ジグフリード

真実を愛する心

悪の起源

2021-04-18 11:10:44 | Unknown Knowns

 

¶1 博士課程の時、ある教授からいきなりの提案を受けたことがありました。 ジョージアという国に行って、ブドウ農場で働く気はないかと。 航空宇宙法の専攻で一生懸命学位課程をしていて、そんな私をよくご存知の方の提案なのであっけにとられていました。 また誰かは、私を前後の脈絡もなく、米国に送ろうとしたこともありました。 自分の力でわかったことを、あの時も知っていたら、今ジョージアでも米国でもいたのではないかと思います。 すべてのことがそうだったようです。 提案者と提案を受ける者のどちらもが十分に状況を客観的に認識してお互い了解があってこそ合理的で後悔のない選択が可能だったはずなのに、全くそうではなかったのです。 この前のポスティングで書いたように、それぞれ自分たちの利益のために私をあるフレームの中に入れて、ここから由来する第三者間の行き違った認識の中で事が進められ、その中で何も知らない私の選択を受けたのです。 問題はそこで第三者間にも私に対する行き違いの認識が生まれたのではないかということです。 ただ老婆心から書いてみます。 いつも言っているように、私の事を正確に言ってくれる人も、時間もあまりないんからのです。 ああ, ひとつつけたいことがありますね。 大阪旅行をよく取り上げるようになりますね。 オーストラリアパースで全部で三ヶ月間の大阪旅行期間中最初と最後の月に泊まる宿所をエアビエンビで予約しておいて去りました。 格安航空券なので、マレーシアを経てから日本に到着しましたよ。 最初の宿所は片岡という名字を使う方が主人でした。 私が到着する直前、東南アジア出身のカップルが同じ宿舎に来ていました。 ご主人様が後に言ったんです。このカップルが私について「一生食べていける財産を持っている」と。 私の状況がその人々が描写したのとは反対だという事実よりもっと驚くことに、彼らが一面識もなかった人だったということでしょう。 経験から見て、ほとんどすべての嘘はお金に繋がりますね。 誰かの利益のために私を金持ちであるかのように装ったなら、想像できるシナリオはいくつかありますが、あえて書くつもりはありません。 ただ、私にこんなとんでもないことがあって、私と他の私がどこかで、誰かに認識されているだろうという強力な可能性を言っておくのです。

¶2 博士課程では実母を探すことに関して残しておきたいエピソードがあります。 学校の教員の一人は、彼が1年間滞在することになったドイツに私に遊びに来るよう提案したことがありました。 その頃は単なる旅行だと思っていたのですが、今ではそれ以上のものがあったようでそうです。 ちょうどその時期に、北朝鮮のある方が治療のためにベルリンに行かれたという記事を読んだことがあります。 あいにく、遊びに来いと提案された場所と時期が重なったこと、そしてその方の「首椎間板ヘルニア」治療のための訪問だったことに注目したわけですが、私とどのような関連があるのかはわかりませんね。 私の修士課程は博士課程と同じく航空に関することだったのですが、その時、同期生の中でなぜこのコースを選んだのか疑問に思った人が多かったです。 代表的な例としてドイツでピアノ専攻として韓国の博士課程に当たる学位課程まで終えて帰ってきた同期生を挙げたいですね。 私と一番親しい同期のうちの一人でした。 また大阪の話をしますね。 そこで三番目に泊まった家はアメリカ人が主人でしたが、その主人夫婦とはひと月にわたり、毎朝、食事のたびに多くの話を交わし、本当にいい記憶として残っている場所です。 その時、男主人は購読していた英字新聞で北朝鮮関連の話さえ出たらそれを朝食の対話のテーマにあげました。 特に、彼が北朝鮮のある高官が粛清された過去の話を私に真剣に問いたことが記憶に残ります。 振り返ってみると、私も知らなかった私について、彼は何かを知っていたようです、ただ私の推測です。 関係しているかどうかわかりませんが、ただ思いつくことを自由に残したいですね。 私は高等学校の時も、所謂「私教育」というものを受けた事が無かったのです。 中学校の時も同じでした。 小学校の時はパソコンにばかり没頭していたいわゆるオタクでした。 それで、子供の頃にだけ私を見て今の私を見るようになった人がいたら、今まで書いてきた文章から染み出てくるイメージから、若干の乖離感が感じられるのではないかと思います。 幼い時に通った唯一の「塾」であり、最も長く通った所がコンピュータ塾だったが、それで人々は私についてコンピュータの方だけで記憶しているかもしれません。 実際に、小学校の頃から見て来た友だちでさえ、いまは、できることが何もないにもかかわらず、いまでも、私がコンピュータを深く扱えると考えていることを知った事もありましたから。 偶然なのか意図的なのかわかりませんが、この誤解の末はどこかと思いますが残したい言葉はそうではなく、私が最初に「通わされた」塾はピアノ塾だったということです。 これは誰も分からないでしょう。 書類上だけで双子なのかは分かりませんが、一人だけの弟も一緒に行かせなかった塾でした。 なぜ「ピアノ」だったのか、たまに考えてみることもありましたが、今回の段落では特にそうですね。 また博士課程に戻ります。 その時の入学同期の中には、何を学ぶことには年齢が関係ありませんが、通常学位課程を受講するにはとても年上の方がいらっしゃいました。 その方は、学校の所在する広域行政単位の議員になりたがっていたと思います。 その時は知りませんでしたが、後に実母を探す過程で実母と密接な関係にあると推定される人がいましたが、確かに韓国にいらっしゃるように見えましたがその方の苗字が日本式の「松浦」でした。 この方と友達になっている方のうちのお一人が、その博士課程の同期生とも友達だったのを見てどんなに驚いたか分かりません。 学校を出てから四年後のことでした。 その時私の周囲に起こる偶然のように見えるすべての事が実はつながっていると分かったのです。 また、驚くべきことに、博士同期の方とFacebookの友人であるもう一人が2019年初めに僕の所に来て、こっそり私を見て行ったということです。 多分その方は私が自分を認識したのか分からないでしょう。 このような話がたくさんありますが、これまで公に詳しく書いたことはありません。 実母が誰だかはっきりしない状況で、実母に影響を与えかねないと考えたからです。 しかしもう一部でも話をしなければならない時が来たようですね。

¶3 博士課程を終えていた2013年半ばから学位審査を受けた2014年末、そして翌年末まで、かなり汚いことがありました。 同じ所属する組織や家族という垣根の中で、同じ内容の状況でも良かったこととその逆のこと、ありがたい人とその逆の人が混在するものだから過去のことを一律に裁断してしまうことは公平ではないでしょう。 だからその時期をただ人と社会についてたくさん知ることになったきっかけだと表現ておきます。 すべてを忘れて、最後だと思って大阪へ旅立った直後になって、ようやく私の出生について本格的に調べてみたのですが、(ある力に引かれるようにその思いに駆られて本当に「無」の状態から戻ってきました)、その本当の動機づけとなったのは上に述べた時期に経験したことでした。 一度ずつ今知ったことを、その時も知っていたら主な変曲点になったイベントで他の選択をしていたかもしれません。 2013年前に知っていたら、どこかへ隠れて過ごすようにと送ってきたところに(その意図が正しければ)行っていたような気もしますし、修士課程で知っていたらバンコクでインターンをしていた時に、そこに居座る方法も考えていたような気もしますし(実際に主管機関を通じた提案がありました)、その前に知っていたら、航空に関する勉強は始めさえしなかったのですが。 英国でオーストラリアのある通訳·翻訳大学院の入学許可を受けておいて、しばらく帰国して学費を補充した後、オーストラリアに渡るという計画でしたが、その最中に国内通訳·翻訳大学院の入学選考を確認してみて、サイトに出たポップアップ·ウィンドウをクリックしてみたのが、その道に入ったきっかけになりました。 国内の大学院への進学を考えてみたのは、その前に大邱(テグ)市内の某書店で偶然出会った元ガールフレンドとの関係から始まったので、その偶然(本当の偶然ならば)こそ人々が言う運命だったのではないかと思います。 もちろん、その友人には何の落ち度もなく、全面的に運命的なことだったと話しておくわけです。 結果的にだけ見ると、中間過程を考えたくもありませんが、博士号と真実を交換したわけです。 出生背景と生みの親が誰なのかも分からないまま安定した職業に就き、結婚もしてそのように暮らしていたとしたら、今の基準ではそれがもっと大きな不幸なのでしょう。 また、出生の秘密とともに耽溺していた社会と自然に対する真実の探求も、私にとって大きな意味を持っていますだから最終的にはありがたいことでもあります。 前のポスティングで言及した「宗教」が私に持つ意味のように、「知る」の意味も同じです。 富と地位がどのように付与されるのかを正確に知ることは、すなわちそれがなくても自分を不幸だと思わなくなることを意味するからです。

¶4 私は菜食をしているのですが、 ―回ずつ外でカップ麺のようなものも買って食べます。 お金に比べてカロリーが高いからです(貧乏だという意味です)。 私が有名な人だったら、その姿が記事にされて偽善者と言われたでしょうね? カップラーメンには肉が入っていますから。 勉強してみたら、肉の味を出す合成化学物質がたくさん入っていて(営業秘密に当たる)、カップ麺の包装紙に書かれている肉成分は食品衛生法上のアレルギー誘発物質については極微量でも表記しなければならないため、肉は非常に少ないのに、人々がそんなことまで分かってくれるはずがないです。 なにより、私の菜食の頃のように菜食主義オリンピックをしているわけではありませんからね。 まず、この程度で弁明をしておいて、大層に私達がなぜこのような姿をしているのかについての考えを簡単に記しておきましょう。 神の摂理に従わなくてそうだと思います。 肉は味がよく、味がいいのが自然だと思う人もいますね。 しかし、野生で直接動物を殺した後、骨抜きにして食べなさいと言われると、食べる人はあまりいないでしょう。 それは確かに自然なことではなくて、 最初からそうでした。 反面、果物は生のまま美味しそうで、その感じもまたどこかで習ったからではないですね。 はじめから与えられたものです。 また果物は種があるので動物が食べて広めたほうが繁殖に有利です。 それに種は動物の消化液に耐えるようになっていて、便を出すとその場で良質な養分とともに育つんですよ。 みんな知っている話です。 重要なのは、「与えられた通り」さえ生きていれば、人々が流離ってしたはずです。 妙にも、おいしくて栄養価の高い果物はすべて温かいところで育ちます。 人が特に寒さを避けて暮らす家が必要なさそうなところでです。 今のように自然破壊が少なかったら日中もそれほど暑くなかったかもしれません。 果物をとって食べた道を循環すれば、戻ってきたとき、また新しい果物が開いているでしょう。 生きていくためにあまり苦労する必要もないという意味です。 それなら神様の意思は人間に流浪せよということではないでしょうか。 何の話をしようとしているのかお分かりになるでしょう。

