¶1 金本位制、たくさん聞いたことがあると思います。 主流経済学教科書とインターネット検索で発見できる金本位制に対する説明を要約してみると、貨幣の価値を金の価値に置くということに過ぎません。 したがってこの説明は、金本位制の本質を見ないようにする側面があります。 金本位制は、国内の通貨制度としてではなく、国家間の貿易に必要な概念だからです。 まず金本位制、金地金本位制、金環本位制を区別する必要があります。 金本位制は残りを包括する概念で書かれていることもあり、意図的なものかどうかはわかりませんが、時々誤解を招いてしまいます。 実際、金本位制(gold standard)は金貨(gold coin or specie)を鋳造して流通させる制度を意味します。 中国、韓国、日本といった漢字文化圏において、正貨と呼んでいる通貨のことです。 貨幣そのものが価値を含んだ金属で造られているのでしょう。 それで「正しい」お金なのですが、これの含意は後述します。
¶2 金地金本位制(gold bullion standard)は、金を銀行のみが保有し、銀行は金との交換が約束された銀行券を発行·流通させる制度です。 金環本位制(gold exchange standard)は国際的な属性のある制度です。 金地金本位制を採択した影響力のある国家が中央銀行券を発行し、この通貨を他の国々がお互いの決済に利用するが、その発券国家に金との交換を要求すると、発券中央銀行がこれに応じなければならない制度です。 いずれも貨幣価値が金に結びついていますが、後のものほど金との繋がりが緩くなる方です。
¶3 ご存知のように、今は世界の主要国の通貨制度が金または他の貴金属と完全に別れた状態です。 1971年、ニクソン大統領が緩くとも金との連結を維持してきた米国中心の金環本位制で金との交換を中断すると宣言したですから。
¶4 再び、金本位制の本質に関する話に戻ります。 金本位制は、国内外を問わず取引自体に関する通貨制度上の一概念であるという印象を与えますが、実は国外取引、つまり貿易に関わる概念であると申し上げました。 なぜなら、ある主権国家の貨幣が国境内でのみ使用されるのであれば、今のように法で強制的に通用させさえすればいいだけ、貨幣の価値をどこかに縛る必要はないからです。 ご存知のように、法とは強制力があってはじめて法であるが、国境を越えるとこれがよく確保されません。 現在も多くの国際実定法がありますが、法律自体の強制力というより、国家間の力の論理によってのみ適用されるのが実情です。 したがって、国家間では「強制通用力」を法律で定めることはできないため、何か通貨を利用した取引においては異なる制御要素が必要だったということが逆に分かります。 実は金本位制の英語表現である「gold standard」は金を「基準」とするという意味です。 国家間の交易では通貨が異なるため、通貨間の価値を比較する基準が必要だったのです。そのため、この基準によって迂回的に通用力を生み出したのです。このような観点から見ると、金本位という単語で「本位」という言葉に適用された命名法自体が若干欺瞞的なものであることが分かります。 実は、専門分野どこでもそうですが、財政と金融でも大衆が実体を直観的に把握できないように意図された命名法が少なくありません。 代表的な例が「公開市場操作」のようなものです。 政府が国債を発行すれば、商業銀行(都市銀行)がこれを買い付け、中央銀行に担保として提供し、そうすると、中央銀行は発券力を利用して提供された担保に相応する金を創造した後、銀行に貸します。 これは現在のお金が「誕生」する過程を最も簡単に描写したものでもあり、全国民が未来に納付する税金を基盤にお金が生まれることを話したことでもあります。 言い換えれば、銀行は完全に自分のものに由来するものがないにもかかわらず、通貨を生成·分配し、これを通じて収益を上げる実質的な権限を持っているわけです。 これは、すばらしい特権です、この操作には「誰もが」参加することもできず、その実質が公衆によく知られているわけでもありません。 ところが「公開」という単語は何か透明で、皆に開かれている感じを与えています。 ちょっと横道を抜けましたが、ともかく金本位制は貿易に関するものであり、名前そのものが大衆的な説明になるには「金基準外貨取引」ぐらいがいいのではないかと個人的には思います。
¶5 国家間の商取引は昨日や今日のことではないです。 非常に歴史が長く、我々が「歴史」という名の下で学んできたすべてがここに結びついたのです。 しかし、制度圏教育では、歴史科目では主に支配階級の治績を年代記の順に並べるだけで、経済史と科学史を詳しく並行させません。 そうすれば、断片的にしか知られていない歴史的事実の本当の背景が明らかになるからです。 簡単に言いますと、全くそうではなさそうなことも大体「お金」のために起こったことです。 信じがたいでしょうが科学分野でもそうです。 私たちが日常で経験する人間関係での葛藤も表面上は理由が様々のようですが、中身を見ると大抵のことは食べていく問題、すなわちお金の問題に帰結するのと同じです。 また脇道へそろうとしているのですね。 いずれにせよ、貿易の歴史は短くありませんでした。ならば、短くない時間の間、金を国際取引のための通貨制度の基準にした理由があったのでしょう。 またこれを廃止した理由もあったのでしょう。
¶6 金貨、つまり正貨を作って使うと貿易上のメリットがあります。 貨幣の素材自体が価値を持つものを作って使うことなのに、だとすればまずなぜよりによってその素材が金でなければならなかったのかを言及することが順序だと思います。 現在金が価値を持つ理由は、これが珍しいからです。 もちろん金が金属学的に持つ優秀さもあります。 よくご存知の通り、電気伝導度と延性においては金が金属の中で一番です。 こうした性質の代わりになるような他の素材がないため、スマートフォンにも金が一部入ります。 この物理的特徴は、錆びにくい金の特性にも寄与します。 貨幣がさびたら困るでしょう。 錆びるということは、酸化して砕け、それで「量」が減るという意味です。 今のように額面に書かれた数字ではなく、それ自体の量がすなわち持っている富の量になるお金を、時間が経つにつれて量が減る物質て作ってして使うと所有者は困るでしょう。また、昔は貿易取引の結果として貨幣を船で移さなければならなかったのです。 海水に落ちてもさびがつかない金は、よい材料だったのでしょう。 そうだとすれば、このような特徴を持つ別の金属があれば、あえて金だけを素材にこだわる理由はないでしょう。 良い例として銀貨があります。 中国と日本が作って使ってしました。 