも阪神・淡路大震災と東日本大震災には、大きな被害が出て日本全土が悲しみに覆われました。阪神・淡路大震災の時はテレビの映像だけが情報でしたが、東日本大震災はスマホの普及で多くの動画が記録として残りました。配信された津波の映像にはかりしれない驚異を感じました。さらに、「福島原子力発電所が爆発した」という情報によって叩きつけられたような痛みの絶望感に襲われました。
東日本大震災発生時、柏食品衛生協会で働いており、会員の視察研修に参加できました。視察先は震災から半年後の東松島市・野蒜海岸周辺でした。
2011年当時の『かしわ Women's Life』に掲載した記事です。
半年後の東松山市は、まだまだ傷跡も生々しい状態でした。多くの家屋は、礎石のみを残して流されたり、半崩壊状態でした。野蒜海岸周辺の松林は破壊され、残った木も塩害で枯れていました。
3年後にも視察研修が行われ、参加しました。3年を経た東北被災地の復興を視察するのが課題です。
2013年発行の『かしわWomen's Life』の紙面記事です。
上記紙面に加えて、この視察では福島原子力発電所周辺の街にも訪れました。避難解除がされていないため、街中には人影はありません。道路を走る車もありませんが、信号機は作動していました。
気仙沼横丁 気仙沼の街中の家屋は壊れたまま、病院は稼働していました
陸前高田市の市役所玄関に供えられた花束 市役所の建物3回まで津波の被害を受けています。
陸前高田市は、がれき類の整理に取組んでいました 大きな鉄筋が剥き出しになっています。
震災から8年たちました。その後の被災地に実際に足を運んでいません。陸前高田市の街づくりの活動を、テレビのドキュメントで知りました。高田市に限らず他の被災地も、原子力発電所の事故さえなかったら、もっと早く復興できたかもしれないと思います。
まだまだ、亡くなった方の捜索も続いています。亡くなった方々のご冥福と一日も早く東北地方が元の元気を取り戻しますことを願っています。