この学校の校舎は、当時から鉄筋コンクリートで、1945年3月10日の東京大空襲の時に
近所の方々が教室へ避難したのですが、激しい火が教室の中まで襲ってきて、大勢の方が亡く
なったそうです。 爺はこの学校へ6年間通いました。その頃、確か3階以上は空襲で焼けた
ままで、立ち入り禁止になっていました。
横網町の震災記念堂(旧被服廠跡 現 東京都慰霊堂)は関東大震災と東京大空襲で亡くなった
方々の遺骨を納めてあるそうです。小学校の授業の一環でここへ写生へ行ったことは、覚えています。
07年2月26日の「昔話:空襲」と3月5日の「昔話:一億一心」に続いて今年も昔の生活を
思い出しました。
空襲で焼けて教室が足りないので、緑小までクラスごとに歩いて、授業を受けに行ったこととか、
自分達の校舎の地下に大量の水が不気味に溜まったままだった、といった昭和20年代の光景が
浮かんできます。
学校正門の向かい側にあったお米屋さんの同級生は、全児童の中で一番近いのによく遅刻していたよな。
あのS君は今どうしているんだろう。お米屋さんを継いだのかなぁ。
爺は小学校を卒業した後、すぐに府中へ引っ越したので、あれ以来一度も会っていません。
今年は、思い切ってクラス会へ行ってみようかな。
平和はありがたいことです。
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