¶5 所有、階級、不平等が順次生まれてきました。 共産主義者なのかですか? 理解します。私の出生について一部を知っていたり、自分の利益のためにフレームをかぶせるのが好きな人が問いているのであれば。 しかし、共産主義国家にもみな留まっています。 留まることになれば、所有が生まれることは必然ですが、(私的な)所有がないからといって(本当になくもないですが)歩き回れということはないのです。 理念ではなく、神の意志によって生きないことが問題なのですね。 食べて生きる以外にも人間は神の摂理を拒否しているものがもうひとつあります。 すぐ繁殖です。 人は誰でもきれいでハンサムな人に性欲を感じるようになっています。 はい、人は外見差別主義者です。 美的基準は主観的だと言う人がいますが、普遍的に綺麗でハンサムなものは確かに存在し、人々はそれを区別します。 しかし、差別する人を責めることはできません。 造物主が人をそう作ったからです。 人々はただ差別的な表現をしないだけです。 ひいては人権、多様性、平等のようなもので包装さえしています。 明らかに彼らの心の中では好き嫌いが分かれているのにです。 もし神様の意圖によってのみ性関係が成立していたら、世の中にはきれいでハンサムな人だけが生まれたはずです。 しかし、人々はその考えに従いません。 なぜでしょうか? 性関係と出産が手段になるからです。 何のための手段ですか。 生存です。生来的な不平等により生存が脅かされ、その脅威は所有者に奉仕してこそ解消されるのです。 そのため、人々はもう本能による自然な性関係だけをしません。 性は手段となり、世の中の人々には物質だけでなく、また違った面で優劣が生まれるのです。 この違いは滑らかにのみ克服されないので、その副作用の総和が悪の総和となります。

¶6 歩き回る人間の事は、以前に思わなかった事ではないのですが、過度に理想的で、他の人には、荒唐無稽なアイディアだと思いました。 特に上に挙げた出産みたいな話は、公にするのはとても難しい物ですよね。 プロフに私の写真があるから論点と関係のない人身攻撃をたくさん受けただろうし、「優生学」的偏見に対する反感や人の脳裏に深く刻まれた一般的な「平等」の観点では直観的に強い拒否感がある話ですからです。 しかし、不平等の起源に関しては必ず考えてみなければならない問題であり、その問題提起は「ハンサムな」人でなければならないものではないのですね。 荒唐無稽な側面より、行き過ぎた理想主義だと思った側面が大きいのですが、それは出歩く人間の生き方が今よりずっと単調ではないかという考えからでした。 華麗な建物、先端機器、繊細な文化芸術が可能ではなかったような気もしました。 しかし、よく考えてみると、これらは留まって暮らすためにできたものです。 言い換えれば、歩き回って暮らしたなら必要なかったものでもあります。 住宅、商業施設、通信機器、移動手段は言うまでもなく、文化芸術もそうです。 例えば、風刺と諧謔に満ちた文学作品を見て感動を感じますが、風刺と諧謔の対象が存在しない限り、面白さどころか存在すらできない文でしょう。 我々は、美しい自然の中にいる時、あえて美術作品を持ち帰ったり、モーツァルトの音楽を聴いたりしません。 すべて留まってみると、人々と激しくぶつかりながらできたものに近いものです。 精巧な言葉も、派手な衣服も、もっと速く走る車も、日に日に発展するスマホも…。 彼らの「必要」は、留まることによって生じたものであり、その「進化」は、人々の優劣争いにつながる側面がより大きいといえます。

¶7 歩き回るとお互いに頼るようになります。 所有がないから階級がない、階級がないから不平等がない、不平等がないから戦う理由がないからです。 若い人は力が強く、お年寄りは歩き回った経験が積もって、お互いに助けになるからでもあります。 どこで、誰の子供に生まれるかは、何の関係もありません。 留まって暮らすと、このすべてが反対になります。 それこそ、万人の万人に対する闘争であり、所有する時にのみ尊重してもらえるのです。 このような所有、階級、不平等の害悪はよく知られており、あえて描写する必要はありませんが、要はこんなふうに生きられなかったという残念さにあるのですね。

¶8 今日図書館まで歩いてくるときに街の下水溝の匂いで吐き気をたくさん感じました。 天気が暖かくなりながら、もっとひどくなるようです。 ここには超高層マンションが多いです。 狭い所に留まって住んでいるからそうでしょう。 人々は これを「発展」と呼びます。 しかし、マンションの階数ほど深く掘った土地も発展と呼べるか分かりませんね。 基礎工事のためですって? まあ、正しい話です。 半分だけですね。うんちをする人が上にたくさん溜まるほど、 うんちが下がる道も深くならないといけないのです。 そのウンチたちは全部どこに行きましょうか。 私は近頃ニュースに出てくる原発水よりも下水道の糞水のほうが怖いです。 このように多くの人々を食べさせる動物たちも、どこかで飼育されているでしょう。 とてつもない糞たちと一緒にですよ。 人々はこの家一軒買おうとすれば途方もなく多いくそを漏らさなければなりません。 韓国ではとても苦労していることを比喩的に「うんちが通る道が燃える」とも言います。 住宅価格で維持される経済構造の中で暮らしながらも、住宅価格が下がることを望み、また、自分の住宅価格が上がることを望み、彼らは今日もうんちをします。 肥桶に住んでいて病気になったら、万病に効く薬が出ることを望まない人に身を委ねるでしょう。 一度も自分の目で直接見たことのない世界についての理論家たちに未来の革命を期待します。 同意したことのない制度で選出された同意したことのない人に自分のうんちの色を任せるでしょう。 牛·豚·鶏を殺し、自分の足に蹴られた足かせが固定されたアパートで寝た後、他の人の生存を少し危うくして、また牛·豚·鶏を殺した後、うんちをします。 これを無限リピートします。 すべて人間がそこで留まりながら生まれた人の美しい日課、あなたの人生の回し車です。 白眉はここに人間同士で交わす甘い言葉をオーバーラップさせてみるものでしょう。

 

 

 

*エピローグ: あるありがたい方が、私の出生の秘密に関する本質を たった一つの漢字で教えてくれたことがあります。 もちろんその具体的な方法はその方が特定されるかもしれないのでここに書きません。 私を私ではなく他の人(または変であったり無能であったり怠惰な人に)に見えるようにすることを含め、少なからぬ人や資源が動員されるべき仕事がどのように可能だったのかを説明するのです。 感謝いたします。 以前にもそれを間接的に暗示されたことがあったのですが、曖昧だったことが理解できた瞬間でした。

*このブログの日本語文章は、ネイバーのオンライン翻訳サービスを利用して下地翻訳後に著しく歪曲された部分だけ修正したもので、ネイティブの基準で不自然な表現がある可能性があります。

 

¶1 박사과정 때 한 교수님으로부터 뜬금 없는 제안을 받은 적이 있었어요. 조지아란 나라에 가서 포도농장에서 일해 볼 생각이 없느냐고. 한창 항공우주법 전공으로 열심히 학위과정을 하고 있고, 그런 저를 잘 아시는 분의 제안이어서 어안이 벙벙했었더랬지요. 또 누군가는 막무가내로  저를 앞뒤 맥락 없이 미국에 보내려 한 적도 있었고요. 지금 혼자 힘으로 알게 된 것을 그 때도 알았더라면 지금 조지아든 미국이든 가 있지 않았을까도 생각해 봅니다. 모든 일이 그랬던 것 같아요. 제안자와 제안을 받는 자 모두가 충분히 상황을 객관적으로 인식하고 서로의 양해가 있었어야 합리적이고 후회 없는 선택이 가능했을텐데, 전혀 그렇지 못했던 것이었지요. 지난 번 포스팅에서 썼듯, 각자 자신들의 이익을 위해 나를 어떤 프레임속에 집어 넣고 여기서 유래된 제 3자 간의 엇갈린 인식 속에서 일이 진행되었고, 그 와중에 아무 것도 모르던 나의 선택을 받았던 것이지요. 문제는 거기서 제 3자간에도 저에 대한 엇갈린 인식이 생겨난 건 아닌가 싶은겁니다. 그냥 노파심에서 적어봅니다. 늘 언급하듯, 나에 대해 정확히 말해 줄 사람도, 시간도 별로 없거든요. 아, 한 가지 덧 붙이고 싶은 것이 있네요. 오사카 여행을 자주 거론하게 되는군요. 호주 퍼스에서 총 석 달간의 오사카 여행기간 중 첫 번째와 마지막 달에 지낼 숙소를 에어비엔비로 예약해 놓고 떠났습니다. 저렴한 항공권이어서 말레이시아를 거친 후 일본에 도착했더랬지요. 첫 숙소는 카타오카란 성을 쓰는 분이 주인이었어요. 제가 도착하기 직전 동남아 출신의 커플이 같은 숙소에 먼저 와있었습니다. 주인 분이 나중에 그러더군요, 이 커플이 저더러 "평생 먹고 살 재산을 가지고 있다"고요. 제 상황이 그 사람들이 묘사한 것과 반대란 사실보다 더 놀라운 것은 그들이 일면식도 없던 사람이었다는 것이겠지요. 경험으로 볼 때, 거의 모든 거짓은 돈과 연결되더군요. 누군가의 이익을 위해 저를 부자로 꾸몄다면 상상해 볼 수 있는 시나리오는 몇 가지 되지만 굳이 적진 않겠습니다. 그저 제게 이런 황당한 일이 있었고, 저와 다른 제가 어디선가, 누군가에 인식되어 있겠구나 하는 강력한 가능성을 말해 두는 것이지요.

¶2 박사과정에선 친모를 찾는 것과 관련해 남겨두고 싶은 일화가 있습니다. 학교 교원 중 한 분은 자신이 1년 간 머물게 된 독일에 저더러 놀러오라고 제안한 적이 있었지요. 그 때는 단순 여행 차원이라고 생각했지만 지금은 그 이상의 무언가가 있었을 것 같기도 해서말입니다. 마침 그 시기에 북한의 어떤 분이 치료차 베를린에 다녀가셨다는 기사를 본 적이 있습니다. 공교롭게도 놀라오라고 제안 받은 장소와 시기가 겹친 것, 그리고 그 분의 "목디스크" 치료를 위한 방문이었다는 점에 주목한 것인데 저와 어떤 관련이 있는 지는 모르겠군요. 제 석사과정은 박사과정과 마찬가지로 항공에 관한 것이었는데, 그 때 동기들 중에 왜 이 과정을 선택했을까 궁금했던 사람들이 많았더랬습니다. 대표적인 예로 독일에서 피아노 전공으로 한국의 박사과정에 해당하는 학위과정까지 마치고 돌아왔던 동기를 들고 싶군요. 저와 가장 친한 동기 중 한 명이었더랬죠. 다시 또 오사카 이야기를 해야겠습니다. 거기서 세 번째 머물렀던 집은 미국인이 주인이었는데, 그 주인 내외와는 한달 동안 매일아침식사 때 마다 많은 얘기를 나눠 참 좋은 기억으로 남아있는 곳입니다. 그 때 남자주인 분은 구독하던 영자신문에서 북한 관련 얘기만 나오면 그걸 아침식사의 대화주제로 올리곤 했었더랬어요. 특히 북한의 어떤 고위인사가 숙청되었던 과거 얘기를 제게 진지하게 물어봤던 것이 기억에 남는군요. 돌이켜보면, 저도 몰랐던 저에 대해 그는 뭔가를 알고 있었던 것 같습니다만 그저 제 추측입니다. 관련이 있을지 모르겠습니다만, 그냥 생각나는 건 자유롭게 남겨 놓고 싶군요. 저는 고등학교 때도 이른바 '사교육'이란 것을 받아 본 적이 없습니다. 중학교 때도 마찬가지였고요. 초등학교 때는 컴퓨터에만 푹 빠져 사는 이른바 오타쿠였더랬지요. 그래서 어린시절에만 저를 보고 지금의 저를 보게 된 사람이 있다면 그간 써왔던 글에서 묻어 나오는 이미지를 통해 아마도 약간의 괴리감을 느끼지 않을까 생각합니다. 어릴 때 다녔던 유일한 '학원'이자, 가장 오래 다니기도 했던 곳이 컴퓨터 학원이었는데요, 그래서 사람들은 저에 대해 컴퓨터 쪽으로만 기억을 하고 있을지도 모르겠습니다. 실제로 초등학교 때부터 봐 온 친구들 마저도 지금은 할 줄 아는게 아무 것도 없음에도 불구하고, 여전히 제가 컴퓨터를 깊이 다룰 거라고 생각하고 있음을 알게 된 적도 있었으니까요. 우연한 것인지 의도된 것인지 모르겠지만 이 오해의 끝은 어딘가 싶습니다만 남기고 싶은 말은 그게 아니고요, 제가 최초로 '보내 진' 학원은 피아노 학원이었다는 것이지요. 이건 아무도 모를 겁니다. 서류상으로만 쌍둥이인건지는 모르겠지만 하나 있는 동생도 같이 보내지 않았던 학원이었지요. 왜 하필 '피아노' 였을까 하는 것은 가끔씩 생각해 보는 것이기도 했는데 이번 단락에서 특히 그렇군요. 다시 박사과정으로 돌아가겠습니다. 그 때 입학 동기 중에는, 뭐 배움에는 나이가 무슨 상관이겠습니까만은, 통상적으로 학위과정을 다니기엔 굉장히 나이가 많은 분이 계셨지요. 학교가 소재한 광역행정단위의 의원이 되고자 하셨던 것으로 기억합니다. 그 땐 몰랐지만 나중에 친모를 찾는 과정에서 친모와 아주 밀접한 관계로 추정되는 분이 계셨는데요, 분명 한국에 계신 것 같은데 성이 마쓰라 였습니다. 이 분과 한 다리 거쳐 친구로 이어져 있는 분들 중 한 분이 그 박사과정 동기 분과도 친구였던 걸 보고 얼마나 깜짝 놀랐던지요. 학교를 떠난 뒤 4년 뒤의 일이었습니다. 그 때 제 주위에 일어나는 우연처럼 보이는 모든 일들이 사실은 연결되어 있는 것임을 알았더랬지요. 또 놀라운 것은, 박사동기 그 분과 페이스북 친구인 다른 한 분은 2019년 초에 제가 머물던 동네에 와서 저를 몰래 보고 갔다는 것입니다. 아마 그 분은 제가 자신을 인식했는지 모를겁니다. 이런 얘기들은 참 많은데, 그 동안 공개적으로 자세히 쓴 적은 없는 것 같아요. 친모가 누군지 정확히 확정되지 않은 상황에서 친모에 영향을 줄 수 있다고 생각했기 떄문이었습니다. 허나 이젠 일부라도 얘길 해야 되는 때가 온 것 같네요.

¶3 박사과정을 마무리 하던 2013년 중반부터 학위심사를 받았던 2014년 말, 그리고 이듬해 말까지, 꽤 지저분한 일이 있었습니다. 같은 소속된 조직이나 가족이란 울타리 속에서, 같은 내용의 상황이더라도 좋았던 일과 그 반대의 일, 감사한 사람과 그 반대의 사람이 혼재하는 법이라 과거의 일을 일률적으로 재단해 버리는 것은 공평하지 못할 것입니다. 그래서 그 시기를 그저 사람과 사회에 대해 많이 알게 된 계기라고 표현하겠습니다. 모두 잊어 버리고, 마지막이라 생각하고 떠났던 오사카 여행 직후가 되어서야 저의 출생에 관해 본격적으로 알아 보았지만(어떤 알 수 없는 힘에 이끌리듯 그 생각에 사로잡혀 정말 '무'의 상태에서 돌아왔었습니다), 그 진정한 동기부여가 되었던 것은 위에서 언급한 시기에 겪은 일이었지요. 한 번씩 지금 알게 된 걸 그 때도 알고 있었더라면 주요 변곡점이 되었던 이벤트들에서 다른 선택을 했을까 생각해 보기도 합니다. 2013년 전에 알았더라면 어디 숨어 지내라고 보내는 곳에(그런 의도가 맞다면) 갔을 것 같기도 하고, 석사과정 때 알았더라면 방콕에서 인턴할 때 거기 눌러 앉는 방법을 생각했을 것 같기도 하고(실제로 주관기관을 통한 제안이 있었습니다), 그 전에 알았더라면 아예 항공에 관한 공부를 시작하지도 않았을 텐데 말입니다. 영국에서 호주의 한 통번역대학원 입학허가를 받아 놓고 잠시 귀국해 학비를 보충한 뒤 호주로 건너간다는 계획이었는데, 그 와중에 국내 통번역대학원의 입학전형을 확인해 보다 사이트에 뜬 팝업창을 클릭해 본 것이 그길로 접어들었던 계기가 되었지요. 국내 대학원 진학을 고려해 본 것은, 그 전에 대구시내의 모 서점에서 우연히 마주친 전 여자친구와의 관계에서 비롯된 것이니 그 우연(정말 우연이라면)이야 말로 사람들이 말하는 운명이었지 않나 싶습니다. 물론 그 친구에겐 아무 잘못이 없고, 전적으로 운명적인 일이었음을 얘기해 두는 것입니다. 결과적으로만 보면, 그 중간 과정은 생각도 하기 싫지만, 박사학위와 진실을 맞바꾼 셈입니다. 그래서 궁극적으로는 고마운 일이기도 합니다. 출생배경과 친부모가 누구인지도 모른 채 안정된 직업을 갖고 결혼도 하고 그렇게 살았다면 지금 기준에선 그게 더 큰 불행인 것이겠지요. 또 출생의 비밀과 더불어 탐닉했던 사회와 자연에 대한 진실탐구도 제게 큰 의미가 되었습니다. 이전 포스팅에서 언급했던 '종교'가 제게 갖는 의미처럼, '앎'이란 것도 제게는 마찬가지의 것이거든요. 부와 지위가 어떻게 부여되는지 정확히 알게되는 것은, 곧 그것이 없어도 자신을 불행하다 여기지 않게 되는 것을 의미하기 때문입니다.

¶4 저는 채식을 하고 있는데, 한 번씩 밖에서 컵라면 같은 것도 사먹습니다. 돈에 비해 칼로리가 높기 때문이죠(가난해서란 뜻입니다). 제가 유명한 사람이었다면 그 모습이 기사화돼 위선자 소리를 들었겠지요? 컵라면엔 고기가 들어 있으니까요. 공부를 해 보니 고기맛을 내는 합성화학물질이 많이 들어 있고(거의 영업비밀에 해당하는) 컵라면 포장지에 적힌 고기성분은 식품위생법상 알러지 유발 물질에 대해선 극미량이어도 표기해야 하기 때문에 고기는 매우 적은 것인데도 사람들이 그런 것까지 알아줄리 없지요. 무엇보다 저의 채식 초창기 때처럼 채식주의 올림픽을 하고 있는 건 아니니까요. 먼저 이 정도 변명을 해 두고 거창하게 우리가 왜 이런 모습을 하고 있을까에 대한 생각을 간단히 적어두려고요. 신의 섭리에 따르지 않아서 그런 것 같아요. 고기는 맛이 좋고, 맛이 좋은 것이 자연스럽다 여길 사람도 있겠습니다. 하지만 야생에서 직접 동물을 죽인 후 발골해 먹으라 그러면 먹는 사람이 많이 없겠지요. 그건 분명 자연스러운게 아니고, 처음부터 그랬습니다. 반면 과일은 날 것 그대로 먹음직 스럽고, 그 느낌 또한 어디서 배워서 그런것이 아니지요. 처음부터 주어진 것입니다. 또 과일은 씨가 있으니 동물이 먹어 널리 퍼뜨려 줘야 번식에 유리합니다. 게다가 씨는 동물의 소화액에 견디게 되어 있어 변을 보면 그 자리에서 양질의 양분과 함께 자라나기도 하지요. 뭐 다들 아는 얘깁니다. 중요한 건, '주어진 대로'만 살았다면 사람들이 떠돌아 다녔을 거란 말이지요. 오묘하게도 맛있고 영양가 많은 과일들은 모두 따뜻한 곳에서 자랍니다. 사람들이 딱히 추위를 피해 살아야 할 집이 필요 없을 것 같은 그런 곳에서요. 지금처럼 자연훼손이 적었다면 한 낮에도 그리 덥지 않았을지도 모릅니다. 과일을 따 먹던 길을 순환하면 다시 돌아왔을 때 다시 새로운 과일이 열려 있겠지요. 먹고 살기 위해 별로 힘들일 필요도 없다는 뜻입니다. 그렇다면 신의 뜻은 인간더러 돌아 다니라는 것 아닐까요? 무슨 얘기를 하려는 건지 아실겁니다.  

¶5 소유, 계급, 불평등이 순차적으로 생겨났습니다. 공산주의자냐고요? 이해합니다. 저의 출생에 대해 일부 알고 있거나, 본인의 이익을 위해 프레임 씌우기 좋아하는 사람이 묻는 것이라면요. 하지만 공산주의 국가에서도 다들 머물러 삽니다. 머물러 있게 되면 소유가 생겨나는 것은 필연이지만, (사적)소유가 없다고 해서(정말 없지도 않지만) 돌아다니란 법은 없거든요. 이념이 아니라 신의 뜻에 따라 살지 않는 것이 문제인 것이지요. 먹고 사는 것 외에도 인간은 신의 섭리를 거부하고 있는 것이 하나 더 있습니다. 바로 번식입니다. 사람은 누구나 예쁘고 잘 생긴 사람에게 성욕을 느끼도록 되어 있습니다. 네, 사람은 외모 차별주의자들입니다. 미적 기준은 주관적이라고 하는 사람이 있지만 보편적으로 예쁘고 잘 생긴건 분명 존재하고 사람들은 그것을 분간합니다. 허나 차별하는 사람을 욕할 수 없습니다. 조물주가 그렇게 만들어 놓았기 때문입니다. 사람들은 다만 차별적인 표현을 하지 않을 뿐이지요. 심지어 인권, 다양성, 평등 같은 걸로 포장하기까지 합니다. 엄연히 자신의 마음속엔 호불호가 나뉘어져 있는데 말이지요. 만약 신의 뜻에 따라서만 성관계가 이루어졌다면 세상엔 예쁘고 잘 생긴 사람들만 태어났을 것입니다. 그러나 사람들은 그 섭리에 따르지 않습니다. 왜 그런 것일까요? 성관계와 출산이 '수단'이 되기 때문입니다. 무엇을 위한 수단인가요? 생존입니다. 생래적인 불평등으로 생존이 위협받고, 그 위협은 소유한 자에 봉사해야만 해소되기 때문에 그렇습니다. 그리하여 사람들은 더 이상 본능에 따른 자연스러운 성관계만을 하지 않습니다. 성은 수단이 되고, 세상 사람들에겐 물질 뿐만 아니라 또 다른 면에서의 우열이 생겨납니다. 이 차이는 매끄럽게만 극복되지 않기 때문에 그 부작용의 총합이 곧 악의 총합이 됩니다.

¶6 돌아다니는 인간에 대해선 이전에 생각해 보지 않은 건 아니지만 지나치게 이상적이고 사람들에겐 황당할 수 있다고 생각했었습니다. 특히 위에 언급한 출산 같은 얘긴 공개적으로 하기 매우 어려운 것이지요. 프로필에 제 사진이 있으니 논점과 상관 없는 인신공격을 무지하게 받았을테고, "우생학"적 편견에 대한 반감이나 사람들의 뇌리에 깊이 박혀 있는 일반적인 "평등" 관점에선 직관적으로 강한 거부감이 드는 얘기니까요. 그러나 불평등의 기원에 관해선 반드시 생각해 봐야 할 문제이고, 그 문제제기는 '잘생긴' 사람이어야 할 수 있는 것은 아닌 것이지요. 황당한 측면보다는 지나친 이상주의라 여겼던 측면이 큰데 그건 돌아다니는 인간의 삶이 지금보다 많이 단조롭지 않을까 하는 생각때문이었습니다. 화려한 건물들, 첨단기기들, 섬세한 문화예술들이 가능하지 않았을 것 같기도 하고요. 허나 곰곰이 생각해 보면 이것들은 머물러 살기에 생겨난 것들입니다. 다시 말해 돌아다녔으면 필요 없었을 것들이기도 하지요. 주택, 상업시설, 통신기기, 이동수단은 말할 것도 없고 문화예술도 그러합니다. 예컨데, 풍자와 해학이 가득한 문학작품을 보고 감동을 느끼지만, 아예 풍자와 해학의 대상이 존재하지 않는다면 재미는 커녕 존재조차 할 수 없는 글이겠지요. 우리는 아름다운 자연속에 있을 때 구태여 미술작품을 가져가서 보거나 모짜르트의 음악을 듣지 않습니다. 모두 머물다보니 사람들과 치열하게 부딛히며 생겨난 것들에 가까운 것들입니다. 정교한 언어도, 화려한 의복도, 좀 더 빨리 달리는 자동차도, 날로 발전하는 스마트폰도... 이들의 '필요'는 머물러서 생긴 것이고 그 '진화'는 사람들 간의 우열다툼으로 생겨난 것에 연결되는 측면이 더 큽니다. 

¶7 돌아다니면 서로 의지하게 됩니다. 소유가 없으니 계급이 없고, 계급이 없으니 불평등이 없고, 불평등이 없으니 싸울이유가 없기 때문입니다. 젊은 사람은 힘이 세고 노인은 돌아다녀 본 경험이 쌓여 서로 도움이 되어서이기도 합니다. 어디서, 누구의 자식으로 태어나느냐는 아무런 상관이 없습니다. 머물러 살면 이 모든 것이 반대가 됩니다. 그야 말로 만인의 만인에 대한 투쟁이고, 소유할 때만 존중받을 수 있습니다. 이런 소유, 계급, 불평등의 해악은 잘 알려져 있어 굳이 더 묘사할 필요가 없지만, 요는 이렇게 살지 않아도 되었다는 아쉬움에 있는 것이지요.

¶8 오늘 도서관까지 걸어 오는데 거리의 하수구 냄새로 구역감을 많이 느꼈습니다. 날씨가 따뜻해 지면서 더 심해지는 것 같아요. 여긴 초고층아파트가 많습니다. 좁은 곳에 머물러 살다보니 그렇겠죠. 사람들은 이를 '발전'이라 부릅니다. 허나 아파트 층수 만큼 깊이 판 땅도 발전이라 부를지 모르겠군요. 기초공사 때문이라고요? 뭐 맞는 얘깁니다. 절반만요. 똥 누는 사람이 위로 많이 쌓일 수록 똥 내려가는 길도 깊어져야 되는 것이죠. 그 똥 다 어디로 갈까요. 전 요즘 말이 많은 원전수보다 하수도 똥물이 더 무섭습니다. 이렇게 많은 사람들을 먹일 동물들 또한 어디선가 사육되고 있겠죠. 어마어마한 똥들과 함께 말입니다. 사람들은 이 집 한채 사려면 엄청난 똥을 싸야합니다. 정말 똥줄타는 일이죠. 집값으로 유지되는 경제구조속에 살면서도 집값이 내리길 바라고, 또 자기 집값은 오르길 바라며 오늘도 똥을 쌀겁니다. 똥통속에 살다 병이나면 만병통치약이 나오길 바라지 않는 사람에게 몸을 맡기겠지요. 한 번도 제 눈으로 본적 없는 세계의 이론가들에게 미래의 혁명을 바랄테고요. 동의한 적 없는 제도로 선출된 동의한 적 없는 사람에게 자신의 똥색깔을 맡기겠지요. 소돼지닭을 죽이고, 자신의 발에 채인 족쇄가 고정된 아파트에서 잠을 잔 뒤, 다른사람의 생존을 조금 위태롭게 하고, 다시 소돼지닭을 죽인 다음 똥을 쌉니다. 이를 무한 반복합니다. 모두 인간이 머물러 살면서 생겨난 아름다운 인간의 일과(日課), 당신 인생의 쳇바퀴이지요. 백미(白眉)는 여기에 인간들끼리 주고 받는 달콤한 말들을 오버랩 시켜보는 것일텝니다.

 

*epilogue: 어떤 고마운 분께서 제 출생의 비밀에 관한 본질을 단 한 개의 한자로 알려주신 적이 있습니다. 물론 그 구체적인 방법은 그 분이 특정될 수 있어서 적지 않겠습니다. 저를 저 아닌 다른 사람으로(또는 이상하거나, 무능하거나, 게으른 사람으로) 보이게 하는 일들을 포함해서, 적잖은 사람과 자원이 동원되어야 되는 일들이 어떻게 가능했는지가 설명되는 것이지요. 감사드립니다. 그 전에도 이를 에둘러 암시 받은 적이 있긴 한데 긴가민가 했던 것이 풀리는 순간이었습니다.


Sun and me

2021-04-16 14:20:22 | Unknown Knowns

 

私に関しては周りに事実と異なるように知られているものがあるということは確実です。 確認されたもののうち、最も代表的な例が私の知らない間に国家情報院(日本の内閣調査処に当たります)職員として知られたものでした。 このほかあえて公に言いたい例の一つは、私の出生について私が知っているかどうかと、その程度についてです。 たとえば、ある方は私が私の出生についてよく知っているということを「前提」に言っている時があります。 そういえば、これは情報機関の職員と間違って伝えられたこととつながっている部分かもしれません。 例えば、私はまったく知らなかったのですが、ある方が私にこう言ってくれました、「有名な仕事の主人公と一緒でよかった」と。 具体的に話すことはできませんが、ある大学の図書館でアルバイトをして辞めた時に聞いた言葉です。 私はいつもこんな風にして私の事を知っていったようです。 その方のお言葉のおかげで私は二つの事実を知ったのです。 自分が有名な事件の主人公であった事と、自分も知らない事実をまるで自分が知っているかのように噂になっていた事です。 この例がかなり多いのですが、今回のポスティングの目的だけ説明すればいいので、ここまでにします。 同じ脈絡で、2018年の大阪旅行の時、 似たような話を聞きました。 その時は、かすかに実の母の存在を知っており、エアビアンドビで予約した宿舎に泊まっていた時、会った人は皆、軽く実の母を探す話を切り出したことがありました。 そのうち三番目の宿で同じ宿泊客として出会った人が上の図書館の職員の方と似た状況を演出したことがありました。 まるで私が実母の事を知っているかのように、彼は話の途中で、私の言い出したある話について、私の「実の母が料理の上手な人であることは確かだ」という趣旨の話をした事がありました。 確かに、彼は対話の隠れた前提が漏れていることに気づいて言ったのかもしれませんが。 昨日、あの時思い出し、実母を探すのにかなり助けられたフェイスブックで知り合った実母に関係する人たち(だから内部者でしょう)のアカウントの中で、特に料理に関心がある方のアカウントが思い出しました。 上記の詩は、その考えを基に書いたものです。 ああ、私の周辺で起こっている異常なことは依然として現在進行形です。 どんな形の宿でも、部屋に入った痕跡があったのが基本です。 どこに行っても、誰かが付いていることに気がつくのです。 オンラインは言うまでもない。 このブログも不特定多数より私を監視する人たちがもっとたくさん見たから役に立たないと思うんだけど、それでも自分で話さないと知られ難い話は一応残してみます。

저에 관해선 주변에 사실과 다르게 알려진 것들이 있는 것은 확실합니다. 확인된 것 중 가장 대표적인 예가 제가 저도 모르는 사이 국가정보원(일본의 내각조사처에 해당됩니다) 직원으로 알려진 것이었죠. 이 외 구태여 공개적으로 언급하고 싶은 예 중 하나는 제 출생에 대해 제가 알고 있는 지의 여부와 그 정도에 관한 것입니다. 이를 테면, 어떤 분은 제가 저의 출생에 대해 잘 알고 있다는 것을 '전제'로 얘기할 때가 있습니다. 그러고 보면 이는 정보기관 직원으로 잘못 알려진 것과 연결되는 부분 같기도 합니다. 예컨데, 저는 전혀 모르고 있던 사실이었습니다만, 어떤 분께서 제게 이렇게 말씀하시더군요, "유명한 일의 주인공과 함께 해 좋았다"고 말입니다. 구체적으로 밝힐 수 없습니다만, 한 대학 도서관에서 아르바이트를 했다가 그만 둘 때 들었던 말입니다. 저는 늘 이런 식으로 저에 대해 알아갔던 것 같습니다. 그 분의 말씀 덕분에 저는 두 가지 사실을 안 것이었죠. 제가 유명한 사건의 주인공이었다는 것과, 저도 모르고 있는 사실을 마치 제가 알고 있는 것 처럼 소문이 나 있다는 사실 말입니다. 이런 예가 꽤 많습니다만, 이번 포스팅의 목적만 설명하면 되므로 각설하도록 하지요. 같은 맥락에서 2018년 오사카 여행 때 비슷한 얘기를 들었더랬습니다. 그 땐 어슴푸레 친모의 존재를 알고 있던 터여서 에어비앤비로 예약한 숙소에 머물 때 만나는 사람마다 가볍게 친모를 찾는 얘기를 꺼낸 적이 있었습니다. 그 중 세 번째 숙소에서 같은 투숙객으로 만난 사람이 위 도서관 직원분과 비슷한 상황을 연출한 적이 있었지요. 마치 제가 친모에 대해 알고 있다는 듯, 그는 대화도중 제가 꺼낸 어떤 얘기에 대해 저의 '친모가 요리를 잘 하는 사람인 것 맞다'는 취지의 얘기를 한 적이 있었습니다. 물론, 그가 대화의 숨은전제가 새어나가는 걸 인식한 채 말한 건지는 모르겠습니다만 말입니다. 어제 갑자기 그 때 생각이 났고, 친모를 찾는 데 도움을 많이 받았던 페이스북을 통해 알게 된 친모와 관련된 사람들(그러니까 내부자 들이겠죠)의 계정에 들어가 보다 유난히 요리에 관한 관심이 드러나 있는 분의 계정이 생각났습니다. 위 시는 그 생각을 바탕으로 쓴 것입니다. 아, 제 주변에서 일어나는 이상한 일들은 여전히 현재 진행형입니다. 어떤 형태의 숙소든 방 안에 들어와 본 흔적이 있었던 것은 기본이고요. 어딜 가든 누군가 붙어 있음을 알게 됩니다. 온라인은 말할 것도 없지요. 이 블로그도 불특정 다수보단 저를 감시하는 사람들이 더 많이 봐서 별 소용은 없을 듯 한데, 그래도 스스로 얘기하지 않으면 알려질 길 없는 얘기들은 일단 남기고 봅니다.

*このブログの日本語はNAVERのオンライン翻訳サイト"パパゴ"を利用して下書き翻訳した後、基礎的な日本語知識で磨いたものです。


contaminated? treated? tritiated.

2021-04-14 17:19:59 | Unknown Knowns
  • "トリチウム(tritium, 三重水素)は不安定な元素だ。 トリチウムは[電子または陽電子として知られる]ベータ粒子を放出して崩壊しながらヘリウムに変わる。 この崩壊過程で放出される放射線がトリチウムだけでなく、他の全ての放射性元素において安定性に関する懸念を生むものである。 トリチウムの崩壊により放出される放射線はベータ粒子の形でエネルギーは非常に低い。 それでこのベータ粒子は人の肌表面を貫通することができない ... 化学反応において、トリチウムは普通の水素原子に似た反応をする。 なのでトリチウムは通常の水と同じように体内で希釈され[消滅する] ... 体内の水分が頻繁に循環するため、トリチウムが素早く組織から除去されるためだ。" [アメリカ合衆国環境保護庁, 2002: Link]

¶1 このポスティングの主な目的は、トリチウムの危害性の可否についてだけを述べることではありません。 トリチウムはある元素の生産と関連があります。 その元素は、私が下に何度も言及しました。 その元素は宇宙全体から見ると「豊かな」元素ですが、地球から得るには不十分な元素といえます。 そしてその元素の液化が多くのことを可能にします。 それが何であるかももう触れました。

¶2 ああ、一つ付け加えますね。 「第4次産業革命」、名前は本当に耳に心地いいものです。 前回のポスティングでも迂回的に触れたように、量子コンピュータの主導権や源泉技術なしに今のデジタル化に進むことはかつてない、取り返しのつかない隷属化の道だと思います。 勿論、一人の考えです。 釜山市民図書館で残します。 

 

  • "트리튬은 불안정한 원소다. 트리튬은 [전자 또는 양전자로 알려진]베타 입자를 방출하며 붕괴하면서 헬륨으로 변한다. 이 붕괴과정에서 방출되는 방사선이 트리튬 뿐 아니라 다른 모든 방사성 원소에 있어 안정성에 관한 우려를 낳는 것이다. 트리튬의 붕괴로 나오는 방사선은 베타 입자의 형태로 그 에너지는 매우 낮다. 그래서 이 베타 입자들은 사람의 피부표면을 관통하지 못한다. ... 화학반응에 있어서, 트리튬은 일반적인 수소원자와 비슷하게 반응한다. 그래서 트리튬은 통상적인 물과 비슷하게 몸 안에서 희석되어[소멸된다] ... 몸 안의 수분이 자주 순환하기 때문에 트리튬이 빨리 조직에서 제거되기 때문이다." [미국환경보호청, 2002: 링크]

¶1 이 포스팅의 주 목적은 트리튬의 위해성 여부에 관해서만 얘기하고자 하는 것은 아닙니다. 트리튬은 어떤 원소의 생산과 관련이 있습니다. 그 원소는 제가 밑에서 여러번 언급했습니다. 그 원소는 우주 전체로 볼 땐 "풍부한" 원소이지만 지구에서 얻기엔 부족한 원소라 할 수 있습니다. 그리고 그 원소의 액화가 많은 것을 가능하게 합니다. 그것이 무엇인지도 이미 언급했습니다.

¶2 아, 한 가지 덧붙이겠습니다. "4차산업혁명", 이름은 참 듣기 좋지요. 이전의 포스팅에서도 우회적으로 언급했듯이, 양자컴퓨터에 대한 주도권이나 원천기술 없이 지금의 디지털화로 나아가는 것은 유례 없던, 되돌릴 수 없는 예속화의 길이라고 생각합니다. 물론, 혼자 생각입니다. 부산시민도서관에서 남깁니다.


安堵

2021-04-07 12:34:57 | 日記

¶1 私の出生証明書上の実母の名前は、現在の公簿上のそれと違います。 もちろん父親も同じですが。 実母を探す旅が始まったいくつかのきっかけの一つでした。 もしやと思ってフェイスブックで出生証明書上の名前で検索してみました。 その中の一人のアカウントに注目するようになりました。 なぜなら、同じ人のように二つの写真を載せておきましたが、私の目には他の二人に見えたからです。 普通、このような場合を見逃さずによく見ていくと、何かを発見するというのが私の経験則でした。 確か、アカウントのプロフィール上の名前はハングルでしたが、写真の雰囲気は直感的に韓国ではないようでした。 カフェや飲食店で撮ったような写真だったんですけど、タイルの床でそんな感じがしたんですよ。 私はタイ·バンコクのある政府間機構で6ヶ月間インターンシップをしたことがあり、東南アジア諸国の建築様式に少し慣れていました。 主に暑い国の建物に施工された、床のような感じでした。 案の定、写真の背景の壁にかかっているカリグラフィーのような装飾品を注意深く見ました。 やっぱり東南アジアの国々の中の一つの国の言語のように見えました。 これを発見したのはかなり昔のことでしたが、その時は検索でいくつかの国の文字を照らし合わせた結果、ぴったり合うほどではなかったでしたが、ミャンマーかカンボジア語ではないかと暫定的に結論を下していました。 この方の写真を注目したのは、科学的な外見の類似性のためでもありました。 遺伝性が最も大きい部分が鼻先の模様、唇の厚さ、そして目の内側の模様で実証されています(NAVERブログ参照、3番目の絵および絵に対する注釈:リンク)。 私と非常に似ている部分でしたね。 これは写真の主人公が、私が実母や関係者と推定した他の方々と最も差別される部分でした。 しかし、カンボジア、またはある東南アジアの国と私を結びつけるだけの何の端緖がかりもなくて、しばらく視野を他の場所に移して探索するようになりました。

¶2 ところが、昨日の偶然のきっかけで、今まで少し留保していた上記の発見についてまた考えてみる事ができました。 私は菜食をしていて、昨日もいつも寄ってくる八百屋に、非常に大きい大根を二つ買いました。 かなり重いですね。 これを持って宿所に帰ってくるが、部屋に入ったら携帯電話もコンピューターもテレビもない私はすることがないと思い、本を借りようと図書館に足を運んだんです。 すでに重いものを持っている状況では、 僕がほとんどやらない行動の一つでした。 普通ある偶然はこんなふうに訪れます。 図書館に到着したらとてもつらくて一応柔らかいような椅子に座りました。 少し休んでから本を選ぶつもりでした。 それで自然に座った席のすぐ前に置かれた本棚に目が留まりました。 それは地域図書館ではめったに見られないマイナー(minor)外国語関連書籍が差し込まれている書架でした。 最初はどういう理由か分かりませんが、 「ミャンマー語」があるか探してみました。 なかったでした。なんでミャンマー語を 探したのか、まだ理解できません。ただ、おそらく最近のミャンマー事態が無意識的に作用したようです。 そうするうちに目がカンボジア語で止まりました。 たった一冊ありました。 出してみました。 内容自体はとても疲れていて、目に入りにくいですね。 ただ、文字の形が以前見た写真の中の扁額のそれと似たものだけを見て閉じそうとしました。 本を閉じようとした瞬間、このような少数言語に関する本を書く著者について知りたくなりました。 本の翼の部分を開きました。 著者の略歴が記されていました。 その時私の目を捕らえたのがありました。 「摩訶[maha]XX運営」

¶3 日本語では書いたことありませんが、私は別のSNSで自分が「監視」されている状況に慣れていて、ここで感じる感情について何度か表現したことがあります。 それで今は図書館でもどこに行っても誰が「監視者」として入ってきているのかよく分かる方です。 私は釜山の南区という行政区域にある宿所で暮していますが, ここから近い南区図書館も監視の例外ではありませんでした。 もちろん、誰かが付いているということもすぐに気付くことができました。 私がこの話を切り出した理由は、その中の一人の図書館IDが「maha」から始まるからです。 面白い事実ですよね? またあの人が来たのかと思って予約の状況を調べていて見つけたんです。 予約者IDの文字のうちいくつか公開されていたため可能だったのです。 マハがカンボジアを含め、似たような文字を使う東南アジアの数ヵ国で使われる単語であることが、簡単な検索で分かりました。 インドシナ半島諸国の言語は専攻者でなければ書く人が極めて少ないことと、私が日頃感じているその人への直感から、それ以前に暫定的に実母推定をしていた、私の出生証明書上の名前に入ってみたある方のフェイスブックアカウントを思い起こさせたのでした。

¶4 それだけでなく、上で述べたバンコクでのインターン時代、誰かが韓国からタイに旅行に来ると連絡をしてきたことがあります。 その人の普段の行動から見ると、私がどこかの国に滞在中だからといって、私に会いに来ることを兼ねて旅行に来る人ではなかったんですが。 それもそのはず、その人は急に目的地をタイからカンボジアに変えて行ってたんですよ。 当時、今知っていることを何も知らなかった私は、その人とカンボジアからでも遭遇するか相談してみましたが、先にタイで会おうと言い出したその人があえてこの提案を断るのを見て少しおかしいなと思いました。 これもまた振り返ってみると、実母と関係があったのではないかと推定されます。 このインターン勤務は修士課程と関連したプログラムを通じて選抜されたものですが、同じ課程の一人の弟と離れる直前に交わした会話も覚えています。 彼は「[現地の人たちと]外見が似ている」よく適応するだろうと言いますね。 もちろん、隣にいた姉が、真顔で、私はどこを見て東南アジア人のような顔をしているのだろうと反問し、少し穏やかになりましたが、彼の発言は長い間記憶に残るものでした。 日本や中国はともかく、東南アジアのほうと似てるという言葉はほとんど聞いたことがないからです。 実は私はその弟の発言が少し理解できます。 自分が実母を探す過程で頼りになったのはもっぱら私の眼でしたが、何らかの事前調査によって形成された心象を持ったままで、或る人物を探索したり、選り分けるための比較作業を行っているうちに、その事前情報に「継ぎ合おうとする」傾向が生じるということがわかりました。 例えば、あるいい顔をしている方が容疑線上(?)に上って、いくつかの手掛りが当たると思ったら、「この人がお母さまだったらいいのに」という感情がわいてくるもので、多少の偏りがあることを経験したからでした。 同じように、その弟も私のことを事前に知っていることがあるから、そんなことを言ったのだと思います。 それだけでなく、学位過程の多くの同僚が私より私についてよく知っていたことを後になって知りました。 これは修士課程だけにとどまりません。 その後の博士課程は言うまでもなく、その前の大学時代、またその前の軍服務時代に出会った人たちまで。

¶5 おそらく、最後のパズルのピースが組み合わさったようですが、今は何かを断定することに慎重になってきています。 人は本能上「説明」になっている状態にとどまり、不確実性が取り除かれた方へ心が向くように手なずけられているからです。 もし推測が正しいのであれば、多くのことが一つにつながっていくと思います。 私は今の宿所に入る前、ゲストハウスという形の宿泊施設に2ヶ月ほど泊まりました。 その時、その施設のコンピュータを使って上で述べたFacebookアカウントの主人公と同一人物またはその方と緊密な関係者と推定される、別の名前のFacebookユーザーのプロフィール写真をアップロードして作業をしたことがありました。 その様子を後ろから宿泊客のお一人が見ていて、後で廊下の階段を下りながらガラスドア一つを挟んで通り過ぎたことがありましたが、その時その方が隣の人に話しているのを聞きました。 「[あの人]お母さん探しに来た」。 その後、ゲストハウスにたまたま立ち寄った宿泊客のように、泊まることになった多くの人々と遭遇(?)したが、後に同じ顔立ちの分析と会話内容を分析を通じて、私が実母を探しているのと無関係ではなかった人であることがわかりました。 昨日の偶然に触発された一連の考えは、すべて事後的につながるようです。

¶6 人は最近までつづいた考え、ある分析の対象、そしてその分析の枠組みで現在新たに迎える現象を見つめることもまた影響を受けるものです。 私の場合は自然科学的なもの、特に物理学に関することがいまのいろいろな観点から影響を与えています。 だから、現代物理学に関する一つの例えを挙げたいと思います。 肉屋が一つあると言いますね。 店主は肉に対する常識が豊富です。 しかし彼は、肉の重さを正確にわかりません。 いつもデジタル秤に掛けてこそ、顧客に正確な重さの肉をその重さに比例した価格で売ることができます。 はかりには量るのに必要なハードウェアとソフトウェアが一緒に入っています。 そのソフトウェアには計算に必要な公式とその中の変数を繋げて正確な計算を可能にする常數があると仮定しましょう。 店主は顧客の間では「肉博士」と呼ばれている「専門家」ですが、いざ秤の中の公式と常数が何なのかわかりません。 ある肉屋の店主は好奇心が強くて、公式や常数を知っていることも仮定しましょう。 ところがその店主ですら、その公式の論理的なつながりを理解するだけで、その中の常数がどこから、どう出たのかわかりません。 この主人は,前述の「肉博士」よりもよく知っている人なので,「肉の教授」としましょう。 では、質問を投げてみましょう。 顧客である私たちは肉の重さに関して店主を信頼することができるでしょうか? 答えは「いいえ」です。 彼らは嘘つきかもしれませんが、この世で最も正直な人だとしても、この質問に対する答えは「はい」にはなれません。 その常数がなぜよりによってそうなっているのか分からないとすれば、量りが指示する肉の重さが正確なのか言えないからです。 では、誰が知っているのでしょうか。 私には分かりません。 しかし私は確かに一つは分かります。 肉博士と肉教授より秤を作った人がもっとよく知っているということを。 しかし、人々は実際に肉を扱って、切って売って、値段を決めて、ある部位がおいしいという面白い情報を与える肉博士と肉教授だけを見つめています。 そして彼らを信じています。

¶7 上の段落で何が書かれているのか分かると思います。 今の物理学がそうです。 店主や顧客、はかりがそれぞれ誰と何に例えたのかもお分かりでしょう。 この例えをあげたのは、こうした現象が物理学だけに止まらないということを述べるためです。 肉の本質を自然の本質になぞらえているわけですから、他のすべての社会現象の本質についても事情は同じです。 自分が実母を探す過程で切なく感じたのは、自分が実母と離れ離れになり、それは秘密にされ、その真実に近づくことそのものが不利益となる現実が、上に述べた比喩が登場した背景と無関係ではないという事です。 世の中はあまりにも多くの嘘で囲まれています。 それは嘘がまた別の嘘を産んだからです。 しかしほとんどの人は、不幸にも、自分が嘘の中にいることさえ知らないようです。 私は今まで書いてきた文章から無意識的にも意識的にも「奴隷」という言葉をよく使ってきたようですが、それは認識さえ不可能な偽りの層位のためにそういうものでした。 所詮、自分の意志で生きていけない状態を指す意味での「奴隷状態」は、昔から存在していたもので、不平等は生まれながらに存在するものですから、この形式的な意味での奴隷には触れる理由もないのでした。 人が私が意味する「奴隷状態」に置かれるようになるのはまさに人そのもの自身のためのようです。 ごう慢で貪欲だからだと思います。 自分が嘘の中にいることも知らず、嘘をついています。 罪を犯すのも知らず罪を犯します。 相手が私の行う嘘を知らないだろうという高慢のせいであり、私の行う嘘の結果が相手に迷惑をかけるわけではないという無知のせいであり、その結果が私に大きな利益をくれるから追求するしかない貪欲のためです。 もっと大きな問題は、この世界を維持するためには人間たちはこのようなとんでもないことを続けなければならないということです。