知られている通り、周期律表上同じ軸にある元素は性質が似ています。 金、銀、銅が同じ軸に置かれています。 また、この三つの金属は殺菌力がとてもいいです。 貨幣は取引が盛んになると人の手をたくさん経るんですが、ばい菌を移しやすい物質に作られると困りますね。 金と銀だけでなく、今のパンデミックな状況でも、人々の接触が多いドアノブやエレベーターのボタンなどに銅で作られたフィルムが貼られているのを多くご覧になったと思います。 今のところオリンピックでこの三つの金属で作られた賞を与えるのは、それらが貨幣として使われた歴史的象徴であるとともに加え、それを可能にしたこうした物理的特性による優秀性とも関連があるでしょう。 しかし、金と銀が貨幣に使われた最大の理由は適当に貴重だったということでしょう。 あまりありふれたものだったら金属を確保する能力のある誰かにとっては、貨幣を自ら鋳造して流通させる大きな誘惑になるでしょう。 また、この金属は創造し出すことがほとんど不可能です。 現代の科学では、それが全く不可能なことではありませんが、作るのにかかるコストが、作った鋳貨の価値よりはるかに大きくて作ることができません。 金や銀が素材として使われるようになった背景についての話が、とても長くなったのですね。 これから正貨(金貨)が持つ貿易上の利点を考えてみましょう。
¶7 韓国と日本の貿易を想定してみましょう。 商品は私が好きな日本のビールと韓国の海苔だとします。 両商品の価格は、自国貨幣で表示されます。 ビール一缶が200円で、海苔一袋が2000ウォンですが、交易が初めてだとすれば、互いに相手の通貨の価値がどの程度なのか気になります。 しかし、心配する必要はありません。 一円でも一ウォンでもすべて金で作られています。 実際は実用的で硬さを保つため、他の金属が混ざっていますが、とにかく通貨一単位に入っている金の量だけ分かればいいです。 そうすると、好きなだけビールと海苔を交換して差額を精算しさえすればそれで結構です。 ビールがひときわおいしく、総額(金の量)で海苔よりも多く売れたと仮定してみましょう。 そうすると、韓国のウォンは日本に流れ込むことになります。 日本の貿易商は、このウォンを次回、韓国との取引のために保管してもいいが、そのまま溶かして日本の金にして使ってもいいし、金含量に対する信頼さえあれば、あえて酒造費用をかけて変えるのではなく、ウォンを日本でそのまま使ってもいいです。 重要なのは共通の基準、すなわち金ですから。 実際、正貨が流通した時代は、一国家に複数の国籍の貨幣が流通しました。 日本国内でウォンを基軸通貨である米ドルを経て日本円に両替しなければ、ただの紙切れに過ぎない、それも両替された金額が時間とともに変わる今のウォン(反対の場合の円)とはかなり違う部分です。 前者は貨幣が持たなければならない属性のひとつである「通用性」が広範囲にわたるという点で、後者は価値の「安定性」という点で正貨が持つ長所です。 特に、今の通貨が国境を越えて両替される時、時間と共に価値が変わるのは、貨幣が価値を持つ実物の取引に奉仕するという本来の機能を失い、それ自体が投機の対象になるために発生するものです。これは正義に反するものです。 誰がよりおいしいビールを上手につくるかではなく、誰がより上手に賭博をしたかによって富の量が決まるからです。 この投機可能性は貨幣の「量」を誰が、どれだけ任意に調整できるかの属性によって決まりますが、これに関する今の通貨と正貨の違いは後述します。 いずれにせよ、「量」の観点とは別に、正貨にはこういう投機の可能性はありません。 ギャンブルとは確率的に相補的な他のものがあってこそ、その他のことの犠牲によって利益を得ることができます。 ウォンと円は、名前が違うだけで、すべて同じ金なので、ギャンブル自体が成立しないのですね。
¶8 上の段落でお話した、正貨の長所はある意味、残りの一つの長所に比べると皮相的かもしれません。 上記の例で、日本のビールが品質に優れ、韓国から輸入した海苔の輸入総額よりも多額の輸出であれば、韓国の通貨が日本に流れ込むと言ってしました。 すると、ウォンも日本円と同じ「金」で作られた貨幣であり、つまりすぐに使える貨幣であるため、日本では流通中の総通貨量が増加する効果が発生するのです。 この言葉は日本の物価が上昇するという意味です。 短期間で実物の量より貨幣の量が多くなった状況からです。 そうなると日本のビールの価格も上がってしまいます。 当然ビールの価格競争力は落ちて輸出も減ることになります。ここまでの私の説明は、正貨礼賛論者が言う貿易における「自動調節機能」です。 おそらく、国力の差による一方的な貿易での優位が最終的には手をつけられない力の不均衡を招く状況を自動的に未然に防止できるという意味で言ったのでしょう。 もちろん、どのテキストを見ても自動調節機能の当為性について書かれたものはなく、私の推測がそうだということです。 しかし、この自動調節機能には直観に反する面があります。 良い品質、高い生産量など、一生懸命努力して輸出した結果が、かえって国内商品の対外競争力の弱化をもたらすということは、いくらよく見ようとしても気まずい結果です。 この現象を正しく見るには、以前韓国語で出版した私の卒著『通貨制度による奴隷化作動原理』を書いてて知ったいくつかの原理が役に立つと思います。 閉鎖経済内部で、つまり、一国に限られた範囲内で物価が上がるのは、単に通貨量が増加したからではありません。 その増加した通貨が「すでに存在する」物の購入に利用される時、物価が上がります。 経済学で教える中央銀行の基本任務の中には物価の安定がありますが、それはまさに中央銀行がすることが通貨が増えたとすれば、これをどこかすでに存在する物にくっつく前に回収することです。 中央銀行自ら発行した債券で、急増した通貨を吸収し、ゆっくり割引してくれたり、甚だしくは焼却してしまったりすることもありますけど、これはあまり一般には知られていない事実でもあります。 上記の正貨礼賛論者が言う正貨の純機能の一つも、この視点から考えるべきだと思います。 彼らの論理の中では、輸出で得をした国が、相手交易国と力のバランスを取っていく原因が、輸出国の物価上昇にありました。 その行間の意味は、つまり正貨の隠された純機能は、貿易で稼いだ正貨を再び新しい実物の創造に使わず、すでに存在する物の購入に利用する時、それを罰する機能なのです。 「すでに存在する物」の代表例は何でしょうか。 そうです。不動産です。 今の経済言語で表現すれば、企業がお金を稼いで研究開発や雇用創出のように経済生態系内部の構成員全員に役立つ再投資をせず、株主と本人(株主の代理人)の極端な利益追求のための不動産投機に利用することを通貨自ら懲罰するわけです。
¶9 上では正貨が利用された理由とその脈絡についてお話しました。 そうすると、前述の通り、このよい正貨がなくなった理由もあるでしょう。 金貨本位制から金地金本位制を経て、金環本位制を最後に世界経済は金(または銀)と完全に決別しました。 なぜでしょうか? これを理解するためには、まず正貨の反対側にある通貨概念、不換通貨(Fiat money)を認識しなければなりません。 「不換」は文字通り変えてくれないことです。 何かと変えてくれませんか。 本位貨幣です。 本位貨幣は金や銀と交換できる貨幣をいいます。したがって、上記の金本位制の最も緩い形態である金環本位制それさえもない、その次に作られた貨幣をいいます。 つまり、現在私たちが使用している法貨(legal tender)を意味します。 法貨は文字通り「法」によってのみ存在する貨幣です。 不換貨幣の英文名である「fiat」は、ラテン語で「それが生まれろ("may it be made")」を意味します。 ほんの一言で存在するのです。 聖書の創世記で、太古に神が「光があれ」と言ったのと同じ言葉です。正貨の金や銀のように、上記の様々な特性による価値上の実体なく、法が定めた強制流通力によってのみ、その存在と価値が生じたのです。 もちろん、大概の国内法には「わが国の貨幣は法花だ」と明示的に言う条項がありません。 韓国の例を挙げると、中央銀行の設立や運営に関する法律において、中央銀行券を「唯一の」決済手段と定めており、民法や商法などでこの決済手段として決済を希望するなら、必ず受け入れなければならないとか、これを受け入れなければ処罰されるといった具合に、迂回的な形の散在した条文が結合して「強制流通性」が与えられているのです。 これもまた、法貨の概念が公衆に正確に認識されないようにする、一つの装置ではないかと思います。 もちろん、主流経済学や法学でもこれらを詳しく説明せずに、すでに「前提された」概念で言及しているだけです。 なぜかと言うと、正貨と対比される法貨の重要な特徴と関連があります。 この特徴は、上で述べた金本位制の進化形態、つまり金貨本位、金地金本位、金環本位へと変化した過程が説明してくれます。 金貨本位制と金地金本位制の違いは、実際に金は移動しないということです。 金と交換が約束された貨幣だけが移動するだけでした。 大概の経済史や歴史書では金が重かったからだと説明しています。 もちろん間違ったことではありません。 しかし、本当の動機は金地金本位制を試験的に運営した経験から出たものでした。 こうすると「金引換券」をこれと交換できる金の量よりもたくさん発行できるということを知ったのです。 金引換券とはいえ、実際に金と両替する人が一定比率以下だという統計的経験則と、金引換券が発行された規模は発行者だけが分かるという情報の非対称性のために可能だったのです。 これは本やインターネットでよく知られている銀行業の起源です。私が強調する部分は通貨の「量」です。 金貨本位制は金や銀を追加で採掘しないと通貨量を増やせないのに対し、金地金本位制や金環本位制はそれが可能だという点です。 最初は不足していたり、ないものを十分なように偽って発行された金引換券が、今では堂々と部分支給準備金(fractional reserve)という名前の合法制度として位置づけられるようになったのです。 そうすると、通貨の「量」を増やすべき当為について、自然と関心を持つようになります。 これも教科書的な答えが存在します。 人口増加で経済規模が大きくなり、実物生産が増えれば、これを流通させる十分な量の貨幣が必要だという論理です。 もちろんこれもやはり間違った言葉ではありません。 貨幣は現代経済学の用語で、「支給」と「決済」が主な機能ですが、社会活動(経済)の主体であり客体である人を動かすためにはその対価として何かを支給し、商品やサービスを生産·流通させるためには決済しなければなりません。 だから十分な「量」が重要です。 ところで、正貨と法貨の両貨幣間で通貨を増やす方法には重要な違いがあるとお話しました。 前者は金や銀が追加で存在しなければなりませんが、後者はそうではないということです。 この事実は広く認識されています。 重要なのはその事実が意味することを知ることです。 正貨だけが流通中だと、貨幣は社会の構成員にくまなく行き渡って所有されることになります。 もし貨幣が少数の人に特に集中しているとすれば、彼らは実質価値の高い商品やサービスを提供する、つまり人々の厚生に実際に大きく貢献している人々に違いありません。 必ずしもそのような商品やサービスを提供する場合のみ、人は「各自」所有する貨幣を支払い、未曾有の物理力を動員しない限り、このように分散している貨幣の所有とその処分を一律に統制することはできないのですから。 言い換えれば、正貨は人間という存在に何の価値があるのかを多数の平凡な人たちが選択するようにする民主性、貨幣が必ず実質価値を追いかれる実体性、そしてその価値交換がリアルタイムで起きるようにする同時性を与えるということです。 こんなに良い正貨も「量」の増加が必要な時点が来るでしょう。 いくら正当な方法で、実際に価値のあるものを生産した少数に貨幣が集中していたとしても、その少数が自分に必要な消費を通じて社会に再供給する貨幣の量は微弱なはずです。 この時、他の人の中で高い生産性と革新をもたらす能力があったとしても、社会全体に流通し、それを共有する貨幣が不足すると、足止めされてしまうわけです。 だからといって、すべてのことを物々交換で解決することはできませんから。 実は、この状況は私が極端な通貨流れの停滞状況を仮定したもので、このような通貨の集中が起きないように経済構造をデザインすることもでき、その構造の下では通貨の集中が起こる可能性も高くありません。 この文の全体の脈絡と関連して、この部分の含意は後述します。 ただ、今回の段落のテーマに限ってこのように仮定した状況は私が言及した望ましくデザインされた経済構造ではない状況で実際に起こったことであり、そうすれば金貨本位制から金地金本位制への移行に非常に大きな動機になったはずです。 金貨の代わりに金貨交換券の発行が持つ属性が部分支給準備制を可能にし、これはとても簡単に通貨を増加させるためです。 問題は、人間というのは、利己的で強欲な存在が、この易しい通貨の蒸発を、前述した問題の解決にのみ、善用されるようにほうっておかなかったことです。 それでは任意で通貨蒸発が可能な制度への移行、つまり金貨本位制の廃止はとてつもなく大きな誘惑だったのですね。 これからこれについて話したいと思います。
¶10 金地金本位制で通貨增発が可能な理由は金と交換できる権利証書、すなわち中央銀行券の発行のためであり、もう少し具体的には同証書を提出して実際に金を引き出すことはあまりなく、可能だった部分支給準備金制度のためだと言及しました。 部分支給準備金制度による幾何級数的な通貨增発メカニズムについては皆様ご存知でしょうから、あえて話す必要はないと思います。 これをご存知であれば、都市銀行が漠然とお金を発行して、通貨をばら撒かないこともご存知だと思います。 しかし、後者に関する詳細についてはこの段落の要点に触れており、一度言及する必要がありそうです。 金引換券の発行主体は、形式的には中央銀行ですが、実際にその発行が行われる窓口は、町内にある銀行、つまり一般商業銀行です。 一般市民の立場から見て、このプロセスで最も理解しやすい例は住宅ローンでしょう。 家は誰もが必要で、誰もが欲しがり、銀行から借金をしないで買う人はほとんどいないからです。 大体、「未来に」生まれて自分のものと予定されている住宅の所有権を銀行に担保として預けて、住宅購入代金の融資を受けます。 これまでの「通貨增発」と表現した、金貨本位制で問題となった不足する通貨量を解決するために、新しい貨幣(通貨)を作り出すことの実体、つまり、新しい社会に追加される通貨が、この時に生まれるのです。 俗に、主流経済学では、経済の三つの主体を家計、企業、政府と教えていますね。 これは現在の法貨体系の下で新しい通貨を創出する主体による分類だと考えればいいです。 住宅ローンは、家計部門の通貨創出の中で、金額的に最も大きく直観的に理解しやすいものを例に挙げたものです。 まず、家計部門の例を挙げた理由は本質は同じですが、あまり知られていない残りの二つの部門を話すためです。 企業と政府も同様の過程で、新しい通貨を創出します。 ただ、銀行に預ける、いや、抵当に入る担保が違うだけです。 また、専門性や規模が家計と異なるため、一般商業銀行だけでなく、企業銀行、中小企業銀行、産業銀行、輸出入銀行など別途の専門銀行があるだけです。 日本を含む他の資本主義国家でも、名称が異なるだけで、似たような機関があります。 企業と政府が銀行に提供する担保は、二つの主体がすでに持っている有形·無形の資産もありますが、「未来に」保有する資産もあります。 例えば、会社が今後営業して得られる収益を得ることができる権利である「売掛債権」のようなものです。 会社が発行する債券である社債も、本質は未来にできる資産を預けることに相違ありません。 もし、ある企業が事業を拡張するために社債を発行して資金、厳密な通貨を調達し、オフィスを追加賃借し、新しい社員を採用したとします。 その新しくできたお金、つまり「借りることによって」新しくできたそのお金の償還は新規事業で儲ける収益で行われるのです。 今、文を読んでいる方が大学を卒業して就職している方なら、またそこで稼いだお金で生活している方なら、皆さんはその仕事のおかげでお金を稼いでいると思うかもしれません。 しかし、実はその仕事は給与みたいなお金ができたからできたのです。 気の利く方はもうお気づきのはずです。 最初、会社が借りたお金は銀行から出て、その銀行の主人は銀行の株主たちで、その株主たちはみんな私的集団で、甚だしくは外国人たちもいます。 銀行の会社に対する貸付決定は、その株主たちの意思を委任された代理人たちが下したものです。 だから政治家を選ぶ投票をうまくやったからといって就職難は解消されないということですね。 もちろん、彼らが立法と行政手段として私的集団の通貨創出の意思を誘導する国内的環境を助成して、間接的に、短期的に就職難を解決することができます。 ところが皆さんは絶対多数、私的集団はごく少数です。 通貨創出を誘導できる環境を助成するということはその少数の利益に奉仕することにならざるをえず、そうするとそれは長期的に皆さんのためになることではないのです。 これについては面白い話が多いですが、しきりにわき道にそれているようなので、これぐらいにします。 もう一度通貨創出に提供される担保の話に戻ってみましょうか。 家計と企業まで調べてみました。 どちらも未来に持つ資産、つまり「今はないもの」を預けて、銀行を通して新しい通貨を作り出した後、自分がそれを受け取って使うのです。もう政府について話す番ですね。 全く同じです。企業の例で社債を例に挙げたように、国の場合も国債を代表的な例として挙げられます。 但し私が「全く同じ」と言った意味について、ほとんどの人はそれほど気にしていないようです。 貨幣の生成過程が同じだけで、家計と企業とは違って、国家に通貨を創出する主体が商業銀行ではなく中央銀行だと信じるか、国家自らだと考えているようです。 いいえ、前の二つの場合と同じです。 家計、企業、政府ともに民間銀行に担保を提供し、その担保を中央銀行が割引して中央銀行名義の貨幣ができるのです。 ただ、現代の金融では、これらの担保が証券化されて流通する過程があまりにも複雑で、最も巨視的な流れがよく見えないだけです。 また、国庫金勘定が中央銀行に開設されたと知られて錯覚を与えるものでもありますが、実際、商業銀行も中央銀行にすべて勘定を持っており、国家の勘定もこれと同じ勘定に過ぎません。国債は、他の担保に比べて国家の税金徴収権で元利金の償還が保証されるため、銀行すなわち私的集団の立場では、最も安全性が大きいという意味で安全資産と呼ばれたりもします。 放される危険性が少なく安全であるため、収益率は家計や企業に貸し出す時より低い可能性があります。 しかし、運営規模を考慮しなければなりません。 私的集団にとっては莫大な利益の源泉なのです。 今、世界的な感染症事態、いわゆるパンデミックで国家が借金をして生計が困難になった国民を助けるケースが多いです。 韓国の場合も、感染病事態で被害を受けた人々に、政府が現金で支援し、税制面での優遇も与えています。 日本も同じだと聞きました。最初は予算を絞り取んで給付行政の財源を工面しましたが、事態が長期化するにつれ、政府も国債を発行するしかありませんでした。 支援対象の範囲と総額面で前例のない超大型の政府支出でした。 これについて野党とマスコミは、選挙に備えて結局、未来世代が返すべき借金である国のお金で国民に善心を使っていると批判している。 間違った言葉ではないが、この借金祝いのフレームは、国民が本質を見ないようにするだけです。 結局、このお金は現在の納税主体や経済共同体である彼らの息子や娘、そして彼らの後代が返さなければならないため、ばら撒きは国民に使うのではなく、金融勢力に使っているのです。 