池田鮎美,2023,性暴力を受けたわたしは、今日もその後を生きています。,梨の木舎.(8.11.24)
性暴力被害者自身による9000日の記録。
性暴力被害サバイバーの手記は、けっこう目をとおしているのだが、本書には、類書にはない深みがある。
「治療されるべきは被害者ではなく社会。」という想いのもと、辛い思いをしながら、刑法を変えるべく奮闘する池田さんの姿は尊い。
池田さんは、中学生のとき、親友を自殺で喪っている。
親友は、性暴行を含めた陰惨ないじめによりこころを病み、自殺した。
そして、池田さん自身、二度にわたって性暴力被害に遭い、PTSDに苦しむ。
性暴力を裁く刑法上の犯罪(現在は不同意わいせつ罪と不同意性交等罪)要件の一つに、「暴行または脅迫」というものがある。
池田さんは、暴力に屈する方が悪いとでも言うような、法とその解釈に打ちのめされる。
もしもあの時、抵抗していたら、間違いなく殺されていただろう。今、この古い解説書を持って図書館に立っていることもなかっただろう。腹を立てながら、わたしは解説書をさらに読み進めた。そして次の一節を読んだ時、図書館のフロアがぐらりと揺れたような気がした。
「ささいな暴行・脅迫の前にたやすく屈する貞操のごときは本条によって保護されるに値しないというべきであろうか」(『注釈刑法(四)』、一九六六年、有斐閣発行、団藤重光責任編集)
わたしは思わず座り込んだ。怒りで全身の毛が逆立ち、立ち上がることができなかった。けれども、他の学生たちは笑い声を立てておしゃべりを楽しんでいる。水槽のなかから外を見るような感覚で、彼らの様子を見つめながら、揺れたのは自分の体の方だったと気がついた。わたしは再びバラバラな状態になってしまっていた。
「何かがおかしい」と思った。今は事件が起きた町からは遠く離れて暮らしていて安全なはずなのに、時々こうして、所かまわず、心と体がバラバラになってしまう。刻々と変わる精神症状に、呑み込まれそうな恐怖を感じた。
(pp.50-51)
加害者たちは、嫌よ嫌よは嫌なのだと気がついている一方で、刑法の甘さにはもっとしっかりと気がついていた。日本の刑法が性暴力に関してだけは加害者に立証責任を置いていないことや、それによって刑法が加害者の性的自由を特別に優先してくれることを知っていたのだ。年長者たちのふるまいを見て「刑法から見逃される快楽」を社会的に学んだ彼らは、その快楽によって連帯した。特権意識すら持って連帯した。彼らにとって被害者は連帯するための単なる道具だったので、道具らしく、意思表示をさせないように気をつけていたのだろう。
(p.81)
池田さん等、性暴力サバイバーたちは、刑法改正のための団体を立ち上げ、その結成集会の席で、池田さんは伊藤詩織さんと出会う。
ついにわたしの番がやってくると、わたしの口からは、自然に語りがあふれた。あの日、ジャーナリストとしての自分が壊されたこと、キャリアをすべて失ったこと、N検事とのディスカッション、そして、録音していた音声の文字起こしをして記憶を失った出来事を語った。
詩織さんの目から大粒の涙が零れ落ちた。わたしは驚き、動揺した。なぜかというと、詩織さんは自身の事件の記者会見をする際にも、カメラの前では一度も涙を見せたことがなかったからだ。その毅然とした姿は、わたしにとって、どこかユパを思い出させるものだった。でも彼女の涙を見た時、改めて感じたのは、バッシングに対し毅然と対応をすることができるからといって、傷ついていないということでは少しもないということだった。傷つきを抱えながらも背筋を伸ばしていること。それこそが、本当の強さなのだ。
頬を零れ落ちる涙を両手で拭きとりながら、詩織さんはわたしに語り掛けた。
「鮎美さんは、それをやったんですね。それがどれだけtough(過酷)な作業か、わたしにはわかります」
そして同行者に対して、低い声で「She is brave.(勇敢な人ね)」と言った。同行者は、詩織さんと目を合わせて頷き合った。その一連の様子を見ているうちに、わたしはお腹の底から、大きな力が湧き起こってくるのを感じた。
