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めったに行かない旅行だけど・・・たまに行った旅行記などなど

尊敬する人物

2016-10-02 18:25:17 | 旅行
先日少しロングなドライブに行ってきました。

行ってきましたのは、こちら
栃木県茂木町にあります「ツインリンクもてぎ」でございます。






レースを見に行ったわけではなく、目的はこちら

「ツインリンクもてぎ」の敷地内にある「ホンダコレクションホール」です。




ここには、Hondaの2輪、4輪の市販車やレース車が数多く展示されています。




やはりお目当てはF1マシンです。
普段からF1マシンも何台か展示してあるのですが、特にこの時期は、
「オール ホンダF1マシン特別展示」として、歴代のホンダのF1マシン30台ほどが集結していたのです。

すべてではありませんが、いくつかご紹介しましょう。

日本初のF1マシン Honda RA271(1964年)



Honda RA300(1967年)



Honda RA301(1968年)



Honda RA302(1968年)



Spirit Honda 201C(1983年)



Williams Honda FW11B(1987年)



Lotus Honda 99T(1987年)



McLaren-Honda MP4/5(1989年)




McLaren-Honda MP4/5B(1990年)



McLaren-Honda MP4/6(1991年)



McLaren-Honda MP4/7(1992年)



Honda RC-F1-2.0X(1996年)



Honda RA099(1999年)



B・A・R Honda 002(2000年)



Jordan Honda EJ12(2002年)



B・A・R Honda 006(2004年)



B・A・R Honda 007(2005年)



Honda RA106(2006年)



Honda RA107(2007年)



スーパーアグリSA07(2007年)



Honda RA108(2008年)



McLaren Honda MP4/30(2015年)




そして数多くのF1マシンの中でも、この1台を見るために、わざわざ栃木まで行ってきたのです。
McLaren Honda MP4/4(1988年)

1988年 「最強のマシン」と、アラン・プロストとアイルトン・セナという「最強のドライバー」を揃えたMcLaren-Hondaは、 
このMP4/4で、F1グランプリ 全16戦中 15勝 ポールポジション15回 ワンツーフィニッシュ10回
コンストラクターズポイントは2位のフェラーリの3倍以上となる199ポイントを獲得するという、
とにかく、当時世界最強の「無敵のモンスターマシン」なのであります。

私がまだ十代のころ、当時「レース大好き少年」だった私は、「富士スピードウエイ」は自宅から近かったこともあり、
グラチャンとかF3000とかCカーの耐久とか、よく見にいっておりました。
F1も見たくて鈴鹿までも数回行きました。
そして今から28年前、1988年10月30日、日本GP決勝日も私は鈴鹿サーキットのS字コーナーあたりにいたのです。

この年、アラン・プロストと激しいチャンピオンシップ争いを繰り広げていたアイルトン・セナは、この日勝利すれば、
初のワールド・チャンピオンが決まるという一戦でした。
ポールポジションはアイルトン・セナ。フロントローにアラン・プロストが並びます。



シグナルがブルーに変わり、51周のレースがスタートします。
S字コーナーあたりで見ていた私は、爆音を響かせながら近づいてくるF1マシンの集団に興奮しながら、
頭の中は、目の前をトップで通過して行くのはセナなのか?プロストなのか?と思っているわけです。
このとき何が起こっているかわからなかったもんですから・・・

「えっ!マクラーレンが1台しかいないぞ! えっ!どっち? セナ?プロスト?」

セナはスタート時にクラッチミートに失敗し、エンジンをストールさせてしまったのです。
スターティング・グリッドが前に傾斜していたことが功を奏し、再度クラッチをつなぎ直すことで幸運にもエンジンを再始動させたものの、
14番手まで順位を落としていたのです。


しかし、セナはレースを諦めず「神がかり的な走り」を見せます。

1周目に8番手までポジションを上げ、10周目には4位まで浮上。この時点で首位プロストとの差は11秒。
セナが順位を上げるたびに、鈴鹿サーキットの大観衆はどよめき、誰もが14番手からのセナの奇跡の勝利に期待するのです。
そして28周目メインストレートでプロストをパスし、ついにトップにたちます。
観客の興奮も最高潮となっていく中、33周目にセナはファステストラップをたたき出し、プロストを突き放していきます。

そして最終ラップ。セナは「自分の隣に神を見た」と話したといいます。
セナはトップでチェッカーフラッグを受け勝利し、この「伝説の一戦」で自身初の、ワールド・チャンピオンを決めたのです。

下の写真は、1988年10月30日 鈴鹿サーキットS字コーナー付近にて、私の撮影したMcLaren Honda MP4/4とアイルトン・セナ


すっかりセナの走りに魅了され大満足のレースを見たあと、大観衆が出口まで向かう流れにのって歩きメインスタンド付近まで来たころでしょうか
人だかりができています。
「おっ!誰かいるんだな?誰だ? 芸能人か?まさかF1ドライバーじゃないよな?」

その人だかりの中には、本田技研工業の創業者であり、当時は最高顧問だった、本田宗一郎氏と奥様がいらっしゃったのです。
この日本田氏は目の前で初めてHondaF1の勝利を見たそうです。1986年の豪州・1987年の鈴鹿と、3度目の正直だったそうです。

本田氏はご機嫌で
「みなさんのおかげです。ありがとう。ありがとう。」と言いながら、笑顔で大勢のファンの握手にこたえています。
そして、私は特別に人をかきわけて本田氏と握手しようとしたわけではないんだけど、なんかタイミングで、
本田氏と握手することができたのです。
本田氏は私の目をしっかりみて、最高の笑顔で「ありがとう」と言ってくれたのです。
その笑顔と手の感触は、30年近くたった今でも、はっきりと覚えています。
自動車修理業から一代で「世界のホンダ」にまでした「苦労人」であり「技術者」であり「人格者」である本田氏と握手できた瞬間に、

私の「尊敬する人物」は「本田宗一郎氏」とさせていただいたのです。







ラーメン屋のチャルメラの音が集中力を妨げたときなどは、ラーメンを買い占めてチャルメラを黙らせてしまった。とか

皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言い、ツナギで出席しようとした。とか

社長を辞めた後、ホンダの事業所や販売店、工場など、当時700ヶ所をすべてを回って、すべての従業員一人一人と握手し、「ありがとう、ありがとう」と言い続けた。とか

ある工場に視察に行った本田氏。 工場を歩いていると、若い作業員から 「おい、おっさん何ポケットに手を突っ込んで歩いてんだ!転けたらあぶないだろ!」と言われ、その後ホンダのツナギからポケットがなくなった。とか

本田氏には、「名言」や「豪快な話」や「すてきなお話」がたくさんあります。

皆さんもぜひ検索してみてくださいね。


その後本田氏は1991年に、
セナは1994年5月1日 イモラのタンブレロコーナーで、
この世を去ったのです。

「おやっさん」そして「アイルトン」
こんなオレにも「すてきな夢」を見させてくれて本当にありがとう。



最近はすっかりF1を見なくなってしまった私ですが、2015年よりF1に復帰したHONDAは苦戦しているようですね。
HONDA関係者のみなさん、本田氏の意志を受け継ぎ、またいつか世界一になることを、陰ながら応援させていただきます。











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