¶8 今日は韓国で、私が見る限りでは全くそうではありませんが、誰かの目にはとても重要な選挙がある日です。 最も大きい二つの都市の長を選んだからだし、それが続く大統領選挙の結果につながると思ってそう思うようです。 私はこの文章を終えて、投票する代わりに映画でも見に行こうと思っています。 もしかしてこれも誰かの望み通りになるのでしょうか^^。私は貧しくて韓国の社会福祉制度の中の一つに頼っていますが、そこで文化生活をしろと補助してくれる一定金額があります。 映画や本の購入など使い道が限られていて、食べ物の代わりにこういうところに使うしかないんですよ。 代わりに映画館でおいしいポップコーンを 買って食べればいいんです^^。 特に今日はこの福祉制度の受給者が映画を見る場合、半額で見られるイベントを行う日ですから。 天気も本当に暖かくていいです。 私が寒さが嫌いで暑さはまあまあ耐え忍ぶ方ですが、これも生みの親の影響が大きいでしょう。 私が実母を探した重要な理由の一つは、生存の有無を調べるためでもありました。 誰か私に躍起になって隠すことがあり、もしやそれが私の実母の安否とも関係しているのではないかと思ったからです。 私に隠す事なら私に良くない事ですから。 もしあの上の段落からの推測が正しければ、少なくとも実母は元気なので、心配は軽くなりました。 もちろん、これもまた断定は難しいことですが…。 写真の中のあの方は本当に美しいですね。 とても鼓舞的な事ですが、これもまた私が無邪気に心に抱いて幸せを生み出す事ができるかわかりません。 今までそうだったように、これからもただ馬鹿みたいに生きていくつもりです。 馬鹿を慰めるラテン語の警句が一つあります。図書館でパソコンを使える時間がほとんどなくなっていきますね。 その警句で終わります。 Fortuna favet fatuis。

 

¶1 제 출생증명서 상의 친모의 이름은 현재 공부상의 그것과 다릅니다. 물론 부친도 마찬가지입니다만. 친모를 찾는 여정의 시작이 된 몇 가지 계기 중 하나였었지요. 혹시나 싶어 페이스북에서 출생증명서상의 이름으로 검색을 해 봤습니다. 그 중 한 분의 계정에 주목하게 되었지요. 왜냐면 같은 사람인 양 두 개의 사진을 올려 놨지만 제 눈엔 다른 두 사람으로 보였기 때문입니다. 보통 이런 경우를 놓치지 않고 잘 들여다 보면 뭔가를 발견하게 되었던 게 제 경험칙이었습니다. 분명 계정의 프로필 상 이름은 한글이었지만 사진의 분위기는 직감적으로 한국이 아닌 듯 했습니다. 카페나 음식점에서 찍은 듯한 사진이었는데, 타일 바닥에서 그런 느낌을 받았더랬죠. 저는 태국 방콕의 한 정부간 기구에서 6개월 간 인턴을 한 적이 있어서 동남아국가의 건축양식에 조금 익숙했더랬습니다. 주로 더운 나라의 건물에 시공된 바닥의 느낌이었지요. 아니나 다를까, 사진 배경의 벽에 걸려 있는 캘리그라피 같기도 한 장식품을 유심히 봤습니다. 역시 동남아시아 국가 중 한 국가의 언어같아 보였습니다. 이걸 발견한 건 꽤 오래 전의 일이었는데, 그 땐 검색으로 몇 개 국가의 문자를 대조해 본 결과 딱 떨어지진 않았지만 미얀마 또는 캄보디아어이지 않을까 잠정적으로 결론을 내려놓고 있었습니다. 이 분의 사진을 주목했던 건 과학적인 외모의 유사성 때문이기도 했습니다. 유전성이 가장 큰 부분이 코 끝의 모양, 입술의 전체 두께, 그리고 눈 안쪽의 모양으로 실증되어 있습니다(제 네이버 블로그 참조, 3번째 그림 및 그림에 대한 주석:링크). 저하고 많이 닮은 부분이었지요. 이건 사진의 주인공께서 제가 친모 또는 관계자로 추정했던 다른 분들과 가장 차별되는 부분이었기도 했고요. 하지만 캄보디아, 또는 어떤 동남아시아의 한 국가와 저를 연결지어 볼 만한 아무 단서도 없어 잠시 시야를 다른 곳으로 옮겨 탐색하게 되었고요.

¶2 그런데 어제 우연한 계기로 그간 잠시 유보해 두고 있던 위의 발견에 대해 다시 생각해 볼 만한 일이 생겼습니다. 저는 채식을 하고 있고, 어제도 늘 들리는 야채가게에 가 무우 큰 거 두 개를 샀습니다. 꽤 무겁더군요. 이걸 들고 숙소로 돌아오는데, 방에 들어가면 휴대폰도, 컴퓨터도, TV도 없는 저는 할 게 없다는 생각에 책을 빌리고자 도서관으로 발걸음을 옮겼더랬습니다. 이미 무거운 걸 들고 있는 상황에서는 제가 거의 하지 않는 행동 중의 하나였지요. 보통 어떤 우연은 이런식으로 찾아오더군요. 도서관에 당도하자 너무 힘들어 일단 푹신해 보이는 의자에 앉았습니다. 조금 쉬었다가 책을 고를 생각이었죠. 그래서 자연스레 앉은 자리 바로 앞에 놓인 책장에 눈길이 갔습니다. 그건 지역도서관에선 좀처럼 보기 드문 마이너(minor) 외국어 관련 서적들이 꽃힌 서가였죠. 처음엔 무슨 이유에서인지 몰라도 '미얀마어'가 있나 찾아 보았습니다. 없더군요. 왜 미얀마어를 찾았는지 아직도 이해를 못하겠습니다만, 아마도 최근의 미얀마 사태가 무의식에서 작용했나 봅니다. 그러다 눈길이 캄보디아어에서 멈췄습니다. 단 한 권 있더군요. 꺼내봤습니다. 내용 자체는 너무 피곤한 상태라 눈에 잘 들어오지 않더군요. 그냥 문자의 생김새가 예전에 봤던 사진 속 현판의 그것과 비슷한 것인지만 보다 덮으려 했습니다. 책을 덮으려던 순간, 이런 소수 언어에 관한 책을 쓰는 저자에 대해 궁금해졌습니다. 책 날개를 폈더랬죠. 저자의 약력이 나와있습니다. 그 때 제 눈을 사로 잡은 것이 있었습니다. "마하XX 운영".

¶3 일본어로는 쓴 적이 없지만, 저는 다른 SNS를 통해 제가 '감시'되고 있는 상황에 익숙하고, 여기서 느끼는 감정에 대해 몇 번 표현한 적이 있습니다. 그래서 지금은 도서관이든 어딜 가도 누가 '감시자'로 들어와 있는지 잘 알아차리는 편입니다. 저는 부산의 남구라는 행정구역에 소재한 숙소에서 지내고 있는데, 여기서 가까운 남구도서관도 감시의 예외가 아니었습니다. 물론 누군가 붙어 있다는 것도 바로 알아챌 수 있었고요. 제가 이 얘기를 꺼낸 이유는 바로, 그 중 한 사람의 도서관 아이디가 "maha"로 시작하기 때문입니다. 재미있는 사실이죠? 또 그 사람이 왔나 싶어 예약현황을 살펴보다 발견한 것입니다. 예약자 아이디의 앞 글자 몇 개가 공개되어 있거든요. 마하가 캄보디아를 포함해 비슷한 문자를 쓰는 동남아 몇 개국에서 쓰이는 단어인걸 간단한 검색으로 알 수 있었습니다. 인도차이나반도 국가의 언어는 전공자가 아니면 쓰는 사람이 극히 적다는 점과, 제가 평소 느끼고 있던 그 사람에 대한 직감을 연결해 볼 때 앞서 잠정적으로 친모추정을 했던, 제 출생증명서상의 이름으로 들어가 본 어떤 분의 페이스북 계정을 강하게 떠올리게 했던 것이었죠.

¶4 뿐만 아니라, 위에서 언급했던 방콕에서의 인턴시절, 누군가 한국에서 태국에 여행온다고 연락을 해 온 적이 있습니다. 그 사람의 평소행동으로 볼 때, 제가 어느 국가에 체류 중이라고해서 저를 보러 올 것을 겸해 여행을 올만한 사람은 아니었지만요. 그도 그럴 것이, 그 사람은 갑자기 목적지를 태국에서 캄보디아로 바꿔 다녀갔더랬죠. 당시 지금 알고 있는 걸 아무 것도 몰랐던 저는, 그 사람과 캄보디아에서라도 조우할까 상의해 보았지만 먼저 태국에서 보자고 얘기를 꺼낸 그 사람이 굳이 이 제안을 마다하는 것을 보고 조금 이상하다는 생각도 들었더랬습니다. 이 또한 돌이켜 보면 친모와 관련이 있었지 않았나 추정해 봅니다. 해당 인턴근무는 석사과정과 연계된 프로그램을 통해 선발된 것이었는데, 같은 과정의 한 동생과 떠나기 직전에 나눈 대화도 기억납니다. 그가 이렇게 말하더군요, "[현지인들과] 외모가 비슷해" 잘 적응할 거라고요. 물론 옆에 있던 동료 누나가 정색하며 제가 어딜봐서 동남아시아인들처럼 생겼나며 반문해 조금 누그러들었지만, 그의 발언은 오래도록 기억에 남는 것이었습니다. 일본이나 중국은 몰라도 동남아 쪽과 닮았단 말은 거의 들어본 적이 없었거든요. 사실 저는 그 동생의 발언이 조금은 이해가 갑니다. 제가 친모를 찾는 과정에서 의존한 건 오로지 제 두 눈이었는데, 모종에 사전 조사를 통해 형성된 심상을 가진 채로, 어떤 인물을 탐색하거나 가려내기 위한 비교 작업을 하다보면 그 사전 정보에 '끼워 맞추려는' 경향이 생긴다는 것을 알게 되었습니다. 예를 들면 어떤 어질게 생긴 분이 용의선상(?)에 오르고 몇 가지 단서가 맞는다 싶으면 이 분이 어머니였으면 좋겠다는 감정이 일게 마련이고, 약간의 편향이 생김을 경험했기 때문이었지요. 마찬가지로, 그 동생 역시 저에 대해 사전에 알고 있는 것이 있기 때문에 그런 말을 한 것이라고 생각합니다. 그 뿐 만 아니라, 학위과정의 많은 동료들이 저 보다 저 자신에 대해 더 많이 알고 있었음을 뒤 늦게 알게 되었더랬죠. 이건 석사과정에만 그치지 않습니다. 이후의 박사과정은 말할 것도 없고, 그 전의 대학시절, 또 그 전 군복무시절에 만난 사람들까지도.