わたしたちはその日、輪になって未来のビジョンについて語り合い、冗談にお腹を抱えて笑った。性暴力被害者は笑うことなどないと思う人がいるかもしれないけれど、笑うし、仲間と笑えば心からの自由を感じることができた。
「社会を変えよう」
わたしたちは、ハイタッチで別れた。
(pp.168-169)
池田さんは、刑法改正に向けた活動のなかで、力強い、性暴力被害者絶対擁護の言説をものにする。
東京に戻ったわたしは、自分の考えを仲間たちに話した。
「性暴力のなかに、いい性暴力と悪い性暴力がある訳じゃないと思うんです。
性暴力は、力の弱い者だけが遭うんでしょうか。力の強い者は性暴力に遭わないし、遭っても許すことがマナーなんでしょうか。違いますよね。その人の置かれた状況はその人にしかわからない。そんなことは誰にも言えないはずです。それに、そんなことを言っていたら、『わたしには我慢できた』『お前も甘えるな』と、やせ我慢競争になってしまう。
大人が子どもの性暴力に気がつかないのは、大人が大人の性暴力に気づけていないからだと思います。自分が遭ってきた性暴力にも気づけていない。だから子どもの性暴力にも気づけない。本当は性暴力って、どんな人でもどんな性の人でも遭うし、被害者が何歳でも、いい人でも嫌な人でも、偉くても偉くなくても、大人でも子どもでも遭う。性暴力は性暴力です。大人が守られていなくて、やせ我慢をし続けてきて、子どもへの性暴力も放置されてきた。そのことをまず認めた方がいいと思っています。わたしたちは分類される必要はないです。引き裂かれた気持ちになったり、自分を責めたり、どっちの方がより被害者らしいとか、信じられるかとか、強いとか、強くないとか、そんなふうに競わされなければならない理由なんてない」
見ると、仲間たちは黙ったまま、涙を流していた。そしてロ々に、見捨てられた時の絶望を語り始めた──性虐待に気づいていたはずの大人に、無言で見過ごされた瞬間のこと。あるいは職場の先輩から、「そういうのをうまくあしらうことも、ビジネスマナーとして身につけないとダメよ」とたしなめられた時のこと。全員が、SOSを出したのに値踏みされ、なんだかんだ理由をつけられ、見過ごされた経験を持っていた。大人から伝授されるのは、自分の痛みを自らネグレクトする方法ばかりだった。その結果、わたしたちの誰もがコミュニティを喪失していた。放り出され、自分を責め、「あなたを信じる」と言ってくれる誰かのいるところへ、たまたま奇跡的に流れ着くことができた人ばかりだった。ここへ流れ着けなかった被害者たちのことを皆で想った。
その日、見過ごすことには、本当は理由などないのだという結論にわたしたちは至った。わたしたちにその原因があるわけではないのだ。分類されることを拒否してもいいのだという答えを、当事者が手に入れた瞬間だった。
(pp.222-223)
過酷な経験に苦しみながらも、PTG(Post-Traumatic Growth)を成し遂げ、性暴力を容認する社会を糺していく姿は、感動的ですらある。
本書は、サバイバーのPTGを後押しする力となってくれるであろう。
Ayumi Ikeda
池田鮎美-just another self graffiti
目次
1 「なぜこんなに苦しいのだろう」―未成年への性暴力
2 「体が動かない。これは夢かな」―知らない人からの性暴力
3 「刑法を改正したい」―暴行・脅迫要件の衝撃
4 「ここには被害者がいない」―スーパーフリー裁判を傍聴する
5 「無理をする癖がついてしまっている」―DVのなかでの性暴力
6 「被疑者は取引をしたと言っています」―仕事中の性暴力
7 「たぶん普通なら逃げるんだろうな」―トラウマとの闘い
8 「ますはあなたが元気にならなければ」―障がい者手帳を取得する
9 「一般人の感覚で説明できない罪は罪にならない」―法律の言葉への違和感
10 「You have very bad law」―ロビイングと分断の痛み
11 「性被害ってこんなにたくさんあるのか」―言葉で社会を変えていく
12 「強くなれなくても」―法制審議会への手紙
13 「それを奇跡と呼ぶ前に」―新しいスタートライン