すず・レポート H26.6.22 SUN
2019年 開港150年に向けて
平成26年度 景観講座
6月22日(日)、景観講座の講師は、ご存じ「結いの会」メンバーでもあるS氏。
会場「ほんぽーと」での講座・町歩きガイドは圧巻でした。
今まで断片的な知識として、頭の中に残っていた事柄が、どんどんそのつながりを明らかにしていく、その瞬間瞬間は、とてもスリリングな体験の連続でした。
ここに、誇り高き『ぬったりもん』がいる。
その、全貌、いや一部でさえ、再現は難しいと思えました。
ここはひとつ、皆様の後押しで、もう一度この講座・結いの会バージョンの再現を、ぜひ。
(前回の、あの真冬日の、極寒の、沼垂町歩きに参加できなかった思いを、ここで晴らしたい。)
ということで、当日配布された配布資料・レジュメ1ページ目等を再現し、ご紹介することとします。
(う~~~ん、そのくらいしかできない。能力ないなぁ。すみません、皆さん。)
湊町新潟 川の流れと景観の変化
みなとまち新潟は2019年に開港150周年を迎えます。
その港でもある信濃川の河口の地形は、これまで幾度となく変化を繰り返し、
沼垂はその影響を受け何度も移転を重ね、
1684年に現在の位置に移転しました。
信濃川には中洲ができ、
その中洲が徐々に形を変え、開発され
町が創られていきました。
今回の講座では、川の流れの変化により移り変わってきた、都市の景観について学びます。
1 砂丘の町、新潟 (新潟砂丘は、70kmにおよぶ日本最大級の砂丘地)
砂丘は、・阿賀野川の砂が主成分、信濃川と阿賀野川の砂が混在
・海の離岸流が運んだ砂が主成分
との諸説がある。
新潟大学の卜部教授の調査では、新潟砂丘は移動していない。鳥取砂丘のように丘が動いていない。
それで、砂丘の遺跡は同じ位置にあるので、遺跡と砂丘は同位置。(渟足柵、秋の発掘に向けて)
2 流量が日本1の信濃川と流量3位の阿賀野川が合流してある新潟は、新潟県、福島県、山形県などからの流れが、新潟で結束する。
新潟は日本のど真ん中(日本海側開運は太平洋側より大きな役割で、新潟は日本海側開運の中心都市として重要な役割)
新潟は、開運と舟運の結節点にある重要な湊であった。7世紀半ば渟足柵建設は、大和朝廷が位置的優位性に目をつけて建設した。以前に新潟市政において日本海湖水化計画があり、大変有意義な戦略であった。
3 栗ノ木川は、信濃川と阿賀野川の中間に位置していて、亀田郷の排水に重要な唯一の川である。亀田郷の産物と労働力が栗ノ木川を通じて、沼垂に集まりやすかったので、発酵食品工場が沼垂で栄えた。また、北前船で低温のため発酵食品ができない北海道に移出するのに河口港の沼垂はちょうど良い場所であった。
4 新潟町の3度の移転と沼垂町の4度の移転。その町の景観の推移と共通点。
川を挟んで、長岡藩と新発田藩の町は、お互いにライバルとして長い戦いをしてきた。しかしながらライバルがあることは、街の発展にとっては、負の要素になったと思います。
ウォーキング
① 現在、大動脈として再開発中の栗ノ木バイパス
② 栗ノ木川舟運と北前船で発達した発酵食メーカー
③ 信濃川と阿賀野川が合流していたころの川跡
④ 新発田藩米蔵と跡地の沼垂小学校
⑤ 県内で二番目にできた北越鉄道沼垂駅
⑥ 港と線路で建設された日本石油と北越製紙新潟工場
⑦ 煉瓦造りの大きな日本石油工場
資料 ・沼垂地図 川(御手洗瀬側・栗の木川)と堀(八間掘・寺町掘・船入堀・助買堀・五間堀・長嶺堀・)
と通(本町通・古町通・石町通)
・沼垂・隆作場・古信濃川関連地図 数種
・写真 新発田藩米蔵(沼垂小学校)・栗の木川・生活風景・その他
・まちあるきルート
2019年 開港150年に向けて
平成26年度 景観講座
6月22日(日)、景観講座の講師は、ご存じ「結いの会」メンバーでもあるS氏。
会場「ほんぽーと」での講座・町歩きガイドは圧巻でした。
今まで断片的な知識として、頭の中に残っていた事柄が、どんどんそのつながりを明らかにしていく、その瞬間瞬間は、とてもスリリングな体験の連続でした。
ここに、誇り高き『ぬったりもん』がいる。
その、全貌、いや一部でさえ、再現は難しいと思えました。
ここはひとつ、皆様の後押しで、もう一度この講座・結いの会バージョンの再現を、ぜひ。
(前回の、あの真冬日の、極寒の、沼垂町歩きに参加できなかった思いを、ここで晴らしたい。)
ということで、当日配布された配布資料・レジュメ1ページ目等を再現し、ご紹介することとします。
(う~~~ん、そのくらいしかできない。能力ないなぁ。すみません、皆さん。)
湊町新潟 川の流れと景観の変化
みなとまち新潟は2019年に開港150周年を迎えます。
その港でもある信濃川の河口の地形は、これまで幾度となく変化を繰り返し、
沼垂はその影響を受け何度も移転を重ね、
1684年に現在の位置に移転しました。
信濃川には中洲ができ、
その中洲が徐々に形を変え、開発され
町が創られていきました。
今回の講座では、川の流れの変化により移り変わってきた、都市の景観について学びます。
1 砂丘の町、新潟 (新潟砂丘は、70kmにおよぶ日本最大級の砂丘地)
砂丘は、・阿賀野川の砂が主成分、信濃川と阿賀野川の砂が混在
・海の離岸流が運んだ砂が主成分
との諸説がある。
新潟大学の卜部教授の調査では、新潟砂丘は移動していない。鳥取砂丘のように丘が動いていない。
それで、砂丘の遺跡は同じ位置にあるので、遺跡と砂丘は同位置。(渟足柵、秋の発掘に向けて)
2 流量が日本1の信濃川と流量3位の阿賀野川が合流してある新潟は、新潟県、福島県、山形県などからの流れが、新潟で結束する。
新潟は日本のど真ん中(日本海側開運は太平洋側より大きな役割で、新潟は日本海側開運の中心都市として重要な役割)
新潟は、開運と舟運の結節点にある重要な湊であった。7世紀半ば渟足柵建設は、大和朝廷が位置的優位性に目をつけて建設した。以前に新潟市政において日本海湖水化計画があり、大変有意義な戦略であった。
3 栗ノ木川は、信濃川と阿賀野川の中間に位置していて、亀田郷の排水に重要な唯一の川である。亀田郷の産物と労働力が栗ノ木川を通じて、沼垂に集まりやすかったので、発酵食品工場が沼垂で栄えた。また、北前船で低温のため発酵食品ができない北海道に移出するのに河口港の沼垂はちょうど良い場所であった。
4 新潟町の3度の移転と沼垂町の4度の移転。その町の景観の推移と共通点。
川を挟んで、長岡藩と新発田藩の町は、お互いにライバルとして長い戦いをしてきた。しかしながらライバルがあることは、街の発展にとっては、負の要素になったと思います。
ウォーキング
① 現在、大動脈として再開発中の栗ノ木バイパス
② 栗ノ木川舟運と北前船で発達した発酵食メーカー
③ 信濃川と阿賀野川が合流していたころの川跡
④ 新発田藩米蔵と跡地の沼垂小学校
⑤ 県内で二番目にできた北越鉄道沼垂駅
⑥ 港と線路で建設された日本石油と北越製紙新潟工場
⑦ 煉瓦造りの大きな日本石油工場
資料 ・沼垂地図 川(御手洗瀬側・栗の木川)と堀(八間掘・寺町掘・船入堀・助買堀・五間堀・長嶺堀・)
と通(本町通・古町通・石町通)
・沼垂・隆作場・古信濃川関連地図 数種
・写真 新発田藩米蔵(沼垂小学校)・栗の木川・生活風景・その他
・まちあるきルート