¶5 아마도, 아마도 마지막 퍼즐조각이 맞춰진 듯 한데, 이제는 뭔가를 단정하는 것이 매우 조심스럽습니다. 사람은 본능상 '설명'이 되어 있는 상태에 머물길 좋아하고 불확실성이 제거된 쪽으로 마음먹도록 길들여져 있기 때문이겠죠. 혹시 추측이 맞다면, 많은 것이 하나로 이어지는 것 같습니다. 저는 지금의 숙소에 들어오기 전 게스트하우스라는 형태의 숙박시설에 약 두 달정도 머물렀습니다. 그 때 그 시설의 컴퓨터를 이용해 위에서 언급했던 페이스북 계정의 주인공과 동일 인물 또는 그 분과 긴밀한 관계자로 추정되는, 다른 이름을 쓰는 분의 페이스북 프로필 사진을 띄워 놓고 작업을 했던 적이 있습니다. 그 모습을 뒤에서 투숙객 중 한 분이 봤고, 나중에 그 분을 복도 계단을 내려가며 유리문 하나를 사이에 두고 지나친 적이 있었는데, 그 때 그 분이 옆의 사람에게 말하는 것을 들었습니다. "[저 사람]엄마 찾으러 왔다". 이후 게스트하우스에 그저 우연히 들른 투숙객인 양 묵게 된 많은 사람들과 조우(?)하게 되었는데 나중에 마찬가지의 생김새 분석과 대화내용의 분석을 통해 제가 친모를 찾고 있는 것과 무관하지 않았던 사람임을 알게 되었지요. 어제의 우연에서 촉발된 사고의 나아감은 이 모든 것을 사후적으로 이어주는 것 같습니다.

¶6 사람은 최근까지 이어오던 생각, 어떤 분석의 대상, 그리고 그 분석의 틀에서 현재 새로 맞이하는 현상을 바라보는 것 또한 영향을 받기 마련입니다. 저 같은 경우는 자연과학적인 것들, 특히 물리학에 관한 것이 지금의 여러 가지 바라봄에 영향을 주고 있습니다. 그래서 현대 물리학에 관한 하나의 비유를 들고 싶습니다. 정육점이 하나 있다고 하죠. 가게 주인은 고기에 대한 상식이 풍부합니다. 그러나 그는 고기의 무게를 정확히 알 수 없습니다. 언제나 디지털 저울에 달아야만 고객에게 정확한 무게의 고기를 그 무게에 비례한 가격에 팔 수 있죠. 저울에는 무게를 재는데 필요한 하드웨어와 소프트웨어가 같이 들어가 있습니다. 그 소프트웨어엔 계산에 필요한 어떤 공식과 그 안의 변수들을 이어서 정확한 계산을 가능케 하는 상수가 있다고 하죠. 가게 주인은 고객 사이에선 '고기 박사'로 통하는 '전문가'이지만 정작 저울 안의 공식과 상수가 무엇인지 모릅니다. 어떤 정육점의 가게 주인은 호기심이 굉장해 공식과 상수를 알고 있는 경우도 있다고 합시다. 그런데 그 가게 주인조차, 그 공식의 논리적인 연결을 이해하는 것일 뿐, 그 안의 상수가 어디서, 어떻게 나온 것인지 모릅니다. 이 주인은 앞의 '고기 박사'보다 더 많이 아는 사람이므로 '고기 교수'라고 합시다. 이제 물음을 던져 봅시다. 고객인 우리는 고기 무게에 관하여 주인을 신뢰할 수 있을까요? 답은 아니오 입니다. 그들이 거짓말 쟁이일 수도 있지만 세상에서 가장 정직한 사람이라고 해도 이 질문에 대한 답은 '예'가 될 수 없습니다. 그 상수가 '왜' 하필 그렇게 생겨 먹은지 모른다면 저울이 지시하는 고기의 무게 값이 정확한 건지 말할 수 없기 때문입니다. 그럼 누가 알고 있을까요? 저는 알 수 없습니다. 그러나 저는 확실히 한 가지는 알 수 있습니다. 고기 박사와 고기 교수보다 저울을 만든 사람이 더 잘 알고 있을 것이란 것을. 그러나 사람들은 실제로 고기를 다루고, 썰어서 팔고, 값을 정하고, 어느 부위가 맛있다는 재미난 정보를 주는 고기 박사와 교수만을 바라봅니다. 그리고 그들을 믿습니다.

¶7 윗 단락에서 무슨 이야기를 한 건지 다 아실겁니다. 지금의 물리학이 그렇습니다. 가게 주인과 고객, 저울이 각각 누구와 무엇에 빗댄 것인지도 아실겁니다. 이 비유를 든 것은 이러한 현상이 비단 물리학에만 머물지 않는다는 것을 말하기 위함입니다. 고기의 본질을 자연의 본질에 빗댄 것이기에, 다른 모든 사회현상의 본질에 관해서도 사정은 마찬가지입니다. 제가 친모를 찾는 과정에서 절절히 느낀 건, 제가 친모와 떨어지게 되었고, 그것이 비밀에 부쳐져야 했고, 그 진실에 접근하는 것 자체가 불이익으로 돌아오는 현실이 위에서 언급한 비유가 등장하게 된 배경과 무관하지 않다는 것입니다. 세상은 너무 많은 거짓으로 둘러쌓여 있습니다. 그것은 거짓이 또 다른 거짓을 낳았기 때문에 그렇습니다. 그러나 대부분의 사람들은 불행히도, 자신이 거짓 속에 있는 줄 조차 모르는 것 같습니다. 저는 지금까지 써온 글들에게서 무의식적으로든 의식적으로든 '노예'라는 말을 참 많이 썼던 것 같은데, 그것은 인식조차 불가능한 거짓의 층위들 때문에 그러한 것이었습니다. 어차피 자신의 의지대로 삶을 살 수 없는 상태를 가리키는 의미에서의 '노예 상태'야 오래 전 부터 있어왔던 것이었고, 불평등은 이미 태어날 때부터 존재하는 것이니까 이런 형식적인 의미에서의 노예는 언급할 이유가 없는 것이었지요. 사람이 제가 의미 하는 '노예 상태'에 놓이게 되는 것은 바로 사람 그 자신들 때문인 것 같습니다. 교만하고 탐욕스럽기 때문이라고 생각합니다. 자신이 거짓 속에 있는 줄도 모르고 거짓을 행합니다. 죄를 짓는 줄도 모른 채 죄를 짓습니다. 상대가 내가 행하는 거짓을 모를 것이란 교만 때문이고, 내가 행하는 거짓의 결과가 상대에게 피해를 주는 건 아닐거란 무지 때문이며, 그 결과가 내게 큰 이익을 주기에 추구할 수 밖에 없는 탐욕 때문입니다. 더 큰 문제는, 이 세계를 유지하려면 인간들은 이러한 어이 없는 짓을 계속해야 된다는 것이겠지요.

¶8 오늘은 한국에서, 제가 보기엔 전혀 그렇지 않은데 누군가의 눈에는 매우 중요한 선거가 있는 날입니다. 가장 큰 두 도시의 장을 뽑아서 그렇고, 그게 곧 이어질 대통령 선거의 결과로 이어진다고 여겨 그렇게 생각하나 봅니다. 저는 이 글을 마무리하고 투표하는 대신 영화나 보러 갈까 생각 중입니다. 혹시 이것도 누군가의 바람대로 되는 것일까요?^^ 저는 가난해서 한국의 사회복지제도 중 하나에 기대고 있는데, 거기서 "문화생활"을 하라고 보조해 주는 일정 금액이 있습니다. 영화나 도서 구입 등 사용처가 한정돼 있어서 먹을 거 대신 이런 곳에 쓸 수 밖에 없거든요. 대신 영화관 안에서 맛있는 팝콘을 사 먹으면 됩니다^^ 특히 오늘은 이 복지제도의 수급자들이 영화를 볼 경우 반 값으로 볼 수 있는 행사를 하는 날이라서요. 날도 참 따뜻하고 좋습니다. 제가 추위를 싫어하고 더위는 그러저럭 잘 견디는 편인데, 이것도 친부모님의 영향이 크겠지요. 제가 친모를 찾았던 중요한 이유 중 하나는, 생존여부를 알아 보기 위한 것이기도 했습니다. 누군가 제게 기를 쓰고 감추는 일이 있었고, 행여나 그것이 제 친모의 안부와도 관련된 게 아닌가 싶은 생각에서였지요. 제게 숨기는 일이라면 제게 안 좋은 일이었을테니까 말입니다. 만약 저 윗 단락에서의 추측이 맞는다면 적어도 친모께서 잘 살아 계신 것이니 걱정은 덜었습니다. 물론 이 또한 단정짓기 힘든 일이겠습니만요. 사진 속의 그 분은 참 아름다우시더군요. 참 고무적인 일입니다만, 이 역시 제가 순진하게 마음에 품고 행복을 자아낼 수 있는 일인지 모르겠습니다. 지금까지 그러했듯, 앞으로도 그저 바보처럼 살려고요. 바보에게 위로가 되는 라틴어 경구가 하나 있습니다. 도서관에서 컴퓨터를 쓸 수 있는 시간이 다 되어 가네요. 그 경구로 마무리하겠습니다. Fortuna favet fatuis.

 

*この文はNAVERのオンライン翻訳サービス「パパゴ」を利用して下書き翻訳後、整え作成したものです。