私は、この給付行政のために発行した債券の規模が、まるで国が戦時に発行するものと同じか、或いはより多いと考えました。 以前、私の韓国語のソーシャルメディアに今のパンデミックが新しい概念の「戦争」であることを提示した英詩を一編書いて掲載したことがありますが、ただ戦争当事者と戦場の姿が違うだけで、その基底の経済的侵奪と得られる戦利品、このための金融手段の姿はそっくりだと思います。 政府の給付行程の話が出てきましたからですが、今のようにパンデミックに完全無防備で直撃弾を受ける庶民たち、特に社会的弱者層への直接的な現金支援は望ましい方向に向かっているのです。 たった一つ前提があります。 その財源を戦争ではなく戦争の受益者から得なければなりません。 ただこうやって話しておきたいですね。 また脇道へそろうとしています。 まとめると、家計と企業に続き、政府もやはり金貨本位制を廃止した後、新しい法貨体制の下で「新しい」通貨を生み出す方法は、同じく今持っていないものを担保に未来に得るものを任せて借りることです。 この段落の話は、このような通貨增発方式が増加した通貨の善用を保証していないという点から出発しました。 しかし保証のないことを超えて、深刻な誤用·悪用の可能性をはらんでいると言った方が正確だと思います。 ですからそろそろ本論に入ってみます。
¶11 私が通貨增発過程に対する描写で一貫して強調したものがあります。 貨幣というのが取引や流通、価値貯蔵などの対象であり、本来その存在理由として奉仕する実質価値を持ついかなる実体よりも「先に」世の中に出てくるということです。 今存在しないのが、先に出てきたお金に事後的につくわけです。 これは単純に前後が変わっても別に問題のない二つの事件の間で、時間的な前後だけが変わったのではありません。 実体を予定することによって貨幣が発行されるので、単純に考えれば実体のない貨幣があるわけではなさそうですが、現実に起こることは先に出てきた貨幣が実体を構成していく方式なのです。 特に予測が難しく、またまさにこのような属性のために利益の大きい分野への投資、つまり新しくできた通貨を新しい活動に投入する行為においてさらにそのような特徴が目立ちます。 例えば、アメリカ人が九州のある鉱山に投資していると仮定してみましょう。 投資時点で鉱物は使用可能な状態で存在しません。 貨幣が先に出てきてそれを鉱夫を雇い、機械を賃借して使用してみることで、はじめてその事業の様相が具体化します。 鉱夫と機械賃貸者は、現代の金融の機作を知らないため、自分が先に金を受け取ったので、労働と資産を提供すると考えるようになりました。 前述した大卒就業者の錯覚と同じ脈絡の話ですが、ここでは貨幣が実体を「牽引」することに焦点を当てたものです。 このことの本質を認識しなければなりません。 これは、良く言えば冒険で、少しひねくれて言えば賭博です。上記の例のように最終生産物が鉱物であり、その鉱物が人間の生活を潤す物の原料として使われ、またその過程で多くの人々に善良な雇用を創出してくれるならそれはいいことです。 ここに発行された貨幣は、最終的に該当鉱物に安着することになり、それは「新しく」できたものにくっついたもので、前述のインフレの機作どおり、既存の貨幣の価値を下げることはありません。 言い換えれば、他の人の富を、その人たちも知らないうちにかじらないという意味です。 もちろん、新しい通貨を創出した人が「適正な」利益を得る時が前提ではあります。 しかし、このような冒険とギャンブルの違いはそれほど大きくありません。 上記の例で、その鉱物は銃やタンクのような軍需物資を生産するためのものだったと状況を変えてみましょう。そのアメリカ人は戦時状況なので、鉱山の採算性がどれくらいになるかは重要ではありません。 原料をまず、そして早く確保することが大切です。 しかし、それは資金を投入して事を進めないと分かりません。 そこから生まれた原料を使って武器を作り、それによって戦争に勝つことができれば、アメリカ人は敗戦国が補てんしてくれる生産費だけでなく、莫大な賠償金と敗戦国内での事業権を得ることができます。 私たちはこのような行為を賭博と呼びます。 私が賭博の例として戦争を例に挙げたのは理由があります。 この戦争こそ、法貨制度という通貨增発機械の発行能力をほぼ最大値で稼動でき、そのように発行された莫大な量の通貨は、実に莫大な量の利益をもたらすことに極端な賭博としての通貨制度悪用に関する適切な例となり得るからです。 もちろんこれは、当該賭場の参加者が賭けた場所が勝った場合の話です。私が賭場というのは、一般名詞を書いて言いましたが、実は、これは、本当に最善を尽くした後に残された「偶然」に、投資の成否を任せる建設的な冒険や、破壊性の少ないギャンブルの話に過ぎなく、實際国家間の大規模な「戦争」のような極端な場合は、「詐欺賭博」に近いのです。 事前に板を「設計」し、「虎口」を選定した後、少し勝たせてくれて引き込んでから 大きくエサをくわえると、その時、容赦なく巻上あげるという点で、その姿がそっくりでした。 想像の話をするものではありません。 日本に関する例を挙げると1905年の日露戦争がそうでした。 誰も日本が勝つとは思わなかった、客観的な戦力上日本が絶対劣位の状況でした。 具体的な支援主体は明らかにしませんが、日本の勝利の秘訣は、上記の通貨增発メカニズムにありました。 任意に生み出せる通貨をどちらにあてるかで勝負が分かれたのです。 これは上記の鉱山開発の機作と同じです。 まず実体がなくても、貨幣が先に世の中に出て鉱夫と機械の主人を使って鉱物を掘り出した後、そこに貨幣が安着するように、戦争も「先に」武器を作り、軍人を使い、これに勝つまで押しやれば、借金で誕生した貨幣が、はじめてそこに安着し、賭博場で勝利することができます。 これは実に大きな誘惑です。 金本位制から離脱して、今こそ金から遠ざかり、結局、現在の不換貨幣(法貨)制度へと進化してきたことには、膨らむ経済規模を支える通貨量の増加が容易ではないというよりは、このように莫大な利益をもたらす賭博を可能にする制度が必要だったと見るのがより妥当です。 実際、金本位制の下でも通貨增発が必要な場合、これに完全に対応できないわけではありません。金の生産量を増やして実体のある生産に通貨で供給すればいいし、その生産が難しい場合は流通中の鋳貨を回収して現代的な用語でリデノミネーションをすればいいのです。 回収と再鋳造の費用がかさむでしょうが、これまで言及した不換貨幣の副作用に比べれば何でもないのですね。 また、貨幣単位が再調整されると、対外的に商品の価格が下がり、輸出が増え、再び交易国から金が入ってくる正貨の黄金率のような自動調節装置が作動し始めます。 もちろん、金の埋蔵量が特に多い地域がある可能性があります。 しかし、このような金の生産量がある国の偶然の地理的幸運に結びつき、一時的に不公正な購買力増加につながっても、国内的な物価調整を経て貿易を通じて自動調節装置の統制を受けることになります。 なによりも、金本位の下でも、流通中の金貨を画期的に増やさなければならないほどのイベントは、産業革命のような言葉の通り「革命」的なものしかあまりありません。 むしろ、不換貨幣体制で任意に增発した通貨が再び通貨增発を招来する核爆発の連鎖反応のような通貨増加を通じて、この過程のイニシアチブを握る少数集団に通貨が集中し、このため富の不平等な分配と両極化が現れ、そのため莫大な総通貨量(総流動性)の中でも、大部分の人々は持っているお金の購買力低下のような間接的な方法でお金が足りなくなるのです。 この金融通貨体系の内部者である少数集団は任意に増やせる通貨を利用して、実際に人を動員することでその制度の意味が完成されるため、使われる人が飢え死にしない程度の物価を維持しなければなりません。 中央銀行の物価安定機能の本質はここにあるのです。 それは東京の市内に一軒の家を買うのが空の星を取るくらい難しい理由でもあります。 奴隷たちの奴隷となることを永続させるためには生活必需品の価格が安定しなければなりません。そのためには生活必需品の価格の上昇分はどこかで吸収されなければなりません。 すると、どうせ避けられない上昇分を不動産に吸収させ、自分たちの富を増加させれば一石二鳥になるのです。 日本は世界一の超高齢社会であるうえ、人口も10年以上連続で減少しており、空き家も多いということに、珍しくも東京の住宅価格はこれをあざ笑うかのように逆の方向に向かいます。 これは、先ほどお話した通貨の核爆発連鎖反応と関係があります。 実体なしに先に出てきた通貨が誰かの手に握られて資産になり、この資産が再び通貨創出の根拠になるからです。 一度、この通貨增発機械を使って、何も持っていない状態でも、人と物資を集めて、ある臨界点をめくっておけば、そこは非可逆的に連続爆発する通貨の核爆発現場のような場所になるのです。 ですから、この機械を動かせる勢力としては自らをとてつもない金持ちにすることができ、そういう金権で人を支配するようにするこの装置こそ、拒否できない誘惑であると同時に永遠に守護しなければならないのであり、人々が実体を知ってはいけないことなんです。
¶12 金本位制での貨幣である正貨が金本位制から離脱した貨幣である法貨に変わった背景について概略的に説明したようです。 文の内容に同意いただければ、貴金属である必要はありませんが、金で作ったお金がなぜ正貨なのか、つまりそれがなぜ「正しいお金」という名前を持っていたのかがお分かりでしょう。 そうだとすれば、正しいお金の反対側にある現在の不換貨幣の名称は、法貨ではなく「悪貨」になるべきではないかと思います。 人の認識と思考は言語の影響を大きく受けるには、ある概念の命名法が重要です。 それでも「悪貨」という名称は悪魔化しすぎたのではないかという反論を提起することもできるでしょう。 しかし、「悪貨」という単語は私だけが使うのではありません。 グレシャムという人がかつて「悪貨が良貨を駆逐する」と言っていました。 もちろん私が今まで展開してきた談論とは異なった脈絡から出た言葉ですが、その結果だけを見ると、悪貨が良貨である正貨を追い出したのは同じようです。 これらの鋳貨のうち、額面価格は同じですが、素材の価値がより少ない一方の鋳貨を「悪貨」と呼ぶほどでしたから、素材の価値が全くない法貨を悪貨と呼ぶのは行き過ぎではないのです。 私は法貨ほど害悪が大きいが、その概念が公衆でほとんど認識されていないもう一つの装置としての法人格を挙げます。 二つとも悪しき属性にもかかわらず、権威と尊重の対象として感じられる「法」の字が入っているという共通点もあります。 この共通点は単に名称に由来するものではありません。 法貨が金という本物の実物がなくても任意に通貨量を増やせるものだとすれば、法人は本物の人間がいなくても、その「増えた通貨」を人間の権利のように執行させる役割をするということです。 この二つは最高のコンビだったわけですね。 昔からお金というのは、「集まった時」力を持ちます。 集まったお金は磁石のように、また別のお金と人を惹きつけます。 そうやって集まったお金を転がして大きな収益を出すことができる極端な例として上で戦争を挙げました。 戦争は悪いことです。悪いことをすると、法的責任を負わなければならないし、道徳的な非難を受けます。 このすべてを解決してくれるのが法人です。 法人に多くの自然人たちがお金を集めて、悪いことをさせて大金を儲けた後、またその背後の自然人たちに分け、すべてのリスクは「法的行為者」である法人が負うようにするのです。 法貨と法人格が初めてできた時は、教会の権力が強かったです。 人は犯罪だけでなく教会法で厳禁していた高利貸し業をしてもだめでした。 しかし、人々は「金が金を儲けること」がお金を稼ぐ最高の方法であることをその時も知っていたため、教会法を避けるための法人格が必要だったのでしょう。 個人的には「制度」の次元で、人間不平等の最も根本的ながらも影響力の大きい起源として法貨と法人を想定し、この二つに関する本を書きながら、その概念創案のてっぺんに教会法があることを知りました。 それで一時、カトリック教を忘れて無神論に傾倒していたこともありました。 その後、ここにすべて列挙することのできない神秘的な体験とカトリックが二つの装置の害悪に対抗できる他の良い価値が多いことを知ったからこそ、また戻ってくることができたのでした。 後者に関しては簡単に言及して次に進みたいです。 個人的には、法人と法貨が初めて教会で生まれた当時は、絶対権力に対抗して絶対多数の被支配者を救恤する手段だったと思います。 ところが今ではこれが誤用·乱用を超えて悪用されるようになり、新興勢力の支配手段になってしまったのです。 労働運動をして腕章をつけることになると、その労働者たちが与えた権力で富を蓄積しようとかえって労働者を搾取することになったのと似たようなケースでしょうか。 この辺で話します。 ですから、善と悪を相対的な概念に薄めて区別を曖昧にする悪い勢力とは違って、私はこの二つを先験的に明確に区分したものと考える聖徒として、この二つを悪貨と悪人と呼ぶことに躊躇しないです。 言葉が出てきたらですが、法貨と法人が支配する世の中になったから、悪貨が良貨を構築する世界になったのです。 だから悪人が良人を駆逐するようになったのも不思議ではありません。
