このブログは「結いの会」皆のブログ!!

会員皆様が、LIVEで体験した新潟の魅力を感想や写真でこのブログに書き込みましょう。

私の町「新潟市」

2014-07-24 21:54:42 | 街あるき

私は村上の出身です。昭和三十年代中頃に村上高校を卒業した年次のメンバーは、
2年に一回同期会を開催してお互いに励ましあっています。
また、「同期生通信」と言うお互いの心境などの情報交換する「便り」も発行されております。
今回、第42号が発行されましたが、B4版10ページにも及びます。
編集者は同期生の一人が最初から担当され、我々の同期生に献身的に情報を提供しています。
この度、私にも投稿の機会があり、拙文ながら投稿しました。
何の取り得もないダラダラ文ですが、参考に送ります。

私の町「新潟市」 
                         
私の社会人「振出」の地は新潟市です。当時、中心市街地の賑わいは大変なものでした。
昭和39年開催のオリンピック景気の余波の中、同年開催の新潟国体に向けて活気付いていたのでしょう。
とは言いつつも所詮、お金の無い私には無縁の世界。この町に何の興味も持つ事もなく、時間さえ有れば、
安酒を飲むか、映画を観るか、独身寮では麻雀三昧の日々。
見るに見かねた先輩が若いのに将来が心配だと会社の研修機関を受験する様に勧められ、
昭和40年から2年間、調布市にある研修センターへ行く事になりました。
卒業の後は、新発田勤務を皮切りに、以来10回の県内外の転勤を経て平成9年の退職を機に
「上がり」の積りが「振出」の新潟市へと戻りました。
既に我が家は五人家族、生活の基盤はすっかり新潟市に根付いていたのです。
ともすれば終の棲家にもなり得るこの地ですが、何も知らずにこの地に眠るにはあまりにも寂しすぎる。
果たしてこの地は魅力的な地域なのか等と余計な事も考え始めました。
手始めに我が家の周辺を歩き廻ると、近くに「本所」と言う集落がありました。
神社の境内には「この地は本庄繁長から……」と案内板があるではないですか。
こんな所で繁長の名と出会えた事にとても感動しました。
何故なら、繁長の元家臣の末裔に同期生がいるのです。


東区本所「諏訪神社」の由来碑
また、私の住所でもある岡山の地名の由来も近くの神社で知る事が出来ました。

東区岡山「岡山神明宮」の由来説明案内

更には、「平出修生誕の碑」も見つけましたが、何でも、近代日本の法曹界・文学界に
その名を残す偉人である事が分かりました。



東区猿ケ馬場 「平出修生誕碑」

郊外の我が家の周辺ですらこんな歴史が刻まれているのであれば、
市内全域にはもっと輝かしい歴史があるのではと期待を込めて市民大学などに参加しました。
 日本書紀によれば、大和朝廷は北方支配の拠点として大化3年(647y)渟足柵を設け、
翌年には磐舟柵を設けています。何れの柵も遺跡は見つかっておりませんが、
最近、日本史を塗り替える様な遺跡が県北地域で次々と発見されており新潟では古代ロマンが話題となっております。
新潟と言う地名は約400年前に歴史に登場しますが、現在の新潟の町並みの基本は、
上杉以降、長岡藩主となった堀直寄(後の村上藩主)が元和3年(1617y)、
管轄する新潟港を紀州堺の様な自由貿易が出来る様な港町とする事を目指し、「町建令」を発し、
町づくりを推進した事によるとされています。
その後、新潟は日本海側の拠点港として発展しますが、天保年間、薩摩藩などによる密貿易が発覚したため
幕府直轄領となりました。また、幕末には開港五港にも指定されました。
戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟と新政府軍との港の争奪をめぐる熾烈な戦いが行われました。
市内には当時を物語る多くの史跡が点在しています。
新潟は城下町ではありませんが、古代より港町として華麗なる発展を遂げてきた強かな歴史を持つ誇らしい町だと感じている昨今です。
 私は今、「新潟シテイガイド」[検索]活動に参加しております。新潟で待っています。(進ちゃん)
                           


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする