emiko life 181話に続き、羽生選手の話題です。
四大陸選手権の男子ショートが、終わりました。鍵山選手と友野選手も良い滑りでしたが、特に羽生選手は、安定した、きれいな滑りでした。
羽生選手が、プログラムを平昌オリンピックと同じものに戻したこともあり、久しぶりにフィギュアスケートを満喫できた感があります。
全日本選手権のフリーで崩れた羽生選手。どう立ち直るのだろうと思いました。
エキシビションとして行われた「メダリスト・オン・アイス」で、SEIMEIを滑った羽生選手の姿を見て、
「あぁ、良い滑りだなぁ・・・。心が自分のあるべき姿を模索しているのだなぁ・・・」
このとき感じたことは、外れていませんでした。
プログラムの変更を聞いたとき、「う~ん、やっぱりね」
今日のショートの羽生選手は、自分を取り戻していました。
manablogのマナブさんが、深く理論を展開するときによく使う言葉、「深掘りをすると」を、私も「う~ん、やっぱりね」の判断に、使ってみたいと思います。
「う~ん、やっぱりね」を深掘りすると、
平昌オリンピック後の新しいプログラムの選択の間違いは、ジョニーウィアー氏とプルシェンコ氏の名前が付いたことにありました。
その二人の名前がそのプログラムを滑る度についてくることになりました。
目指すとして掲げた二人は、すでに確立した姿であり、親を超える子どもはいないと言われるが如く、羽生選手は、二人を超える努力の姿を、私たちに見せる滑りとなりました。
羽生選手の滑りであれば、すでに二人に並ぶか、超える滑りが確立できているのに、二人にはなれないを実感するまで、努力してしまいました。
加えて、ジャンプの回転数による高得点、高評価の風潮が強くなり、ジャンプに固執する滑りになってしまいました。
この点についての羽生選手の言葉です。
・・・・難易度を難しくすることはすごく自分自身にとっても楽しいですし、それを達成できた時の喜びは計り知れないものではあるんですけれども、なんか、自分が目指しているスケートっていうのは、ただ難しいことをするスケートじゃないなって思ったんですよね。・・・・
・・・・技術的なことに関して言えば、やっぱり高難易度のものを入れれば入れるほど、やっぱりまだ僕にはスケートの部分がおろそかになってしまったりとか、曲から1回頭を変えて、曲を1回外して、そのジャンプにセットしにいかないといけないというのがやっぱり嫌だった。それがやっぱり耐えきれなかったっていうのが大きいです。・・・・
この言葉は、羽生選手の原点と言えると判断しています。
2年位前(?)にNHKで狂言師の野村萬斎氏との対談番組が放映されました。
話題は、同じ「SEIMEI」を、狂言で表現するときとフィギュアスケートで表現するときの、表現あり方の違いなどでした。
狂言で一つのことを表現するとき、周りにあるものすべての息づかいや風や・・・その万象を捉えて表現するという野村氏の言葉に深く感動した様子の羽生選手。
「氷上でも、観客の息づかい、ジャッジの関心など会場の大きな風を感じて立っています。ジャンプも飛ぶぞの気持ちではなく、曲の中の滑りの流れに沿った形で飛んでいます」
野村氏の言葉に感動し、深い学びを得た喜びに溢れた表情の羽生選手でした。
ーーー会場の息づかいや風と一体になった滑りを、これからも目指したいーーー
オリンピック後の話題の渦中で、この言葉は、もしかして忘れられていたかもしれません。
高難度のジャンプを飛ぼうとすれば、頭から曲を外して飛ぶことに・・・
「曲から1回頭を変えて、曲を1回外して、そのジャンプにセットしにいかないといけない」・・・・この言葉は、羽生選手が作り上げた滑りにとって致命的です。
曲と滑りが一体的にならないと、羽生選手のフィギュアスケートではない。いいえ、全ての選手にとって、言えることなのでしょう。
この羽生選手の原点は、フィギュアスケートの原点と言えるはずです。
ジャンプの回転数だけが注目されたり、高評価を受けたりしないように注意し、全ての選手が、自分の持てる最高の業で競技を競えるフィギュアスケートであって欲しいです。
ただ、漠然とですが、今感じていることです。
「羽生選手が変われば、フィギュアスケートが変わる」
フィギュアスケートをこれほどの高みに牽引してきた羽生選手です。
羽生選手が自分のフィギュアスケートが少し違う方向にいっていると気がつき、修正するなら、他の選手も自分のフィギュアスケートを滑ることに全身全霊を傾けて練習に励むはずです。
フィギュアスケートが自ずと変わることでしょう。😇