¶13 実はこの文は私の出生に関して覗き見たことに触発されたのです。 この作業には歴史的な事実、そして隣国との関係などを調べることも含まれます。 元々歴史には関心がなく、しばらく記録学を勉強してみたら、この分野もかなり多くの嘘を生み出しているという考えにそっぽを向かれていましたが、生みの親と私の間に起こったことに対する探求欲が、その歪曲された歴史までのぞき見させられました。 その隣国というところは国境を接している北朝鮮とその向こうの中国、東南アジアの国々もありますが、台湾と日本に特に関心を持ちました。 台湾は中国を抜きにして考えることができないので、韓中日の三国の歴史を探求していたところ、この文のテーマと関連して特記したいことを発見したのです。 その話をしようと金本位制を先に話したのです。
¶14 遠くは1945年に始まったアジア太平洋戦争のきっかけでもあり、もう少し近くは日中戦争のきっかけでもある事件が、1931年に起きた満州事変です。 この事件は、日本が満州を中国侵略の兵站基地にするために起こした事件といわれています。 繰り返して言いますが、言語は人の思考を閉じ込める側面があります。 「日中戦争」は、その名称により、当然日中の戦いと認識されます。 その背景も日本の野蛮な欲求からきていると言われています。 しかし満州事変前後で起きたあまり知られていない事件に注目してみる必要があります。 当時、アメリカとアメリカの主な交易相手であったヨーロッパ諸国、そして日本の貨幣体制は主に金本位制で、一部が金銀複本位制でした。 ところが満州事変一年前の1931年、米国ではスムート·ホーリー関税法が通過しました。 同法の要旨は、自国農民を保護するという名分で、輸入農産物に対する関税を大幅に引き上げたことにあります。 ご存知のように、輸入関税は貿易相手国の輸出を挫折させます。 欧州諸国の対米輸出ができなくなり、とうとうこれらも米国に報復関税を課した。 米国と欧州が外国の農産物に対してドアを閉めているんてした。 あいにく、その年日本は豊作になりました。 ところが、輸出の道が閉ざされているため、農産物は国内消費に回さざるを得なくなり、このため農産物価格は大暴落することになりました。 ここまでは一般的な歴史書にはあまり登場しませんが、それでも経済史のほうではこれを扱う文献がなくはありません。 しかし、経済史のほうでも、うまく言及されていない事実があります。 スムートホーリー関税法の施行直後、ヨーロッパの主要国が金本位制を廃止したのです。 その直後には日本が金の輸出を停止しました。 この二つの事件の連続は何を意味するのでしょうか?日本はもう自国には金が入ってこないと悟ったのです。 アメリカの一方的な措置でですね。 また、日本政府は米国の措置で自国農民の公憤を買ってしまい、ついに農民は新しい経済的突破口を持つ満州侵略の中心勢力である軍部を支持するに至りました。 実際、1932年に日本軍は満州国を起こしますが、ここでも歴史書にあまり触れていないのがあります。 その年の満州国は銀本位制の貨幣制度を成立します。 当時中国が銀本位制国家であったこと、そして日本が新たな貿易出口を求めていたことと無関係ではなかった一連の出来事です。 アメリカの策動はここで終わったのではありません。 日本でやったことをそのまま中国に適用します。 米国は1934年6月、銀買入法を制定します。 一年前、主要銀生産国と銀買入協定を締結した後のことです。 これで全世界の銀がアメリカに集中されます。 アメリカでは銀の値段が急に上がるようになります。 銀をアメリカに売れば大きな利益になるので、中国の銀もアメリカに引き込まれていきます。 それで中国でも日本と同じことが起こります。 農産物、つまり実物の生産量は一定であるのに貨幣、つまり銀貨が崩れ落ちると農産物の価格が急騰します。 これは中国農産物の対外価格競争力が下落することを意味します。 既存の銀貨はすでに流出し、輸出は塞がれて入ってくる銀貨もなくなりました。 資金の流れが完全に途切れ、数年前の日本でのように多くの企業が破産します。 これは分裂していた中国国民党と共産党が力を合わせて抗日戦に全力を尽くす大きな動因になります。1937年、日中戦争が勃発した当時は、日本と中国は金銀本位制からすべて離脱していました。 法貨制度という賭博場が初めて東アジアに敷かれたのです。 今では無制限に通貨增発を通じて日中両国に武器を買わせ、兵士を食べさせて石油を輸入させることで、勢力に産業を育てると同時に、この両国には莫大な借金を負わせることだけが残っています。 戦争は長引いても勝負をつける必要はありません。 この計画に応えるように日本が1941年真珠湾を空襲して第二次世界大戦につながります。 しかし、真珠湾空襲も、米国が日本の海外資産を凍結して誘導されたことを知る人は皆知っています。 満州事変と日中戦争を起こした策略のようなものでした。 韓中日はこれに巻き込まれ、1945年になって日本は核爆弾二発を受けて敗戦し、中国は二つに分かれ、韓国はこの過程で満身創痍になりました。 特に、韓国は5年後、再び新しい戦場になり、廃墟になった後、中国と日本を分断する地理的分岐点になります。まるで 陰極と陽極を絶縁するスイッチのように、二つに分かれてですね。 韓中日の中で勝者は誰もいませんでした。 勝者はこのアジアで最も大きい二つの勢力をこの二つがお互いに戦わせて簡単に除去してしまい、彼らの帝国主義的浸透手段である金融制度、すなわち法貨体系を移植して非戦闘的な搾取体系を完成した西欧の金融勢力だけでした。
¶15 私の文の全般的な内容に同意されたら歴史書の内容が最大の枠組みでは覇権のための「制度」の移植に達していることを理解していただけると思います。 戦後、中東の局地的な紛争以外はそれに比肩する超大規模、地球規模の物理力の衝突がなかったのは覇権国との戦力の超格差と核抑止力によるものと説明されているが、個人的にはその必要はなくなったと考えている。 理由は既に述べたとおりです。 やはり言葉が出てきましたが、中東紛争が金融通貨制度とつながるもう一つの「本位制」のおもしろい一軸は、米国が全世界の石油購買を米ドルでのみ可能にした作業と、これで誕生したいわゆるペトロドル体制なのですが、ここでお伝えしようとする制度上の本質とその進化の終りはすでに言及済みのようなので、中間過程であった石油本位制に関する至難な描写は省略させていただきます。 現在の状態(status quo)は、銃を撃ち、爆弾を落とすために侵略者の野蛮性を露出し、体面を傷つけながら盗みをする必要はなくなりました。銃と爆弾の役割は法貨がしてくれます。 根付くだけ多く死んでいくのと、それを握った方が生きて莫大な得をするというのが絶妙に似ていますね。 こんな悪人の役割は、他の悪人がしてくれます。 法で作ったのはまさにその人のことです。 この人はいくらあやまちを犯しても死刑になったり監獄に行かなかったりします。 罰金はただ簡単に作り上げたお金で払えばいいです。 税金はいつでも他の国に逃げて出さなければいいです。 侵略地どこでも悪人は忠実な彼らの下手人を雇うことができます。 それは主人が見るように、決めたものだけを一所懸命に学び、身につけた順に手下に職分と賃金を与えればいいのです。 すると、下手人は肩に力を入れることに比例して真実から遠ざかり、主人の正体を知らず、自分たちで自主規制するようになり、別途に管理する必要がなくなります。 今はもう土地を取る、資源を奪い、物を売るために戦争を起こす必要がなくなったのです。 これは、世界中が国民の生存に必要な物資の需給を貿易に依存させ、その貿易取引を国際決済システムを通じてのみ可能にし、システムの覇権を少数の国に握るようにすることによって成り立っているのです。 これはすべて、基底に法貨制度があるからこそ可能なことです。 金貨本位から無本位へと移ったのはこのためです。
¶16 出生について調べてからこの文を書くようになったと言いました。 そろそろまとめてみようと思います。 韓中日は、ある勢力が世界的に新しい秩序体系を完成していく過程で、彼らが行った仲違いにだまされて犠牲になり、その結果、彼らの体系に編入され奴隷化されてしまいました。 だから差し出がましい意見ですが、韓中日はとにかくうまくやっていく必要があります。 理想的にはすべての国が友好的に過ごせば良いですが、一気に実現するものではないので、まずは大きな塊の間に力のバランスが必要です。 そのためには、東アジアで欧州連合を超える連帯が必要ではないかと思います。 個人的には、韓中日が一つの国のように進む手続きを踏んでほしいという考えです。
¶17 三国には三国の分裂を画策するように植えられた人がいるようです。 先日、キムチの宗主国が中国という主張を流布した仕事とか強制徴用と慰安婦問題をいつも問題視する部類のことです。 自尊心ではない自尊心が強い国の国民になることより重要なのか聞きたいです。 実際、韓国と日本には中国的な起源を排除できるものがほとんどないにもかかわらずですね。 正直になってほしいです。 また、徴用と慰安婦問題も、上記のように真の原因提供者が誰か知っていたら、韓国と日本は喧嘩する必要がないのみならず、むしろ互いに連帯をしなければならない仕事だからです。 私は有名な人じゃなくて良かったと思います。 こんなものすごい挑発的な話ができるからですね。 次の話はなおさらです。 ハングルはそれ自体が立派な文字であることは確かです。 しかしハングルは中国と日本の間で、韓国を唯一漢字がなくなった国にしたのも事実です。 漢字語に由来する単語は、依然として非常にたくさん使われていながらも、もう漢字では表示しません。 国家間の統合における言語の類似性は非常に大きい利点です。 ちょうど中間に挟まれた国が独創性を発揮することでその利点を効率的に放棄しているわけです。西欧人は、自分たちの利益にならない限り、彼らと他の民族(人種)の成就を称賛することがありません。 だから西欧人がハングルとその創製者を絶賛してやまないのは好きではなく、考えてみる問題です。 北朝鮮、台湾、東南アジア諸国との関係でも同様の観点を持たなければならないと思います。 私の個人史を盛り込むには、あまりにも巨視的な談論のように思えますが、生みの親と分離せざるを得なかった究極の理由も、今まで言及した問題につながっていることは否めません。
¶18 最後に、目ざとい方であれば、このブログの過去のポスティングが別の金融通貨制度への移行を扱ったことをご存知だと思います。 上に述べた「物理的な戦争が必要なくなった時代」は、法貨制度から一歩進んで、ほぼすべての金融通貨装置をデジタル化したことによるところが大きいです。 個人としては、今回のパンデミックはそのデジタル化の完成により、新しい「スタンダード」の呼び水をつくるのではないかと思います。 どのような「本位」制への移行かについては、既に言及したようです。 それが人々に有益なのか、その逆なのか言うのは慎重になります。 しかし、今まで長く描写してきた金貨本位制から法貨制度へと変化すると、可能になったことがより早く、広範囲にわたって進められるということは明らかです。 法貨制度で直接影響を受けるのは国家や機関単位で、国民には間接的な影響を与える体制なら、次のスタンダードは個人に直接影響を与える体制なのです。 私たちにはどんな未来が待っているでしょうか。
¶19 私が現在暮らしている町内には、一つの行政単位に韓国銀行釜山支店、韓国取引所、在韓国連記念公園、国連平和記念館、そして国立日帝強制動員歴史館があります。 ここは韓国を越えて北東アジアの金融ハブを目指す、いわゆる金融拠点としての育成が予定されています。 人はよく知られていないが、個人的には上述の中央銀行(韓国銀行)の公開市場操作における『操作』の媒介となる各種証券の取引が行われている韓国取引所を、現代金融の中核機関として見ているのですが、その場所もソウルではなく、私の住む町にあります。 戦争が近現代の金融通貨制度においてどのような意味かも上記に言及しました。 朝鮮戦争とその遂行主体である国連の活動を記念するところもここにあります。 日本の徴用問題が韓日関係の分裂の手段だといいましたが、『国立日帝強制動員歴史館』もここにあります。 金融という手段、戦争という手段、以夷制夷手段があいにく私の暮らすところにすべて集まっているわけですね。 私はただ冬の寒さを避けて、懐事情を考えてここに来ただけなのにですね。 私にはこんな偶然がたくさん起きます。 文を終えた後、自転車に乗って通ることになる宿舎の近くの海辺が、日本の新潟を眺めるのも似たような偶然だと考えたら、あまりにも強引なのでしょうか。 では、神の平和を祈ります。
*Epilogue: 日本語バージョンでは一つだけ付け加えたいと思います。 私は2018年の末に群馬県庁で展示されている写真展の廣告を偶然見た後、その展覧会を見に行ったことがあります。 そのとき、もともと見ようとした写真展が開かれたすぐ隣の展示室で広島·長崎原爆当時の被害の惨状を写した写真展が開かれていました。 そこで見た写真は私が生まれて今まで見たどんなものよりももっと恐ろしくて残忍なのでした。 犠牲者の方々の霊を慰める最善の方法は,我々がその方々が受けたことの本当の原因を知ることではないかと思います. 周辺に展示がありましたら、ぜひ一度お越しください。